“作品は作者の影である。影をよくしようと思へば本体をよくするより外に方法がない。”
—— 山根翠堂

土屋彦左衛門という花道家がいる。江戸時代中期に活躍した花道家で、池坊の門弟である。彦左衛門は長野県の五郎兵衛新田村(現在の佐久)という地域の出身で、花道家としての活動と同時に、地域の用水路を管理する役を務めていた。新田村において用水路の管理が重要な役であったことは言うまでもない。

池坊中央研究所発行の『池坊歴史紀行(2016.11)』によれば、彦左衛門は信濃国(現在の長野県)における池坊門弟のトップに立つ人物で、池坊の発展に大きく貢献した非常に優秀な花道家だったようだ。ぼくはこの彦左衛門の功績の中の一つに、花道の本質を見ている。なぜなら彦左衛門は、花をいけることで雨を降らすことができる、雨乞いの能力の持ち主だったからだ。

佐久にある彦左衛門の墓碑には、「天保8年(1837年)に起こった干ばつの際に「吾挿花術雖一小枝亦有祈雨法」と称して花をいけたところ雨が降った」という伝承が書かれている。
この出来事が真実なのかどうかを確かめるすべはない。もしかしたら誇張されているかもしれない。花をいけたらたまたま雨が降ったという可能性もある。だが、雨を願って花をいけたことはきっと事実だろう。だとすれば、彦左衛門は花道の本質を理解していたと言える。

擬宝珠の花

花は神が評価する

“自分の心の中で合掌して、則天去私、小我を捨て大我につき、人に褒められるより神や仏に褒められる「いけ花」を生けたいと思います。”
—— 山根翠堂(『花に生きる人たちへ』、1967年、中央公論美術出版)

“人を相手にせず、天を相手にして、誠実一本で花をいけるのが最上の道、真の花道だと確信しております。”
—— 山根翠堂(『花に生きる人たちへ』、1967年、中央公論美術出版)

大正・昭和期に活躍した花道家である山根翠堂は、形式や造形美だけが追求されたいけ花に強く危機感を示し、いけ花の「心」を説いた。

花の歴史は依代と供花からはじまったと言われている。依代は神を呼ぶため、供花は仏に捧げるため、対象と方法に若干の違いはあるものの、どちらも神や仏といった超越的な存在のためだったことは間違いない。その意味で山根の言葉は正しい。いけ花が元々神仏のためだったとすれば、人を相手にする必要はない。神に喜ばれればそれでいい。たとえいけた花が人に褒められたとしても、神に喜ばれなければ意味は無い。そして、人にけなされたとしても、神に喜ばれたのなら意味がある。では、どうしたら神に喜ばれたと判断することができるのか。

考えられる方法のひとつは、直接神に尋ねる方法だ。神降ろしの儀式を行い、降りてきた神に直接訪ねればいい。「神様のために花をいけましたが、いかがでしょうか」と。これで神が褒めてくれれば、それは良い花だったと言えるだろう。シンプルで簡単だ。だが、神降ろしの儀式は日本ではすでに絶滅寸前の文化である。不可能ではないが、多くの人にとっては身近な方法ではないだろう。

もうひとつは、結果で判断する方法だ。花が何らかの願いとともに神仏に捧げられているとしたら、心願の成就、祈りの達成をもって花の価値を判断することができる。彦左衛門のように、雨を願って花をいけ、その後に雨が降ったのなら、それはきっと神が喜んだということだろう。彦左衛門がどのような花をいけたのかはわからない。ただ、その花が人にとってどう見えていようが、神が喜んだのであれば、素晴らしい花だったはずだ。

花:青芒・枯芒、器:古南蛮大壺、軸:島崎藤村

修験の花、祈りの花

花道の起源のひとつと言われている供花はもともと、修験道における修行のひとつである。塵を払わん、汚れを除かん。僧は自分たちの心を磨くため、法力を高めるため、毎日山へと入り、花を探し、花をいけていた。
参考)五郎兵衛新田村にみる”宗教”と”村落”(1994、学習院大学史料館)

だから、いけた花が神に届くということは十分にあり得るし、花をいける人間としてはそれを目指さなければいけない。修行を経て、法力が高まった僧であれば可能だろう。

余談ではあるが、ぼく自身も山岳信仰の修行中の身である。護摩焚きによる火の行、滝による水の行など、さまざまな行を通じて、法力を高めることを目指している。これはもちろん、神に通じるまでの法力をもって花をいけ、心願を成就させたいからだ。彦左衛門のように、多くを救うような花をいけたいからだ。
これはぼくが花道という世界に身を置く中でたどり着いた結論のひとつである。花をいける技術とは、道具の使い方や、形の整え方だけの話ではない。山根翠堂が「作品は作者の影である。影をよくしようと思へば本体をよくするより外に方法がない。」と言っていたように、花は自らの影であり、良い花をいけたいなら、自分自身を磨くほかない。だからぼくは行の道へと進んだ。これはごく自然なことだとぼくは思っている。

上手に花をいけるということは、つまり、その花が神の元へと届き、神が喜び、神が願いをかなえ、心願が成就するということなのだ。土屋彦左衛門のように、花によって雨を降らすということなのだ。花の良し悪しを判断するのが神であるのなら、人間に花の良し悪しを判断することは、原理的に不可能だ。

昭和・平成を代表する花人である池坊の岡田幸三もまた僧であった。花道家は僧であるべきとまでは言わない。だが、祈りなき花は、花ではない。たとえ僧でなくとも、そのくらいの心を持っていなければならないし、そのつもりで心身を鍛えなければならない。

“『専応口伝』が「さとりの種」について語ったように、同書以降も花道伝書に「この道」あるいは「花道」などという語が出る時、多くの場合は仏教に託して挿花の意義を語っており、仏道に準ずるものとして花の道を説いている。”
—— 井上治(『花道の思想』、2016年、思文閣出版)

花:雌日芝、器:花入(杉謙太郎作)

聖(ひじり)の心へ

現代の花道家にも触れよう。
小原流の花道家である渡来徹は著書『ととのえる「いけばな」』(2020年、彩流社)の中で、「花を飾る行為は、どんな綺麗事で塗り固めたところで、人のエゴに端を発する。」と発言している。この渡来の発言には嫌悪感を示す人もいるかもしれない。渡来の「どんな綺麗事で塗り固めたところで」という言い方には、自分たちの活動を綺麗に取り繕って正当化しようとする花道家を批判するようなニュアンスも感じ取れる。
確かに、いくら神に願うための花だったとしても、私たちが人間である限り、その願いは人間中心の願いにならざるを得ない。人間としての願いのために花を切る。それをエゴと言うことにも一理あるだろう。

花道家は常に自分たちの活動を正当化し続けなければならない。花の命を奪う者として、なぜ花の命を奪うのか、その質問に回答し続けなければならない。それが花道家としての責任である。
だからこそ、渡来の指摘に対して感情的に反発してはならない。綺麗事で取り繕ってはならない。花道家には、自らのエゴに向き合い、人間の醜さを受け入れ、その上で、それを乗り越えていく真摯さが求められる。これまで紹介してきた山根翠堂もまた、人間の醜さに真摯に向き合った花道家のひとりだった。

“夏目漱石が、生涯をかけて自己の戒律としたのも、この「則天去私」の精神でございます。花をいける者が一日も忘れることのできない心がけでもあります。
これが花を切り取って愛玩せずにはいられない私たちの、せめてもの罪ほろぼしであり、自然の子としての義務でもあると思います。”
—— 山根翠堂(『花に生きる人たちへ』、1967年、中央公論美術出版)

渡来の言う通り、確かに花をいけることは人のエゴに端を発する。花に向かう態度がどうあれ、やっていることは同じなのかもしれない。真摯であれ、不純であれ、結局は人間の都合で花を切っているのだ。どちらも結果的には同じなのかもしれない。
だが、不純な花が雨を降らせてくれるとは到底思えない。雨を降らせてくれるような神が喜ぶ花は、真摯な思いに貫かれた花であるはずだ。

“正義を愛す聖の心を心としなければ、すなわち、真の花道に徹しなければ、一瓶の花だって真の満足にはいけられないのであります。”
—— 山根翠堂(『花に生きる人たちへ』、1967年、中央公論美術出版)

“花道とは「美しき道」であり「正しき道」であります。”
—— 山根翠堂(『花に生きる人たちへ』、1967年、中央公論美術出版)

花道家は聖(ひじり)の心を持って、聖(ひじり)の道へと進まなくてはならない。美しき道、正しき道を歩むための、宗教とも言える心の修行を積まなくてはならない。エゴでありながら、エゴに対抗し続ける、その心を持って花をいけるからこそ、願いがかなう。それが、供花や依代からはじまった花の道である。花によって雨を降らせた土屋彦左衛門もきっと、聖の道を進んだ花道家だったのだろう。

祈りの水脈を絶やさない

花をいけることに宗教性を求めることは、もはや時代遅れなのかもしれない。土屋彦左衛門の話は単なる伝承で、山根翠堂の話は単なる精神論と一蹴されてしまう時代なのかもしれない。
だが、失われたわけではない。現にこの記事を書いている人間がここにいる。彼らに心を打たれた人間がここにいる。ここに一人いるということは、日本、世界を見渡せばほかにもきっといるはずだ。だから花道の真の目的、聖(ひじり)の心、その水脈はまだ途絶えていない。

このちょろちょろと流れる水脈を絶やすことなく、未来につなげていくことが、現代において修験の道に身を置きつつ花をいける、ぼくの使命なのだと思う。だからいまこの文章を書いている。