自分の生き方、働き方を見つめて、キャリアを選択する

PARaDE株式会社 取締役 / 有限会社BACH 代表・ブックディレクターの幅 允孝氏

セッションはまず、幅氏がこのテーマに関して最近考えていることの共有から始まった。

幅氏「今の時代働き方が多様化しひとつの会社で働き続けることが主流ではなくなったように思います。とはいえ、選んだ選択肢が必ずしも幸せとは限らない。

私自身、40代になって自分の生き方、働き方を考えたときに、東京は物事の進む速度が早く、自分にとってヒューマンスケールを超えている気がしたんです。そこに疑問を感じて、時間の流れの遅い場所をつくりたいと思い、京都に引っ越しました。

今日は、人生の来歴で働き方を大きく変えたお二人をお呼びして、いろいろ聞いていきたいと思います」

人生のフェーズによって、適した選択は変化する。ゲストの二人は、どのようにこれまでを過ごしてきたのだろうか。

篠田氏は慶應義塾大学経済学部卒業後に、株式会社日本長期信用銀行(現・株式会社新生銀行)に入社。現在取締役を務めるエール株式会社は6社目の所属先であり、これまで5回の転職を経験している。

エール株式会社 取締役 篠田真貴子氏

篠田氏「会社は変わっても、私の専門性や得意なことは事業部のファイナンスです。株式会社ほぼ日ではCFOとして上場の陣頭指揮にあたりましたが、自分としてはずっと組織と人の関係性がテーマ。この場で人がどう生かされるかに意識が向いていますし、会社から社会変革に関わっていると思っています」

現在は、様々な組織に関わってきた経験を活かし、取締役としてエール株式会社に関わる篠田氏。組織改革を進める企業を支援するため、社外人材によるオンライン1on1サービスを活用し 研修プログラムを提供している。

篠田氏「「聴いてもらう時間」が増えること、「聴いてもらうこと」によって一人ひとりがより自分らしくあれる社会に近づくことを目指して経営にあたっています。

利害関係のない第三者の立場で、良質な「聴いてもらう時間」を提供しており、3500人近くの方が副業で「話を聴く」という関わりをしてくれています。

ご縁がつながって、2021年には聴く力に関する書籍『LISTEN―知性豊かで創造力がある人になれる』を監訳させてもらました」

順調にキャリアを選択してきたように見える篠田氏だが、2人の子どもを育てる母でもあり、自分のペースで仕事を選べないことの無力感を感じてきたという。セッションでは、こうした葛藤にどう向き合ってきたのかも語られた。

江口氏は、新卒で株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントに入社。5年働いたあと退職し、インターネット関係の仕事に携わりつつ、独立してブックショップ「ユトレヒト」を開業した。

2016年より、千葉県夷隅郡大多喜町にある蒸留所「mitosaya」をスタート。薬草園を併設した敷地で栽培する果樹や薬草・ハーブ、全国の信頼できるパートナーたちの作る豊かな恵みを使い、発酵や蒸留という技術を用いてものづくりを行っている。

mitosaya薬草園蒸留所 代表 江口宏志氏

江口氏「先ほど篠田さんがファイナンスの分野でずっと仕事をしてきたと話していたように、一般的には何かの職能があって、それにフィットする会社に入ると思います。僕は昔は本屋さんをやっていて、今は蒸留家。“特異”に関していえば、僕は職種を変えながら仕事をしてきのたところかなと感じます」

2023年には清澄白河にノンアルコール飲料の製造・充填を行う都市型のボトリング工場「CAN-PANY」をオープンした。実に様々な事業を経験した江口氏は、自分の興味のある分野を開拓、探求することによって、仕事の幅を広げてきたように見える。

江口氏「仕事における節目節目には、経験や考えをまとめていきたくて一冊本を書いています。これまでのテーマは、ブックデザイン、本にまつわる活動、自分のライフスタイルや生き方、蒸留所を作るなど。私は自分の成長を事業にしてきたんじゃないかと思っています」

女性として働く難しさを感じ、自身のライフスタンスを意識するように

自分のやりたいことやビジョンを持ち、着実に仕事をつくってきたように見える二人だが、これまでの歩みを振り返ると、仕事へのスタンスには様々な変化の波があったという。

何を考えて仕事を選んできたのかを話すにあたって、それぞれの人生をチャート形式で表現した「ライフラインチャート」が紹介された。

横軸は年齢、縦軸はポジティブとネガティブが両極にあり、人生で様々な出来事が起こるなかで、自分の感情がどのように変化したかが表になっている。

篠田氏のライフラインチャートは、大学卒業とともに、ポジティブな新卒就職からスタートしている。

篠田氏「1986年、私が高校生だったときに男女雇用機会均等法ができました。女性でも大きな会社で責任を持たせてもらえる仕事につけるようになったので、希望を持って就職活動をしましたね。

1991年に株式会社日本長期信用銀行に就職しましたが、銀行や金融に興味があったわけではなく、たまたま最初に内定をもらったから。就活生に人気があり社会的評価が高い会社で働けることは、嬉しかったです」

しかし、篠田氏はすぐに女性として働く難しさを感じるようになり、銀行という仕事の仕組みと自身の人生感の違いにも悩んだという。

篠田氏「会社での人間関係は問題がなかったのですが、当時の社会はまだ女性が働くことが環境的に難しかったように感じました。

働き始めたのはインターネットが普及する前なので、電話で業務の連絡がきていたんです。私が電話に出ると、必ず「男性はいますか?」と聞かれるんですよ。「女性では話がわからないだろう」という相手の意図が見え、自分が担当者だと伝えると驚かれることにも心のダメージがありました。

また、銀行には異動があり、転勤も多いです。大人になったのに、自分で住みたい場所を自分で決められないことも、自分にとっては違和感でした。仕事と自身のライフスタンスの違いに気づいてしまい、そこから自分が女としてどう生きるかを考え始めました」

20代後半で結婚し、4年勤めた会社から転職。さらに3回目の転職でマッキンゼー・アンド・カンパニーに勤めた篠田氏は、その退職時に人生最高の落ち込みを感じたそうだ。

篠田氏「今思えば、『自分は仕事ができる』と思い込み過ぎたことが原因だと思っています。入社当初は評価が高かったので、私は調子に乗って天狗になっていました。周りの期待値と自分のできることに乖離があったのですが、自分ではそれがわからなくて。

一度上司に厳しく諭されたので、そこから懸命に努力をしたのですがリカバリーができず、最終的に転職することになりました。今も会社とは良好な関係性が続いていますが、その当初は落ち込むというよりも、自分を恥じる気持ちが強かったです」

その後、ノバルティス ファーマを経て、ネスレ日本に入社。世界最大の食品会社で、事業部の事業計画や予算の策定・執行を担当することになった。

篠田氏「外資系の企業だったこともあり、昇進は年功序列ではなく実力重視。私は昇進のタイミングが二回あったのですが、その二回目では、なぜかモチベーションが上がらなかったんです。客観的に見ると嬉しいことだと思うのですが、主観的には部下の数と予算が増えるだけのように感じてしまい、戸惑いました。

このモチベーションの低さだといけないのではないか、とモヤモヤを抱えていたときに、ある友人が『私は部下が5人より、100人のほうが嬉しい』と言いました。その一言で、人によって仕事のどのような点に喜びを感じるのかという価値観が違うのだとフラットに意識したんですね。部下が多いことに喜びを感じる人が昇進するのは、社会にとっていいこと。でも自分は違ったんです」

自身の組織に対する価値観に改めて気づいた篠田氏は、その頃2人の子どもの子育てに意識が集中していたこともあり、そこで働くことを時間的にも精神的にもつらく感じるようになったという。

篠田氏「その後、自分の生きるうえでのスタンスをより自覚できるようになったのは、『ほぼ日』という選択肢が目の前に現れたときです。ほぼ日からCFOにならないかというオファーがあり、これまでと全然違う場所にいくことによって、自分が大事にしたいライフスタンスが確認できるのではないかと思いました」

それまでは一人ひとりがその日のコンディションを職場に持ち込むことは、世の中では認められないことだと篠田氏は感じていたが、ほぼ日では働き方が大きく変わった。

篠田氏「子どもが熱を出したんですが、元気いっぱいで全く寝てくれなくて。そういうときは子どもを会社に連れて行って、オフィスに座らせておいたり、同僚が遊んでくれているときに会議したりしていました。

家族を大事にしたいけれど、仕事もめいっぱいやりたいし、学んで成長したい。その両方を可能にするような、人として生きることと働くことをつなげた働き方ができて、本来人間ってこういうものではないかと感じましたね」

自分の趣味や生活を広げて、自分なりの仕事をつくる

次に、江口氏のライフラインチャートが紹介された。縦軸の「ポジティブ/ネガティブ」の脇に、江口氏は「イケてる/飽きてる」という文言を付け足した。

江口氏「『飽きる』は自分にとって大事なキーワードで、自分がやっていることに飽きるのが怖いんですよ」

チャートの波線の高い部分には、その当時自分がポジティブに感じていたキーワードが書き込まれているという。

江口氏「20代はアウトドアが大好きで、大学卒業後にカヌーをやっていたんです。カヌーは日本で競技人口が少ないため、あまりいい船舶が売っていないんですが、イギリスは日本より盛んなので、選手はすごくいい船舶に乗っていました。

ある時、イギリスのカヌー選手が白いライフジャケットを着ていて、かっこいいな、こんなのほしいなと思ったけど日本には売っていないのでイギリスまで行ったんですよ。その経験から、自分が好きなものを取り扱う仕事がしたいと思いました」

販売業に関わりたいと感じた江口氏が就職したのは、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント。通販部門である株式会社ソニー・ファミリークラブにて、通販ビジネスに携わるようになった。

江口氏が社会人になった1990年代半ばごろ、インターネットが本格的に普及し始め、インターネットで商品を購入する流れが生まれていた。その状況に江口氏は心を踊らせていたが、社内でのインターネット通販への取り組みが積極的ではなかったことに加え、ショールームのスタッフやカタログ商品の仕入れ部門を担当していたため、やりたいことができない状況だったという。

江口氏「当時の勤務先が海の近くだったので、オープンカーを買って、朝はサーフィンをやって、夕方に国道沿いで古本屋を巡っていたんです。インターネットを使って商品を売ってみたいけれど、会社ではできない。だったら、自分でものを売る仕事をしようと思い、何か売るとしたら“自分が好きな本”だなと思い始めたんです」

5年勤めた会社を辞め、知り合いのウェブの制作会社の手伝いを始めた江口氏は、オンライン古本屋を始めた。2002年にはオンライン書店「ユトレヒト」を立ち上げ、代官山にリアルなブックショップ「ユトレヒト」をオープンした。

江口氏「自分の生活や趣味を拡大していったら、仕事になったんですよね。でも2010年頃にはセレクト書店がブームになり、さらにSNSで誰もが自分の表現ができるようになったときに、個人の「感動」や「好き」に対して、どうしても商売から逃れられない「本屋さん」が太刀打ちするのは難しいなと思うようになりました。」

ジョブレス期間を設けることで、今の自分を観察することができた

二人の共通点として、40代で一定の仕事をしない期間を設けていることがある。40代になってからこれまでのキャリアを大きく変えることに、不安はなかったのだろうか。まず篠田氏は、ほぼ日が上場した後、2017年に辞めることを決めた。

篠田氏「辞めたのは一言でいうと、上場したことにより『ミッションコンプリートした』と感じたからです。上場後には会社としてのリズム、ルーティンも回るようになった。この会社が好きだし貢献したい気持ちもあった。でも、これ以上自分にできることはないと感じたんですね」

その後、仕事をしない「ジョブレス期間」を1年3ヶ月ほど設けた篠田氏。その理由は、「ほぼ日のCFO」という肩書きを一度リセットしたかったからだという。

篠田氏「自分が次に進むときに『ほぼ日のCFO』という役割を期待されても困るので、それを忘れてもらわないと次の仕事でフラットに関われないと感じました。

ちょうど知り合いに『せめて半年、できれば1年はジョブレス期間を設けた方がいい。きっとその先に広がる世界があるから』と言われたこともあり、1年3ヶ月の仕事を休む期間をつくりました。それがあったおかげでエールに出会うことができたと思います」

長期間休むというと、周囲から「金銭的な不安はなかったか」と聞かれることもあるが、それよりも自分の価値観を見直したい気持ちが強かったそうだ。

篠田氏「『篠田真貴子』という存在があって、それが社会とどうつながるかがわかるといいなと思っていました。これまでの肩書きがなくなったとき、この人はどう動いて、仕事はどうなるか、経済的には成立するのか、とパーソナルな自分が観察しているような感じでしょうか。

もちろん20代でジョブレス期間を設けてもいいと思いますが、40代でやったからこそわかったこともあるので、自分とは違う経験になるのではないかと思います」

自然や動物を間に置いた人間関係は、「飽きない」から面白い

江口氏は、40代でユトレヒトを辞め、新たなことに挑戦する自由な時間をつくったという。

江口氏「篠田さんは『ジョブレス期間』と言ってましたが、それだと自分にはかっこよすぎるので『無職』と書きました。

働いていない期間は、好きな本をいっぱい集めて読んでいましたが、読んだ本に自分が影響を受けて、「自作自演フィルターバブル」みたいなことが起こってしまって。

その頃、自然のなかに身をおいて自分なりの表現をしてる人に魅力を感じるようになって、自分も挑戦してみたいと思ったんですね」

転機が訪れたのは、とあるオーストラリアのフードジャーナル誌で、クリストフ・ケラーという蒸留家の記事を読んだことだった。

江口氏「ケラーはもともとドイツで出版社を主宰していて、本の世界に居た人が蒸留家に転身するのは面白いなと思いました。本を読んでた人がお酒をつくっているということは、本の表紙がお酒のラベル、本の中身がお酒の中身なんじゃないかなと。実際に彼が作ったお酒を飲んで感動して、それがきっかけで、僕も40歳過ぎてから蒸留家を志しました」

2013年に南ドイツに渡った江口氏は、ケラーが営む蒸留所で技術を学んだ。そこで学んだことを日本の豊かな果樹で表現したいと考え、帰国後の2016年にはmitosaya株式会社を設立。千葉県大多喜町にある元薬草園で蒸留酒づくりをスタートさせ、現在も様々な挑戦を続けている。

新しいことを始めるとき、「本当にうまくいくだろうか」という恐れが生じる人も多いだろう。江口氏はこれまでと全く違うジャンルに飛び込むことに、抵抗はなかったのだろうか。

江口氏「ユトレヒトを始めるときも、本屋で勤めた経験がないからこそ、取次を挟まず直接本を取引したり、個人で出版するZINEを扱うなどができたと思います。それが自信につながり、これまでと全く違う場所に身を置いて、自分の感覚を使うことが楽しくなりました。

へそ曲がりかもしれないけど、そういった自分の経験は実績だと思ったので、このときも蒸留くらい本屋からジャンプするようなことをした方が、自分がやってきたことを活かせると思ったんです」

結果として、地方に住みながら、今まで関わったことのない分野、年代の人たちと仕事をつくっていくことは、江口氏にとって刺激的だという。

江口氏「アンコントローラブルなものを周りに置くことは本当にいい。地方に行くと周囲がおじいちゃんとおばあちゃんしかいなくて、今までの価値観では絶対に話が合わないし共通項もないと思っていたんです。でもみなさんのつくっている農作物を間において話すと、いくらでも話せるんです。

正直なところ、本の仕事をしていたときは人間関係がギスギスすることも多かったのですが、自然や動物を間においた人間関係はとてもスムーズだなと思います。予測不能だから飽きないんですよ。自分の人生においては、飽きることが本当につらいなと思います」

答えは自分のなかにしかない。居心地の悪さや違和感を大切に

二人とも、自身のライフスタンスを大切に生きているが、毎日の忙しさで自分の考えがわからなくなることもあるだろう。最後に、もしも自分の発する声を聞けなくなったときには、どうしたらいいのかを、幅氏が問いかけた。

篠田氏「居心地の悪い思いをしてみるといいと思います。就職活動でも、転職時でも、ずっと面接で『子どもできたら仕事続ける?』と聞かれて、『続けますよ』と答えるんですが、スタンスが揺らがないんです。

そんなことを聞かれる体験は嫌なものですが、仕事と子育て両方を頑張りたいという気持ちは変わらないから、相当思いが強いんでしょう」

江口氏「自分はあまのじゃくだし人の言うことを聞かないけど、みんなそうだと思うんですよ。人に相談して納得したと思っても、行動できるかといえば別の話で、自分のなかにしか答えはない。

結局、散歩しかないと思います(笑)。散歩は考えごとにいいですよ。特に犬と散歩するのが好きなんですけど、インプットもあるようでないし誰と話すわけでもない。体を機械のように運動させながら頭の中をぐるぐる回していくんです」

二人の話を伺い、仕事を選んでいくうえで何よりも大事なのは「自分の違和感に正直であること」だと感じた。人はきっと、今自分が何を思っているのか。何を大切にしたいのかわからなくなったときに、苦しさを感じるのだろう。

もしそんな時期が来たら、立ち止まって、休んでみることも必要だろう。

たった一度しかない人生。できるなら自分の価値観を大切に、自分のしたい暮らしと仕事の両方を叶えられるように働いていきたい。

その働き方が社会全体に広がれば、きっと“よく生きる”ことができる人が増えるだろう。

二人の歩んできた道のりから、そんな希望をもらった時間となった。