花を「いける」ということ

「いける」とは、簡単に言えば「いのちを与える」ということだ。「いけばな」を英語にする際、「Japanese flower arrangement」と説明されることが多いが、この英訳は明らかに間違っている。この英訳には「いのちを与える」というニュアンスが含まれていない。最も大事なニュアンスがそぎ落とされてしまっている。もし英語で説明するなら、「Give life to the flowers」のように表現するのが正しいだろう。

無論、「飾る」ことと「いのちを与える」ことは違う。「いのちを与える」ことは、その言葉からもわかるように、神聖で特別な行為だ。だからもちろん、そのための知識と覚悟が必要になる。

誰にいけるか、何を願うか

花をいけるときまず考えなければいけないことは、その花は誰のための花なのかということだ。誰もが知る通り、花をいける文化は神の依代や仏への供花をきっかけに誕生した。だから、花をいけるのであれば、その花は神仏のためでなければならない。花をいけるときにまず考えるべきは、どの神仏にその花を捧げるかということだ。

神仏もさまざまである。神道では造化三神や天神七代、仏教では如来や菩薩を筆頭に、日本にはたくさんの神仏が存在する。また、それぞれの神仏に、それぞれが得意とする領域がある。五穀豊穣をもたらす神様もいれば、身体健全をもたらす仏様もいる。今いけようとしている花は、何の願いをもって、誰に捧げるものなのか、まずはそれを明らかにしなくてはならない。

花は神仏のためにいける。だから、花をいけるという行為は常に「どうかご加護いただきますよう、よろしくお願い申し上げます」という願いとともにある。願いなきいけばなは、いけばなではない。

どこにいけるか、何にいけるか

次に、その花をどこにいけるかだ。前述したとおり、神仏に捧げる花なのであれば、神仏がおわす場所でなければならない。

まずわかりやすいのは、神棚だろう。神棚はその名の通り神のおわす場所であり、花を捧げるにはうってつけの場所である。また、床の間も花を飾るにふさわしい場所だ。床の間は仏教にとっての神聖な場所であり、仏具には華瓶(けびょう)と呼ばれる花のための道具も存在している。神棚も床の間も神仏のための聖なる空間であり、祈りを捧げる場所だ。そこに花をいけることは、ごく自然なことである。

ただし、近代の建築ではそのどちらも失われてしまっていることが多いだろう。近代の建築様式は我々が暮らす場所から神仏を追放してしまった。神仏の居場所がないということは、花をいける場所がないということだ。ではどうしたらよいのか。

現実的な解としては、家の中に神仏のための場所を用意することだろう。神棚や床の間でなくとも構わない(仕方ない)。御神符や宗教画を置けば、そこが神仏の居場所となる。できるだけ整理されていて、余計なものが周りにない、清浄な場所がよい。さらに贅沢を言えば、東か南のいずれかを向くような位置が望ましい。

場所が決まったら、次は何にいけるか、つまり器だ。「花のいけ方は器に聞け」という言葉があるほど、器は重要な存在である。神仏に捧げる花をいれるための道具なのだから、それは神器と言っても過言ではない。神仏に対して失礼のない器でなければならない。

だが、そこに決まった答えはない。自らの心を磨き、神仏に向き合うことで、ようやくそのときその瞬間に使うべき器を知ることができる。最初はわからないかもしれないが、花に真摯に向き合い、世阿弥よろしく物数を尽くしていれば、次第にわかるようになるだろう。とにかくたくさんの種類の器を使い、何度も花をいけ続けることだ。そのうちに、いけるべき花もその花のいけ方も、器を見るだけで瞬時にイメージできるようになる。

また、あまり知られていないが、器に水を入れる際に気をつけなければいけないことがある。大変重要なことなので伝えておきたいことではあるが、これは口伝になるのでここで書くことはできない。

何を、どのようにいけるか

そして忘れてはいけない、もっとも大事なことは、どのような花を、どのような形でいけるのかだ。しかし困ったことにこれにも決まった答えはない。こういうときにはこういう花を使ってはいけない、こういういけ方をしてはいけない、こうした方がよい、のような多少のルールはあるが、絶対の決まりではない。どんな花だろうが、何種類の花を使おうが、どのような形にしようが、剣山を使おうが使わまいが、神が喜ぶのならそれでいい。

そう言われてもどうしたらいいのかわからないという人は、とりあえず外に出て、周りを見渡して見るといい。足元にある素朴な花に生命力を教わり、蝶が案内する山道に喜び、その先にある珍しい花に奇跡を見るといい。自分の足で花を探し、花を知ることで、少しずつ、何かが見えてくることだろう。いけばなの世界では、「花は足でいける」と言う。自分の足を使い、山へと出かけ、ときには虫に刺され、ときにはかぶれ、ときには崖から落ちそうになりながら、それを乗り越えて神のための花を探す。そうして、とびっきりの花と出会う。その、花との出会いこそが、花をいけることにおいて最も重要な瞬間なのだ。

そして、山の中での花探しを繰り返していくうちに、自分の身体感覚が少しずつ変わっていくことに気づくだろう。たとえば、ときどき、花の方から目に入ってくるようになる。ほかにも、花が「持っていってくれ」と言ってくるようになる。勘違いかもしれない。気のせいかもしれない。だが、花の修行は世界をそのように認知することを確実に可能にする。

花を「いける」ということ

花は美しい。そこに咲いているままで美しい。「折りつればたぶさにけがる立てながら三世みよの仏に花たてまつる」という歌がある。これは、「花を仏様にお供えしたいと思っていますが、私の手で折り取ってしまうと花が穢れてしまいます。だから、地面から生えて咲いているそのままの姿で、三世(過去・現在・未来)の仏様に捧げます。」という意味の歌だ。この気持ちもよくわかる。だが、それでも我々は花をいけなければならない。いったいなぜか。

錬金術の世界には、「クインタ・エッセンティア」という言葉がある。古代の西洋では、人間の世界を構成する「土・水・空気・火」の4つの元素とは別に、神々の世界を構成する「天」というエネルギーがあると考えられていた。このエネルギーが、「クインタ・エッセンティア(=第五元素)」だ。そのエネルギーは、神々がふとした拍子に地上に落としてしまい、それが植物に宿ったと信じられていた。だから西洋の錬金術師たちは、植物から天のエネルギー(=神のエネルギー)であるクインタ・エッセンティアを抽出することに必死になった。それによって不老不死を目指した。人間の欲望に正直になりながら、神に願った。

日本人も同様に、天に向かって伸びていくたくましい木々や美しい花に神仏の姿を見ていた。そこからいけばなの文化が生まれた。花をいけることで、五穀の豊穣や身体の健全を願った。ただそこにあるだけで美しい花を、人間の手によってより美しいものへと昇華し、神仏に願い、心願を成就させる。それが人間と花の関係であり、いけばなである。

人間はどこまでいっても人間だ。自分の心願のために、神に願わずにはいられない。だから、願いがある限り、花をいけなければならない。

花を「飾る」ことは誰にでも可能である。だが、花を「いける」には、それ相応の知識と覚悟が必要なのだ。少しはわかっていただけただろうか。

そして最後に、読者のみなさんはこう思うかもしれない。「そもそも、神様なんているのか?」と。それについては、「いる」と断言しておく。