「うっかり」人助けをしてしまう、チロル堂の仕組み

チロル堂は、貧困や孤独などの環境にある子どもたちを地域で支えるために作られた、奈良県生駒市にある「駄菓子屋」だ。吉田田氏らが同活動をスタートしたのは2021年10月のこと。以来、あえて支援対象を限定しないという姿勢や「チロる」と呼ばれる独自の仕組みなどに対し、多くの注目が集まり続けている。

2022年7月には、石川県金沢市で新店舗をオープン。今年は新たに全国5カ所での展開を予定しており、その活動は着実に広がりを見せている。2022年11月には2022年度グッドデザイン大賞を受賞するなど、福祉のみにとどまらず、異分野からも様々な評価が寄せられてきた。

チロル堂ではまず、子どもたちは入店後ガチャガチャを回す。カプセルの中には「チロル札」と呼ばれる店内で使える独自通貨が1〜3枚入っており、1枚で100円分の駄菓子を買えるほか、通常300円のジュースや500円の特製カレーとも交換できる。
この仕組みが結果として、孤独や貧困に苦しむ地域の子どもたちを救うことになる。この仕組みは、同所を訪れる大人たちによる支援で成り立っているが、それはいわゆる“寄付”とは少し毛色が異なる点が特徴的だ。

吉田田氏「チロル堂では、大人たちがチロル堂で払った代金の一部が、子どもたちのために寄付される構造になっています。大人たちにはカレーやコーヒー、お弁当、夜は『チロル堂酒場』をひらいてお酒も販売しており、その購入代金の一部が寄付になっている。

この『寄付をする』ことを、僕たちは『チロる』と呼んでいます。大人たちがチロってくれたお金によって、子どもたちのための循環が成立しているんです」

吉田田タカシ(ヨシダダ タカシ)|「アトリエe.f.t」代表、「まほうのだがしやチロル堂」共同代表、バンド「DOBERMAN 」ボーカル

「大人たちは、チロることを目的にチロル堂を訪れるのか?」という佐々木氏の問いかけに対し、吉田田氏は「『はい』とも『いいえ』とも言えない」と答えを返す。この言葉にこそ、チロル堂が持つ魅力が込められている。

吉田田氏「自分がやりたいことをしていたら、気づいたら人助けになっていた。チロル堂を訪れる大人の中には、そんな体験をする人も少なくありません。

たとえば、僕たちが販売するカレーは大阪の名店『創作カレーツキノワ』のチキンキーマカレーです。カレーだけでありません。コーヒーをはじめ他の料理もこだわって作ったものをお出ししています。

なぜかというと、『好きなカレーを食べるために来てお金を払ったら、結果としてチロっていた』というある種の『うっかり』が生まれるかもしれないからです」

吉田田氏「1日限定のポップアップストアをやって、その日の報酬をすべてチロって帰った人もいました。理由を聞いたら『ずっとやってみたかったことをやれて、めちゃくちゃ楽しかったから!』と。

やってみた結果、その日は楽しめたことが何よりもの報酬であり、それで十分だった。だからこそ、最初からチロるつもりではなかったけれど、最後は自分からその選択をしたんだと思います。

特に意図せず、気づいたら『うっかり』人助けをしてしまう。そうした循環が巡る場所にしたいと思って、チロル堂を運営しています」

「与えられる」立場を作ることなく、人助けを循環させる

こうしたチロル堂の取り組みに関する紹介に静かに耳を傾けていたのが、美学・現代アートを専門とする研究者・伊藤亜紗氏だ。

氏は、2020年より東京工業大学に設立された「未来の人類研究センター」の初代センター長として、設立からの5年間「利他」をテーマとするプロジェクトを進行している。2021年には、伊藤氏を含む所属研究者で、共著書『「利他」とは何か (集英社新書) 』も上梓した。「利他」という観点で見たとき、伊藤氏の目に、チロル堂はどう映っているのか。

伊藤氏「まず訪れる人を『与える側』と『与えられる側』に区別しないことが、チロル堂の素晴らしい点だと感じています。

『与える』という行為には、良い面だけでなく悪い面もあります。たとえば、何かを与え続けることは、結果として人の行動をコントロールしたり、支配したりすることにつながるかもしれない。

また、与える/与えられるという構図を前提にすると、人が人をジャッジするようになっていくことがあります。つまり『この人は本当に困っているのか』、『本当に手助けを必要としているのか』など、色々な物差しで与えられる人を測ろうとしてしまう。そうしてジャッジされること自体が、誰かの苦痛やしんどさにつながってしまう場合もあります。

一方で『お店を訪れてガチャガチャを回す』という行為は能動的なものです。だからこそ、子どもたちを与えられるという受動的な立場にさせない。それが結果として、与える/与えられるという構図をはっきりさせることなく、でもたしかに人助けが循環する仕組みにつながっているのではないでしょうか」

伊藤亜紗|東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授

続けて吉田田氏の言う「うっかり」、言い換えれば「想定外の行動」が生まれうる機会として場が育まれている点にこそ、チロル堂の魅力が現れていると伊藤氏は言葉を続ける。

伊藤氏「たとえばガチャガチャも、札が何枚出てくるかは引いてみるまでわからない。大人たちもふっと思いついたやりたいことをやってみた結果、いつの間にか『チロる』へつながっていることもある。一般的な寄付にはない、想定外を生み出す要素がたくさん含まれています。

それこそが、チロル堂を何度も訪れたくなる魅力であり、この場所で人助けが循環し、広がり続ける理由だと思うのです。そしてその根底には、どんな人も受け入れてくれると感じられるお店の雰囲気や人柄があるのだろうと感じています」

「よくわからない」状況をうつわとして受け入れ、見守る

「与える/与えられる」の構図にとらわれないからこそ、訪れる人々の意図されていなかった能動的な行為がゆるやかに引き出されていく。それが積み重なることで、チロル堂にしかない人助けの循環が立ち現れる。

伊藤氏から見たチロル堂の魅力を表現した言葉に対し、吉田田氏は何度もうなずきながら共感と、感謝を示した。その言葉を受けて、チロル堂を着想したきっかけを話してくれた。

吉田田氏「チロル堂が生まれたきっかけの一つに、僕自身が子ども食堂に抱いていた違和感がありました。

たしかに子ども食堂は素晴らしい活動です。その考えは今も変わりません。一方で、子どもたちが『与えられる側』の立場に置かれやすいこと、それによって活動の実態と理想が少しずつ乖離していくことに、少しずつモヤモヤした気持ちを抱くようになっていました」

※編注:子どもやその保護者および地域住民に対し、無料または安価で食事や団らんの機会を提供する社会活動の一つ

吉田田氏「子どもたちはそこで食事することになんだか情けなさを感じたり、どこか格好悪さを覚えたりしないだろうか。そんな思いをするくらいなら、むしろ我慢して自分を守ろうとするのではないか。

あるいは『自分は他の子に比べれば食べれているから』という理由から、なかなか訪れられない子どももいるかもしれません。その背景にあるのは、『他の困ってる子どもたちの食事を奪わないように』という優しさなんです。

もちろん劣等感を植え付けるための場所ではないし、どれくらい困っているかをジャッジするような場所でもありません。にもかかわらず、来たくても来れない子どもたちがいる。

その構図がみんなの善意や優しさによって生まれていることを、すごく残念に感じていました。そんな自分の想いを活かして作ろうと考えたのがチロル堂だったんです」

その想いを体現した場所にするために、吉田田氏はいかにチロル堂という場づくりと向き合っているのだろうか。

最も心がけていることの一つとして挙げたのは、「日々起こる想定外に対して、それらを正そうとするのではなく、受け入れて見守ること」。あえて仕組みを洗練させず、カオスを受け入れられる状態であり続けることを大切にしているという。

吉田田氏「下校時間になると一斉に多くの子どもたちがお店を訪れます。一方で、それぞれの目的や使い方は本当にバラバラ。ゲームをして遊ぶ子たちもいれば、宿題を広げてみんなで勉強する子たちもいる。とにかく、みんなワチャワチャしてるんですよ。

僕はそのカオスな景色を眺めながら、『ああ、これこそ見たかった景色の一つだなあ』といつも噛み締めています。子どもたちに占拠されてるとも言えるこの状況を、そのままにしておきたい。よくわからないけど、この状況だけはいつまでも大事にしよう。スタッフたちと、いつもそうやって言葉を交わしています」

吉田田氏の語るチロル堂の様子、およびそれを見守る氏のまなざしは、伊藤氏の共著書『「利他」とは何か』のなかで言及される「うつわ」という言葉に重なるものがある。以下同書より一部引用したい。

利他についてこのように考えていくと、ひとつのイメージがうかびます。それは、利他とは「うつわ」のようなものではないか、ということです。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもあるでしょう。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさにさまざまな料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようです。

吉田田氏の「そのままにする」姿勢こそが、チロル堂を「うつわ」のような状態へと変容させていき、やがて誰かにとっての「利他」へと結びつく流れを作りだしているのかもしれない。

伊藤氏「『チロる』という行為は、必ずしも本人が与えようとしてないのに、自然と『漏れ出ている』もののようにも思えるんです。そしてその漏れ出る利他を受け取るかどうかは、受け取る側が能動的に選択ができる。

そうした状態が生まれるのは、チロル堂を訪れる人たちもまた、皆うつわのような余白を持っているからではないでしょうか。だからこそ、互いに色々なものを受け入れながら、その場における互いの可能性を引き出し合うことにつながっている。その結果として、一人ひとりから利他が自然と漏れ出るように現れてくるのだと思います」

自分のストーリーを押し付けず、相手のストーリーを面白がる

自分自身がうつわのような余白を持つからこそ、お互いの可能性を引き出すことができる。その結果、お互いから漏れ出るように利他の姿勢が発露していく。

吉田田氏はこの整理を踏まえた上で、「とはいえ、相手に対してどうしても見返りを求めたくなる瞬間がある」と率直な想いを言葉にした。その上で同氏は、「その感情こそが利他の広がりを阻む要因になってしまうのではないかと、少しモヤモヤしている自分もいる」と言葉を続ける。

どうすれば見返りを求めてしまう自分を乗り越られるのか?吉田田氏からの問いかけに対し、伊藤氏は考えを巡らせながら、「乗り越えなくてもいいのかもしれない」と言葉を重ねていく。

伊藤「それ自体は自然な気持ちだと思うので、無理に乗り越えようとしたり、打ち消そうとしたりする必要はないと思います。その上で、自分のストーリーや計画を押し付けようとしない、固執しないという姿勢が重要なのではないでしょうか。

たとえば『電車でお年寄りに席を譲ったけど、座ってくれなくてショックを受けた』といったエピソードをよく耳にします。でも本来は、ショックを受ける必要はないことのはずです。

それなのにショックと感じるのはなぜなのか。その気持ちは、やっぱり譲る側の台本というか、譲ろうとした人にとってのストーリーが本人の中にあって、その通りにいかなかったことから来ているのではないでしょうか」

伊藤氏「譲る人にとってのストーリーがあるように、譲られる側にもストーリーはある。大切なのはお互いのストーリーや計画を必要以上に押し付けず、互いに尊重し合うことだと思います。思うようにいかないことを、面白がれるかどうかとも言えるかもしれません。

面白がれるだけの余白を持っていることで、それまで以上にお互いが手助けを躊躇なくやれるようになるかもしれない。そうした一人ひとりの積み重ねが、社会の中でより利他の姿勢や取り組みが浸透していくことにもつながっていくのではないでしょうか」

吉田田氏「なるほど。たしかに、僕も電車で席を譲ろうとしたとき、どことなく相手に対して『してあげた』みたいな感覚が残ることが多いです。でも今の話を聞いて、それはある意味自分のストーリーに沿った気持ちであり、ある種少しの暴力性を含んでいるようにも感じました。

利他的な行為をしようとしてるはずなのに、いつの間にか受け取らない選択肢を認められないという利己的な部分が含まれてしまっている。改めて、相手の選択の自由を受け止めることも重要なのではないかと感じています」

自らのストーリーを押し付けるのではなく、互いが互いのストーリーを共有し、受け入れ合い、面白がる。それが連なれば連なるほど、「利他」の広がる社会へと変化していくのかもしれない。チロル堂は「駄菓子屋」として、その連なりを日々生み出している場所の一つとも言えるだろう。

伊藤「人のためになりたいし、人の助けになりたい。だから自分の行動や想いに応えてほしい。そういった意志やストーリーを持つこと自体は大切である一方で、押しつけになってしまった途端、結果として利他の可能性の芽を摘んでしまうことになるかもしれない。

仕組みや計画に必要以上のこだわりを持たず、それぞれのストーリーを認め合う。互いを受容し合うチロル堂のスタンスや実践は、すごく意味のあるものだと改めて感じています」

人はそれぞれ、暮らしや仕事を含めた生き方に対する自分なりの姿勢や態度を持っている。それ自体に正解はなく、間違いも存在しない。それは同時に、誰かにとっての利益を別の誰かが既定できないことも意味している。

それでも私たちには、お互いがお互いの利益、言い換えれば幸福のために協力したり、支え合ったりできる余地があるはず。その余地を埋めていくのが、一人ひとりの「利他」の姿勢であり、その現れとしての行動なのかもしれない。

チロル堂には訪れる人々のやりたいことを受け入れ、可能性を広げていくための土壌が耕されている。こうした場が増えていくことは、その先にある誰かの新たな姿勢や行動を生み出していくという観点からも、重要な意味を持つのではないだろうか。