2018年12月から2020年2月までの間、「デザインをめぐる往復書簡」という連載をしていた。いま読むと恥ずかしい限りだ。とにかくあれやこれやといろんな例を持ち出して、デザインを批判する。ゲームから哲学まで、とにかく外側の何かを言い訳に使い、言いたいことを言い続けている。

「みんなデザインの愚かさに気づいていないのではないか。盲目的にデザインの価値を信じるのではなく、自分たちを正義の使者と勘違いするのではなく、デザインの罪深さに向き合った方が良いのではないか」ぼくが言いたかったことはこれだけだ。

ぼくはデザインに対して絶望していた。自分の信じたデザインが別の方向へ進んで止まらないことを見ていられなかった。だがそれは同時に自分の未熟さを意味する。往復書簡の相手である川地さんは、絶望しながらも、それでもデザインを信じていた。絶望と信頼は同居できる。この連載を通じてそのことを教えられた。川地さんに比べてぼくは未熟と言わざるを得ない。

さて、反省と自己批判はこのくらいにして次へ進もう。

ぼくがいまデザインについてどう思っているかというと、怒りはなく、悲しみもなく、でも楽しみもなく、絶望が少し、といったところだろうか。以前のような強い興味はすでにないというのが正直なところだ。

それでもまだ未練がましくもう少しデザインについて考えてみようと思う。デザインはそれなりにぼくの中で大きなものだった。そう簡単に忘れられるものではない。

ここ十数年で、デザインがビジネスに利用できることはわかったはずだ。デザインをうまく活用すれば儲けることができる。見せたいものを見せることができる。ユーザーを思い通りに動かすことができる。だが、だからと言ってどんなことでもしていいわけではない。法に触れないからといって、人を騙していいわけではない。デザインの文脈でよく語られる行動経済学やナッジ、その悪用は、きっとやってはいけないことのはずだ。

だが現実はどうだろうか。デザインの理論をうまく応用して、ビジネスに生かす事業者が多いような気がしてならない。もちろん法に触れているわけではない。だから罰則を受けない。そして他の事業者もその方法をコピーしていく。こうして1つの時代が作られていく。ビジネスのやり方としては間違っていないだろう。だが、1人の人間の生き方として、それで良いのだろうか。

デザイナーとは一体何なのだろうか。倫理も誇りもないデザイナーをデザイナーと呼べるのだろうか。それはデザイナーではなく、デザインビジネスの担当者でしかないのではないだろうか。

では、その倫理や誇りは一体どうしたら身につくのか。そこに憲法や法のような絶対の指針はない。だから、自分の胸に手を当てて、自分で考えてみるほかない。本当にそれが最善の方法なのか。それを行うことによって悲しむ人はいないのか。それを行う自分の人生に誇りを持てるのか。親や家族、友だちに胸を張れるか。

もちろんすべて綺麗事だ。言うまでもない。だが、デザインには綺麗事が足りない。そんな気がしている。

まずい、性懲りも無くまたデザイン批判をしている。少し話を変えて、自分の話をしようと思う。

ぼくは今、ビジネスを超えた倫理、法をも越える誇り、その宗教性を身につけるために、山岳信仰について学んでいる。どういうことか。

ぼくが所属している山岳信仰の講社では神の言葉が絶対だ。行事の1つに、神を召喚し、神から直接アドバイスをいただくというものがある。そのアドバイスを無視することなどとてもできない。なぜなら神の声だからだ。これ以上の説明はない。神の声はいとも簡単にビジネスを越えていく。我々が科学の進化や資本主義の成長とともに想像力の中から追放した神々だが、決してその存在は失われていない。

読者のみなさんが言いたいことはわかる。それは本当にただの宗教じゃないかと。それにはこう答える。その通りだ。と。ぼくは今回この記事で、宗教を安易に批判するその態度こそを批判したいと思う。

日本は元々信仰深い国である。「八百万の神」や「草木国土悉皆成仏」という言葉に代表されるように、神仏はそこらじゅうにいるし、全国にある神社の数はコンビニよりも多い。また、妖怪や幽霊などのオカルティズムも古くから存在していた。そして、それを許容できる想像力があり、心の余裕があった。しかしその精神性は、明治時代の廃仏毀釈や神社合祀(ごうし)、それに、平成の時代にオウム真理教が起こした事件など、さまざまな要因によって徐々に失われていく。信仰深かったはずの日本人だが、いつの間にか宗教について否定的な感情を持つ人が増えてしまった。しかし、その盲目的な宗教批判に異議を唱えたい。

世界的に見れば宗教とともにある国がほとんどだ。キリストにイスラムにヒンドゥー。日本も昔は神仏を信仰していた。現在の日本の方がよっぽど例外なのである。もちろん、宗教による戦争があるように、宗教が問題を起こすことも多い。だが、とにかく宗教や宗教的なものを脊髄反射で批判する今の日本人の態度は思考停止とも言える。

当たり前のことだが、これは宗教による戦争や宗教が引き起こす事件などを正当化するものではない。だが、世界にはビジネスの論理や個人の欲望を越えた、第三の意思による決定が存在していることは確かなのだ。ここに、倫理のヒントがあるとぼくは思う。

もちろん直接的な宗教でなくとも構わない。たとえば「グッドアンセスター」のような考え方も同じようなものがあるだろう。良き祖先になるための倫理や論理は、個人の欲望やビジネスの論理をやすやすと超えていく。超越的で宗教的で形而上学的な何か。遥かなる第三の意思。見えない鎖。いま社会には、それこそが必要なのではないだろうか。

たとえば、ぼくは四つ足(牛や豚など)をあまり食べない。四つ足はぼくの信仰する神が嫌うからだ。もちろんぼくは牛肉や豚肉の美味しさを知っている。食べたくないわけではない。だがこれは、個人の欲望を超えた、神の意志なのだ。ニーチェが「神は死んだ」と言っていたが、まったくそんなことはないのだ。神はここにいる。

ここで言う「神」は必ずしも宗教上の神だけを指すわけではない。友人との約束、尊敬する人からの言葉、大事にしているお守り、大切な人の形見など、だれにとっても、社会の法や論理を超えた「超越的な約束」の1つや2つあるだろう。そしておそらくそれを破ろうとしたり捨てようとしたりするとき、大きなためらいがあるはずだ。その「ためらいを生み出す装置 = 超越的な約束」は、たとえ宗教上の神でなかったとしても、「神なるもの」と言える。

さて、デザインの話に戻る。ぼくは最近、「半聖半俗のアーキテクチャ」というものを考えている。

アメリカの法学者であるローレンス・レッシグが語ったように、いまの時代の人間は「市場」「法」「規範」「アーキテクチャ」によって行動を規制されている。どれも社会をなめらかに回すために必要な仕組みである。しかしそれらの仕組みは、機械的で、強制的で、どこか窮屈で、何よりも面白くない。人間には、もっと人間らしい、自律的で豊かで自由なアーキテクチャが必要なのではないだろうか。

ただ、現代の機械的な規制を素朴に批判したところでそれらの仕組みがなくなることはないだろう。だから、それらの規制が存在し続ける前提で、あえてそこに別の論理を持った規制を導入することで、機械的な規制だけが跋扈する世界からの脱出を試みたいと考えている。

この図の右上が、レッシグの言う既存の規制だ。既存の規制は、俗な社会に位置し、ぼくらを強く束縛する。人類をフラットで平等にするが、強制的で機械的な束縛となる。

一方右下は、既存ではあるが、失われつつある規制だ。見えない聖なる空間に位置し、先述した「超越的な約束」によってぼくらを束縛する。これは束縛ではあるが、自らの信念によるものなので、自律的で人間的な束縛となる。

そして最後に左側の「あわい(道)」だが、この説明は次回にまわそう。話が長くなり過ぎた。とりあえずは、主体と自我の葛藤だと思っていただければいい。
「俗」を許容しながら、「聖」を見つめ、その「あわい(道)」で葛藤を続ける。これがぼくの考える「半聖半俗のアーキテクチャ」である。

昨今、資本主義は批判されがちではあるが、資本主義がもたらした豊かさも確実に存在するはずだ。ぼくも間違いなくその恩恵を受けている。だからぼくは安易に資本主義を否定することはしない。資本主義という俗の世界に所属しながらも、汚染されることなく、聖なるアーキテクチャで己を律することで、ひとりひとりが自分の道を進む。そんな社会を目指したい。
この聖なるアーキテクチャは、「お天道様のアーキテクチャ」とも言えるのかもしれない。誰もが幼い頃によく言われたはずだ。誰も見ていなくても「お天道様が見ている」と。その言葉によって行動が規制された経験は多くの人にあるはずだ。だからこれは、極めて身近で現実的な、誰にでも実践可能なアーキテクチャなのである。

そして、勘のいい読者ならすでにお気づきかと思うが、この図はフランスの哲学者ジャック・ラカンの理論をベースとしている。ラカンが語った「現実界」「想像界」「象徴界」のうちの「象徴界」、その復興を試みるのがぼくの最近の活動のテーマである。

デザインは一般的に「俗」に位置する。だからビジネスの役に立たなければいけないのかもしれない。だが、ぼくらの信じたデザインはそれだけではないはずだ。社会や資本主義の論理だけではない、超越的な約束がデザインにもあるはずではないだろうか。それがなければ、デザインは資本主義の奴隷になるほかない。デザインは神の到来を、今か今かと待ちわびている。