“植物になれたらどんなにか素敵だったろう。
たとえ小便をひっかけられることを警戒しなければならないとしても”
—— エミール・シオラン

花を探しに山に入るとときどき、花の方から目に入ってくることがある。まるでぼくが取りに来ることを待っていたかのようにぼくの方を向いているのだ。さらには、「持っていってくれ」と花が言っているような気すらする。ぼくは、「有難う」と心の中でつぶやき、手を合わせ、その花をいただく。

もちろん、気のせいである。そんなことがあるはずがない。そんな勘違いは花にとっても迷惑な話だろう。せっかくそこで育ってきたのに、たまたまぼくに見つかったせいで命を刈り取られてしまうのだ。しかもそこに体よく「花の方から」なんて言葉を与えるものだから、ぼくの行動は正当化される。なんて都合の良い話だろうか。

ここでアイヌの文化を思い出す。知っての通り、アイヌは熊を食べる。アイヌは熊のことを「カムイ(神の意)」と呼び、「毛皮と肉を持って人里に降りて来てくれる神」と考える。ぼくの花に対する感情と同じように、人間にとって都合の良い解釈であることは言うまでもない。

人間は出来事を都合よく解釈し、自身の行動を正当化する。大体は殺害の罪悪感から逃れるためだ。これは祭祀と供犠の歴史からも明らかである。

神々の住まう山

さて、ここで気になるのは「花はいったいどう思っているのか」ということだ。人類学者のエドゥアルド・コーンは著書『森は考える(原題:HOW FORESTS THINK)』で、植物はたくさんのシグナルを受け取っており、それによって反応し、森林全体を構成すると言った。その表現の仕方はまるで森が知性を持っているかのようですらあった。

また、最近ではキノコについてもにわかに話題になっている。キノコは菌糸ネットワークを流れる電気信号でコミュニケーションを取っているそうだ(参考:キノコは「菌糸ネットワークを流れる電気信号」で会話をしている)。

なるほど、確かに植物は何かしらのことを考えているように思える。だが、これを「知性」と呼んでいいのかには疑問が残る。確かになんらかの仕組みがあり、現象があり、反応があり、それによって植物の世界は構成されているのだろう。だが、ぼくの気のせいのように、「花の方から持っていてくれ」のように花が思っているとは到底思えない。これは想像力の飛躍である。フランスの哲学者フロランス・ビュルガはこういった想像力の飛躍に対して「決して越えてはならない境界線を越えている」と警鐘を鳴らした。植物の擬人化は、人間側の都合でどうにでもできてしまうからだ。

植物に対して「考える」や「知性」のようなメタファーを使うことには大きな問題があるのかもしれない。マルチスピーシーズ人類学という領域があるように、ぼくたちはたくさんの種とともに生きている。ぼくたちはあらゆる現象やあらゆるシステムの上に成り立っている。それは疑いようのない事実である。しかし、人間や動物(この単純な区別に問題があることは百も承知だがその議論は一旦脇に置いておいて)と植物のあいだには決定的な違いがある。

植物には知性も感覚もない。植物の苦しみなんてものは、哲学的にも科学的にも根拠がない。ビュルガはその事実と、植物学者フランシス・アレの言葉を下敷きにしながら、植物を他の生命と区別する。

“わたしたちが使うことばさえも、植物には適していない。植物は、何かを<知る>ことも<使う>ことも<必要とする>こともない。何らかの<目的>や<計画>を持つこともない。わたしたちが使っているのは動物のことばであって、これは植物の真実を描写するには不適切である”
——フランシス・アレ

さらに言えば、植物には人間や動物的な死もない。樹齢およそ5,000年を迎えて今なお生き続ける木もあれば、死んだかと思った花が数年経ってまた芽を出すこともある。このように、人間と動物、そして植物のあいだには、極めて深いクレバスがあるのだ。

植物はたしかに生きている、だが、人間や動物とはまた違う種であることも大きな事実である。マルチスピーシーズというひとことですべての生命をひとまとめにして良いものか、それは冷静に考える必要がある。動物と人間のあいだのような曖昧な線ではなく、はっきりとした一線が、植物と我々のあいだにあるのかもしれない。

花:藤、器:寸切竹花入

しかしこれは、植物を適当に扱って良いということを意味しない。特にぼくのように花にまつわる仕事をしているならなおさらだ。

花道の文化を描いた、漫画家野﨑慎一郎の作品『花法主』に、このような場面がある。

「私たちを切ってどうするのですか?」
「観音様にお供えします 観音様は喜ばれ、多くの苦しんでいる民もあなた達の姿に救われます どうかお力をかして下さい」
「手向けられるのも何かの御縁…願わくば 最後は花として 美しく生きたい」
「分かりました もし生かすこと…いや美しく生かすことできねば 二度と 花にはかかわりませぬ」

もちろんフィクションである。現実的に考えればこのようなやり取りはあり得ない。ビュルガが批判したのはまさにこのような植物の擬人化である。万が一(ビュルガの主張が退けられて)花が知性を持っていたとしても、花がこのように人間に話しかけてくることなどはさすがにないはずだ。しかし、それでも、このエピソードは花道家としての姿勢の最高と言える。

筆者は花道家である。花が知性を持っているかどうか、もちろん多少気になるトピックではあるものの、その結論にそこまでの興味はない。ただ、花を目の前にして、人間がどれだけの想像をすることができるのか、その想像力の最大化には大きな興味がある。なぜなら、花道家は神仏に仕えることが仕事、人間や花の存在を越えて、神仏につながるまでのとてつもなく大きく深い想像力が必要となるからだ。

考えてみれば、冒頭に記したアイヌのエピソードもそうだ。確かに熊にしたら都合の良い話だろう。しかしそこには対象に対する果てしない想像力がある。とてつもない感謝がある。ただ無闇に肉と毛皮を奪っているわけではない。いや、結果的には同じなのかもしれない。いくら取り繕っても、動物を殺害して、人間中心の利益を得ていることに変わりはない。しかし、ここで重要なのはその結果ではなく、その結果に至るまでに何を想像しているのかだ。人間としての単純な利益を超えた、神仏に通じるまでいたる遥かなる想像力の射程、そこにこそ人間としての可能性があるのではないだろうか。

花:擬宝珠、器:古南蛮大壺

たとえば、誰もが知っているレイチェル・カーソンの「センスオブワンダー」もそうだろう。

思い返せば、ぼくも幼い頃そうだった。小さな頃、なんとなく四つ葉のクローバーがある場所がわかった。四つ葉のある場所だけが光っているように見えた。しかしそれも今考えれば気のせいだ。思い出補正も強くかかっているだろうし、シロツメクサがたくさんあれば四つ葉は確率的に存在する。しばらく見ていれば意外と見つかるものだ。

しかし、なんだか光っているように見える、花の方から声をかけてくれている気がする、その気のせいが重要なのではないだろうか。人はその気のせいを神秘と呼び、運命と呼び、センスオブワンダーと呼んできたのだろうと思う。そして「気のせい」にそういった神秘性を見いだす人間の想像力こそが、人間を人間たらしめる能力である。単なる偶然を宇宙の奇跡と言い換えてしまうような、その自分勝手な想像力こそが、人間の醜さであり、美しさでもあるのだろう。

これはもちろん、ビュルガの主張を否定しているわけではない。ビュルガが退ける盲目的なネオ・アニミズムの思想には矛盾も問題も多くある。だが、だからと言って人間の想像力を否定してはならない(一応補足しておくが、ビュルガも想像力を否定しているわけではない)。科学と神秘は両立する。

ビュルガの論理は明快だ。数々の科学的根拠を列挙しつつ、植物の擬人化を批判する。その論理は、納得せざるを得ない強度を持つ。

だから、ビュルガの論理を受け入れつつ、それでもなお想像力を羽ばたかせるにはどうしたらいいか。花道家としてのぼくは、それについて考えてみたい。

そして、ぼくはすでにそのための十分なヒントを持っている。ビュルガの言う「越えてはならない境界線」、その境界線の位置はまだ少し曖昧だ。人間、動物、植物、そこに登場人物として──花の宛先である──神仏が加われば、境界線は変わるだろう。

花道家は植物の命を扱う。だから、その活動をどうにかして正当化しなければならない。擬人化の想像力を越えた、もっと大きな想像力によって。そして、ビュルガにはそれを批判することができない。なぜなら、その想像力の方が先だからだ。科学が発達するはるか昔、人間はそもそも自然を「神」と呼んでいたはずだ。