目次

カオスやフラクタルではない、現在進行形の複雑系科学

佐山 弘樹(さやま ひろき) ビンガムトン大学システム科学・産業工学科教授/複雑系集団動態学研究センター長
1999年東京大学情報科学専攻にて博士(理学)取得後、ニューイングランド複雑系研究所にて3年間学際的研究に従事。2002年から2005年まで電気通信大学人間コミュニケーション学科に在籍。2006年にビンガムトン大学に移籍。研究分野は動的ネットワーク理論、集団行動学、計算社会科学、人工生命・人工化学、進化計算、ほか複雑系科学全般。国際複雑系学会 (Complex Systems Society) 理事・運営委員。Complexity (Wiley/Hindawi) ほか各種複雑系関連学会誌編集委員。2014年よりノースイースタン大学複雑ネットワーク研究センター客員教授、2017年より早稲田大学商学学術院客員教授を兼任。

佐山弘樹氏(以下、佐山):皆さん、今日は宜しくお願いします。一応、自己紹介からしようと思うのですが……自分の紹介というのは実に難しいものですね。「私は何者か?」という問いに、いつも困るタイプの人間です。皆さんはどうでしょうか?

これまでの遍歴を簡単に話すと、情報科学でドクターを取った後、ポスドク研究員としてボストンのニューイングランド複雑系研究所に在籍。それから一旦帰国して、電通大の人間コミュニケーション学科という所で教員を務めました。その後またアメリカに戻って、生物も工学も知らないのに生物工学科で教鞭を取ったり、システム科学や産業工学の分野に移籍したりして、今に至るという感じです。

「結局、ご専門は何なんですか?」とよく聞かれます。そういう時に必ず「複雑系です」と言って終わらせる。日本語なら「複・雑・系」の3文字、英語なら「complex system」の2ワードで、説明が難しいものをとりあえず言い切れる。すごく便利なキーワードで、日頃から大変重宝しています(笑)

さて、今回のセッションのテーマにもなっている「複雑系」という言葉ですが、実は日本でも90年代後半に一度流行っているんです。井庭崇先生が出した『複雑系入門―知のフロンティアへの冒険』という本がきっかけとなって、一気に複雑系という概念が広がりました。

『複雑系入門―知のフロンティアへの冒険(NTT出版/井庭 崇 , 福原 義久 著)』

佐山:残念ながら、この時は一過性のブームで終わってしまって、学問分野として定着するまでには至りませんでした。当時語られていた複雑系では「カオス」や「フラクタル」など、流行りっぽい言葉が並んでいましたね。皆さんも聞き覚えがあるワードだと思います。

それらは今でもたまに聞くのですが、ぶっちゃけ言っちゃいますと、カオスやフラクタルは昨今の複雑系研究のメインストリームではありません。このあたりは研究者によって見解が分かれますが……一時期は脚光を浴びた「ニューラルネットワーク」や「遺伝的アルゴリズム」の研究すらも、過去の栄光となりつつある。現在の複雑系科学は、現実社会から得られるデータを用いながら、理論的にも実践的にもかなり高度なレベルで試行錯誤が為されています。

複雑系科学は、学問分野としては未熟と言えます。大抵の理系の大学には、物理学科や数学科はありますよね。そういうレベルにはまだ達していません。コンピュータサイエンスも昔は存在しませんでしたが、80年代からでき始めて、今ではほとんどの大学にあります。複雑系科学は今まさに、大学の中でポジションを確立しようと頑張っていて、海外では徐々にその価値が認められ始めている分野です。

複雑系科学は、コンピュータが膨大なデータの解析が現実的に可能となってきた今こそ、真価を発揮し得るのです。社会、生物、生態系のようなネットワークシステムを実際にデータ解析して、そこからモデリングにまで持ち込む方法論として、複雑系科学は極めて重要な役割を果たしています。

あらゆる学問は必ず廃れる

佐山:複雑系とは、端的に言えば「非線形のインタラクションに重点を置こう」という学問分野です。「インタラクション」は今日のコアメッセージになるでしょう。私は授業やこうした場でも、一方的な情報伝達にはほとんど意味がないと思っています。

ですから、今日は皆さんのリアクションを受けながら、一緒にこの場をつくっていきたい。その方が私としてもやりやすいので。ぜひここをアメリカだと思って、空気を読まずに積極的な発言をお願いします。どんな質問でも構いません。ちょっと練習してみましょうか? 皆さん手を挙げてください。

──(参加者、全員手を挙げる)

佐山:じゃあ、ここまでの話で質問のある方、そのまま挙げたままで……よかった、残りましたね(笑)、では順番に。

──なんで日本では複雑系が流行ったのですか?

佐山:日本だけでなく、世界で流行りました。90年代はちょうど複雑系のメッカであるサンタフェ研究所ができて10年ほど経ったタイミングで、ようやく色々な研究成果、重要な論文が出始めた頃でした。どの学問分野でも、そういった波があります。たとえばディープラーニングなどは、2006年にジェフリー・ヒントンが出した論文がきっかけとなって広まりましたね。

──なぜ廃れたのですか?

佐山:廃れるのは珍しいことではありません。どんな学問分野でも、一度流行ったものは大抵廃れます。複雑系も世界中で廃れました。それでも消えずに残っているのは、複雑系にずっとこだわって取り組んできた人たちがいるからです。消える学問と残る学問の違いは、「廃れてもやり続ける人がいるかどうか」にかかっています。

AIはとても良い例ですね。若い方々はご存じないかもしれませんが、つい10年ほど前まで、AIなんてのは学会の中ではタブーだったのです。「AIの論文を書いています」とか、「多段層ニューラルネットワークの研究やっています」なんて言ったら、「お前は何を言っているのだ? それは80年代の思考だよ」と貶されるのがオチでした。

それでも諦めず、妄想に憑りつかれたかのように、AIの研究をし続けてきた人たちがいた。彼らが折れなかったからこそ、テクノロジーの進歩がそこにかみ合って、ある時期から一気に盛り返して、今に至るのです。「なぜ廃れたのか?」とは、いい質問ですね。どんな分野でも、新興の学問は必ず廃れます。

研究の原動力は「執着」

──ちょっと個人的なことになると思うのですが……佐山先生も若い頃からずっと複雑系に携わられていて、周りから「お前は何をやっているんだ」と白い目で見られることもありましたか?

佐山:はい、大いに見られましたね。

──それでも、ずっと複雑系のフィールドにいらっしゃる。その原動力って、一体何なのでしょうか。複雑系の意義や可能性を信じていたから?

佐山:可能性は、基本的に信じていません(笑)。「これが上手くいく」と信じてやっているわけではないです。じゃあ、なぜ複雑系をずっとやっているのか……それはobsession、つまり「執着」ですね。

執着はおそらく脳の問題です。自分の脳の構造で「これをやったらすごく気持ち良いから、どうしてもやめられない」となっているんだと思います。酒好きな人がお酒をやめられないのと同じです(笑)

──なぜ、複雑系の分野に執着されるようになったのでしょうか。何に執着して、複雑系に取り組まれているのですか?

佐山:「何か執着していることはありますか?」……そう聞かれてパッと答えられる人って、実はあまりいないのではないかと思います。私自身、自分が何に執着しているのかを説明できるようになったのは、実は昨年からなんです。46歳に至るまで「なんで自分は複雑系をやっているのか」をうまく説明できなかった。言語化のプロセスというのは、実はものすごく時間のかかるものです。これも、たぶん脳の問題なのでしょうね。

今、「何に執着しているのか?」という問いについては、あえて答えないでおきます。これを説明をし始めると、フワッとしたものが消えてしまう。別に「言語化できるものより、フワッとしたものの方が重要だ」などと言いたいわけではありません。ただ、皆さんにも「理由の説明は難しいのだけど、どうしてもやってしまうもの」って、何かしらありますよね。そこについては、無理に言語化や論理化をしない方が良いこともあります。

──説明できるようになったのには、何かきっかけがあったのですか?

佐山:色々ありました。『ALIFE 2018』という大きな会議でさまざまな議論に加わったり、御年90歳を越える大先生と共同研究する機会に恵まれたり。そこでのやり取りの中の引っかかりから、突然「あ、これだったのか」と言葉にできるものが見えた。それはまだ、自分の中で大事に温めたいことなので、誰にも言うつもりはありません。

『ALIFE』は、人工生命の未来を模索する国際的会議。2018年は「BEYOND AI ― A new epistemology for Artificial Life and Complex Systems」というテーマの下、東京で開催された。

──これまでに社会人として、研究の目的、モチベーションの言語化を求められる場面は何度もあったかと思います。昨年までの言語化できてなかった間、それらにはどう答えられてきたのですか?

佐山:すべて適当ですよ。皆さんもそうでしょう? 会社のキャリアインタビューで「貴方のキャリアゴールは何ですか?」と聞かれて答えることって、大体ウソですよね(笑)

それでいいんですよ。本当のモチベーションというのは、ロングスパンで捉えないと分からない。時間を置いて、1歩どころか3歩くらい引いて見て、初めて見えてくるものがあります。これは、キャリアや仕事に関係することだけの話ではないのです。

皆さんは、子ども時代に何をやっていたか覚えていますか? 自分にとって特別に意味がある記憶は、断片的に残っているものです。そういった記憶の断片、自分が人生上でやってきたことが、ある時すべてパーンと繋がる瞬間がある。私の場合、それが46歳の時だったんです。いつ来るかという保証はありませんが、皆さんも46年は待ってみてください(笑)。自分の人生に意味が出てくるのを待つというのは、良いことだと思います。

社会からの要請が、学問のブレイクスルーを阻害する

──先ほど「AIは廃れても研究を続けた人々がいたから残った」というお話がありましたが、そこにマーケットの要請からは関わってくるものでしょうか。研究者たちの執念でなく、マーケットや社会からの要請によって、テクノロジーが進化する……といったことはあり得ますか?

佐山:研究フィールドにマーケット側からの要請はありますが、それによって研究が劇的に進むケースは、あまり見たことがないです。私は「マーケットや社会からの要請と学問のブレイクスルーの間には相関はない」と思っています。

なぜならば、まずブレイクスルーが起きないと、研究自体が高次のレベルに行かないから。初期の重要なブレイクスルーというのは、外からの要請によっては起こせないのです。もちろん政府とかが「この分野は将来的に大事だから」と、ものすごい予算をドカンと投入して、何か成果を出させるというケースはあります。ただ、それはそもそもの重要なブレイクスルーが内発的に起こった後の話であることがほとんどでしょう。

逆に、「社会からの要請がブレイクスルーを阻害する」といった可能性は大きいと思います。国を挙げて「ここに注力しろ」みたいになると、どの研究者もそれをやらないといけなくなって、他の分野が疎かになりますよね。それぞれが自由に研究していたら、パーンと開くはずだった種があったかもしれないのに。

AIブームの立役者であるジェフリー・ヒントンは今、世界各地に呼ばれて講演をする度に、口を酸っぱくして言っているんです。「みんな、頼むからディープラーニングをやらないでくれ」と。

ヒントンは長らくディープラーニングの研究に取り組んでいますが、ブームが訪れる前の学会ではまったく相手にされず、10年以上も干され続けるという冬の時代を経験してきました。それでも諦めなかった執着が、ブレイクスルーを生んだ。「好きなことをやり続けることの重要性」を身をもって知っているから彼だからこそ、みんながこぞって「流行りだから、将来性があるから」とAI研究に向かっている現状に危機感を抱いているのです。

だから、研究は社会の要請とはなるべく距離を置いた方がいいと、私は思っています。とは言え、外部からお金を用立てる必要もあったりするので、多少の縁はあった方が良いですけどね。研究者は「社会の空気は読みつつ、あえて無視をする」みたいなスタンスが大事です。

“私”の絶対座標がない、空気を読める日本人

佐山:このあたりの「空気を読む」という感覚は、かなり日本的なトピックではないでしょうか。日本人は「空気を読む」のは上手ですよね。海外に行くと、みんなビックリするくらい「空気が読めない」んですよ。この「空気」の感知能力は、日本人の文化的な強みでもあり、弱みでもあると言えそうです。

日本人として成功するのは「空気を読んだ上で、それをあえて無視をする」というタイプの方が多いですよね。最近の若い方だと特に顕著だと感じます。上の人たちが言うことは、基本的に聞かなくてもいいのです(笑)。「誰かの言う通りにする」とは、すなわち社会やマーケットの要請に従うのと同じこと。皆がそうなってしまうと、多様性がどんどん失われていってしまいますから。

───日本人がとりわけ「空気を読む」のが得意なのは、なぜなのだと思われますか?

佐山:日本人は「役割を演じる」のがすごく上手いのだと思うのです。私はアメリカで仕事をしていますが、アメリカ人って絶対に役割を演じないんですよ。つまり、家庭にいても仕事場にいても「私は私だ」という振る舞いをするんです。一方で日本人は、職場では「部長です」「営業部です」、家庭では「夫です」「妻です」、学校に行けば「親です」と、コミュニティによって役割を替えますよね。

おそらく文化的な影響が大きいと思いますが、日本人は欧米人と比較すると「“私”の絶対座標がない」のかもしれません。たとえば、日本人は会話の中で、一人称を使わずに省略することが多いですよね。最近の若い人たちは言うのかな? それでも、アメリカ人が「I~」と言う頻度と、日本人が「私は~」と言う頻度を比較したら、かなり大きな差が出てくると思います。

どうして、日本人は一人称を使いたがらないのでしょうか。何か持論をお持ちの方はいらっしゃいませんか?

──「自己主張が強いと思われたくない」といった気持ちがあるのかもしれません。「私は~」という主張が強いと、周りから疎まれて、結果的に自分が損をする場面が多くなる気がします。

佐山:それはあるかもしれませんね。逆にアメリカでは、自己主張しないと存在を認めてもらえませんから、主張しないことの方が損になります。

──「役割を替えて振る舞う」というのは、人間的によくないことなのでしょうか?

佐山:使い分けること自体はまったく悪くありません。むしろ、強みとして生かせる要素でしょう。「私たち日本人は、文化的にロールプレイングのトレーニングを受けている」という風に解釈をすればいい。場面によって自分の立ち位置を理解して、効果的に振る舞うためのスキルを持っているのだと。これは、日本人が世界に誇れる能力だと思っています。

複雑系は、フワッとしたものと論理の間を繋ぐ

──いま話題に挙がった「空気」というものは、人と人との関係の中にある見えない“何か”であって、とてもメタ的な存在ですよね。これって、複雑系科学が研究対象とする「複雑な“何か”」でもあるのかなと。

佐山:ダイレクトにそうだとは言い切れませんが、近いものではあります。「コンテクスト(文脈)によって構成要素の役割が変わる」とは、複雑系科学においても大事な知見です。そういう意味で、私自身の「日本人である」というバックグラウンドは、複雑系の研究をするにあたって、すごく役に立っていると思います。

「私は常に私である」という思想で育った人は、どんな環境でも「私は私」であり、その座標軸が変わることはありません。だから「コンテクストによって構成要素の役割が変わる」という、複雑系の学問が生み出していく結論を納得するのに、ある程度の時間がかかる。そのあたり、日本人はスッと直感的に受け入れられる分、複雑系との親和性は高いと思っています。

複雑系科学とは、「空気」のようなフワッとしたもの、絶えず変化し続ける関係性などを、ゴリゴリに数値化し、解析して、何かしらのロジックに落としこんでいこうとするエフォートです。フワッとしたものを、フワッとしたままで終わらせない。フワッとしたものと論理の間を繋ぐ。そういう研究分野が複雑系科学なのだと言えるでしょう。

あらゆる事象はモデリング可能で、すべてのモデルは間違っている

──複雑系科学では経済や社会、人間の神経ネットワーク、気象現象、アリの巣や鳥の群れなど、本当に多岐にわたるトピックを研究対象としていていますよね。そして研究成果として、たくさんのシミュレーションやモデリングも発表されている。そこで疑問に思ったのですが……世界のあらゆる事象は数値的にシミュレート、ないしモデリングができるものなのでしょうか?

佐山:はい、できます。

──つまり、複雑系科学では「あらゆるものがシミュレート、ないしモデリングできる」という前提に立って研究が行なわれていると?

佐山:正確に言うと「シミュレートできるか、できないか」の問題ではなく、サイエンスが何かにアプローチする上で「それしか方法がない」のです。

シミュレーションと言うと特殊な技能のように思われがちですが、そうではありません。シミュレーションは、あくまで「人間ができる理論的な演繹」です。そのプロセスを、今はコンピュータが代わりにやってくれているだけ。自然を見てデータを取ってきて、それを体系的に理解をしようとする時には、どうしても何かしらの形でモデリングをしなければならない。つまり、シミュレートやモデリングは、科学をやる上で必要不可欠なプロセスの一環なのです。

──と言うと、「モデレートできた、シミュレートできた」から、すなわちそれが正しい、というわけではない?

佐山:全然ないです。これは断言できますが、すべてのモデルは絶対に間違っています。そこにあるのは、「ものすごく間違っているか」「ちょっと間違っているか」の違いです。私たちは論理的に、「正しいモデル」に到達することはできません。

もし仮に正しいモデルに到達できたとしても、それが正しいかどうかを知る術が我々にはないのです。そういう意味で研究者は、仕事がなくなることはありませんから、食いっぱぐれない職種ですね(笑)

研究者は、どこかで「この辺でいいや」と妥協しなければなりません。締め切りが来たからこれで論文を出すか、とか。そういう意思決定は必ずヒューリスティックになる。妥協せずに突き詰めて「すごく正しそうな結論」が導き出せたとしても、100年後にそれが覆される可能性を否定しきることは不可能です。

……と、かなり思い切って言ってしまいました。でも、「そんなことはない! これは絶対に正しいモデルだ!」なんて言ってるビジネスコンサルの人がいたら、それこそ絶対にウソですから、皆さん気を付けてくださいね。

複雑系科学における5つのキーワード

佐山:最初にお話したように、複雑系科学は文字通り複雑なので、なかなか説明するのが面倒です。ただ、毎回「複雑系です」とだけ言って済ませるわけにもいかないので、私は複雑系科学の定義、特徴について、5つのキーワードを挙げています。

第一に「Networks of many components」。複雑系と呼ぶ対象は、ほとんどの場合、たくさんの構成要素でできたネットワークです。たまにネットワークではないものも含まれることがありますが、「複雑系とは大体ネットワークだ」と考えていいと思います。

第二に「Typically involve nonlinear interactions among components」、すなわち「非線形なインタラクションがある」ということです。非線形とは数学用語で「インプットとアウトプットの関係性がリニアではない」という状態を指します。たとえば、誰かをxの力で殴ったら、yの力で殴り返されたとします。じゃあ次に2xの力で殴ったら、相手は2yの力で殴り返してくるか……と言えば、そうとは限りませんよね。周りを巻き込んで戦争になったりする。そういう関係性が、非線形です。

現実社会は、ほとんどが非線形なインタラクションで構成されています。だから、この2つの定義でもって「この世のすべては複雑系だ」と言ってしまっても構わないです。こう話すと批判されることが多いのですが、事実だからしょうがない(笑)。

第三に「Arise and evolve through self-organization」。これはすべての対象に当てはまるわけではないですが、複雑系はよく「進化したり自己組織化したりする」存在です。自己組織化とは、ランダムな状態にある構成要素が、相互のインタラクションによって自発的に複雑なシステムを形成する現象です。

「情報的なやり取りのない自己組織化」という状態は、存在しません。情報の行き来がなければ、組織は崩れていって均質解に至ります。あるシステムがあって、そこに何にもインプットやエネルギーを入れていない状態でゆすってやれば、みんなダラダラと崩れて構造はなくなるわけですね。自己組織化とは、組織内にエネルギーや情報がどんどん入り込んでいって、それによって構造の生成が生み出されていく状態です。
 
第四に「Reside between regulanity and randomness」。複雑系の構造や機能は「完全に規則的でもなければ、完全にランダムでもなく、そのちょうど中間あたり」と言える特性を常に持っています。

これは重要なポイントで、実は昔の科学というのは「完全に規則的か、完全にランダムか」のどちらかであることを前提としていました。たとえば統計は、基本的にランダムであることを前提しているから使えるものです。構成要素がすべてどこかにリンクしているとすれば、それは物理の対象になる。複雑系には、統計も物理も役に立たない。なぜなら、そのちょうど真ん中だから。ランダムさと規則性がグチャっと混ざっているような領域なので、数学的にはすごく汚いんです。

第五に「Show emergent structure/behavior」。エマージェントは「創発」と訳されます。元々の日本語にはなかった、比較的新しい言葉ですね。ミクロのレベルで挙動をすべて記録しても、マクロのレベルでの挙動が簡単には説明できないような場合、「そのシステムは“創発”している」と表現します。

創発の具体例を挙げるとすれば、まさに皆さんがそうです。意識、個人のアイデンティティはどこに由来するものでしょうか。生命として生まれた瞬間、皆さんが最初に持っていた水分子や生体分子などの構成要素は、いま現在どれも残っていません。つまり「私が私であることの理由」はどの構成要素にもなくて、要素同士の関係性や組み合わせ、そのパターン自体にあると言える。それは短絡的な情報ではなくて、ある種のハイレベルな情報であり、そういう状態で存在していることが「創発」です。

以上の5つの要素が、複雑系を語る上で、個人的に大事なことだと思っています。

複雑系科学の歴史的変遷

佐山:では、具体的に「複雑系科学」の中にはどんな研究分野があるのかというと……こちらの図を見てもらえると早いですね。

この図、ウィキペディアにも載っているんですけど、実は私が10年ほど前につくったものなんですよ。ちゃんと右下の方に名前でも載せておけばよかったですね(笑)。10年前なので多少変化はありますが、概要としてはまんべんなく触れられていると思います。丸で囲われているのが研究分野で、歴史的には左から右へと進んできています。

「Systems Theory(システム理論)」はちょっと工学寄りですが、第二次世界大戦中に一気に発展した情報計算や制御に関する理論のことです。この分野の著名人で「AIの父」とも呼ばれているアラン・チューリングが、新しい50ポンド紙幣の肖像に採用されるということで、最近Twitterでバズっていましたね。

「Game Theory(ゲーム理論)」は、1940~70年代にかけて広がった数学の一分野です。この間のトピックとしては、冷戦ですね。当時はソビエトもアメリカも、この「明確に勝ってはいけない戦争」の中で、どうやってできるだけ優位にバランスを維持するか、ということにしのぎを削っていました。

そういう時世に「人間の意思決定や行動も数式化してしまおう」と発展したのがゲーム理論です。これもある意味では「Nonlinear Dynamics(非線形力学)」の応用例だと言えるでしょう。経済学系の人たちを中心にゲーム理論が大好きな人たちがたくさんいて、ドカーンと1つのグループとして存在しています。いま話題に挙げた3つのグループは、複雑系の歴史の中ではクラシカルなジャンルです。

「Pattern Formulation(パターン形成)」あたりから、80年代に入ってきます。つまり、計算機、すなわちコンピュータが個人の研究者の手に届くようになった時代です。これによって、従来よりも大幅に自由度の高い対象のシミュレートが可能になりました。この分野のキーワードとしては、当時「セルオートマン」という計算モデルが流行りました。セルオートマンを用いて、生命の誕生や進化、淘汰のプロセスをシミュレートしたのが「ライフゲーム」ですね。

ライフゲームにおけるグライダー銃のパターン

佐山:それから「Evolution & Adaptation(進化・適応)」の研究が、複雑系のメッカであるサンタフェ研究所で盛んに行なわれるようになりました。遺伝的アルゴリズムや進化計算、複雑適応系などの研究は、すべてサンタフェが起源となっています。

「Collective-Behavior(集合動態)」はかなり新しいトレンドですね。この研究が盛んになったのは21世紀になってからで、やはりITが発達して生もののデータが手に入るようになったことが大きく影響しています。

「Networks(ネットワーク・サイエンス)」は「この論文によってこの学問が生まれた」と具体的に特定ができる、非常に珍しい研究分野でもあります。1998年にダンカン・ワッツとスティーヴン・ストロガッツが発表した論文『Collective dynamics of small-world networks(スモールワールド・ネットワークの集合的力学)』によって、一気に広まりました。

ちなみに、ネットワーク・サイエンスが興った1998年は、ちょうどGoogleが検索エンジンを稼働させた年でもありますね。当時はgoo、infoseek、Altavistaなどさまざまな検索エンジンがありましたが、ほとんどが死んでます(笑)。なぜGoogleは生き残ったのかと言うと、彼らはある意味で初めて、実際のアプリケーションにネットワーク・サイエンスを用いたんです。

具体的な話は割愛しますが、Googleはネットワーク・サイエンスをベースに、世界で初めて「ページランク」の概念をつくりました。ページランクとは、ローカルではないネットワークの情報を使って、ウェブサイトの重要性をランキングするアルゴリズムです。そこでは単純な被リンク数の多さだけではなく、ネットワークの構造全体を見て「この関係性(≒リンク)は信頼できるものなのか」といった要素まで評価されるようにました。

このページランクの導入によって、Googleとほかの検索エンジンのサーチ結果に、明らかな差が出てきた。みんなが口々に「Googleのサーチ結果の方がいい」と言い始めて、大々的な鞍替えが起こったんです。

……そんなバックグラウンドもありつつ、98年から99年あたりからネットワークに基づいて行われる複雑系科学、その応用が花開いていきました。いま複雑系の学会にいけば、大体8割ぐらいがネットワーク・サイエンスをベースとした研究になっています。

集団動態、チームワークの解明

──「Collective-Behavior」を“集団動態”と訳されていましたが、これはどのような研究なのでしょうか。基本的には「個体ではなく、集団全体がどう動くか」という構造を明らかにする、といったイメージですか?

佐山:個体と集団、両方とも見ます。正確に言うと「個の行動と集団の行動との関係性」を明らかにしようとするもので、全体を見ているわけではないんです。集団動態の研究は、組織科学の文脈で取り組まれることが多いですね。

私も現在進行形で、経営学の先生たちとコラボレートして集団動態の研究に携わっています。集団といってもそんなに数は多くなくて、大体20人くらいの規模感です。そこで、20人が「個別に問題解決をやった場合」と、「ネットワークでつながった状態で問題解決をやった場合」、それぞれどういった条件でより力を発揮できるのか……といった実験を行なっています。

「チームワークは大切だ」とはよく言われますよね。皆さんも経験的にご存じかと思いますが、チームワークってそんなに簡単なものじゃない(笑)。学生なんかを例にとると明らかで、初見の5人組でプロジェクトをやらせたりすると、全員で喧々諤々やっていた班より、1人が大方進めてほかの4人がニコニコ黙っていた班の方が発表のクオリティが高い、なんてことはザラにあったりします。

この「どうチームワークをうまく発揮させるか」という問いは、典型的な集団動態の研究のひとつと言えるでしょう。伝統的には、魚や鳥などの集団動態に焦点を当てた研究もありますが、個人的な所感として、いまいち発展性に欠ける印象がありますね。

コンピュータをもしのぐ、粘菌の潜在能力

佐山:集団動態の研究対象として、人間以外の動物でアツいのは、「粘菌」です。彼らは自分にとって有害な光などを避けながら、最適な移動ルートを割り出す能力を持っています。単細胞で中央集権的な情報処理施設(=脳)がないのに、どうやってルートの最適解を見出しているのか? なぜ、個体として統制のとれた細胞行動ができるのか?

この粘菌の研究、実は日本のお家芸なんです。北海道大学の先生方が、粘菌の研究で二度もイグ・ノーベル賞を受賞しています。ご存じない方もいるかもしれませんが、ノーベル賞よりもイグ・ノーベル賞の方が良い研究を評価しています。大真面目に言ってますよ?(笑)

──「粘菌がルートの最適解を見出す」というのは、具体的にはどういったことなのでしょうか?

佐山:有名な計算モデルで「巡回セールスマン問題」というものがあります。ざっくり説明すると「いくつかの県庁所在地を最短経路で回って、東京に帰ってきなさい」といった問題で、計算量理論的に“NP困難”、要は「計算で割り出そうとするとめちゃくちゃ面倒で難しい問題」の代表例としてよく出てきます。そして、規模感やクラスの違いはあれど、粘菌はこの巡回セールスマン問題を、簡単に解いてしまうんですよ。興味のある方は「粘菌コンピュータ」などのワードでググってみてください。

専門的な話にどんどん潜っていきますが、粘菌は「局所的に得られる情報だけで、全体としての最適解をはじき出す」という行為を上手くできていて、しかもエネルギー消費量は最小に留めている。脳がないのにすごく頭が良くて、完全に分散型で、しかも最後に出ててくるアクトがとてもスマート。そんな粘菌の行動規範、アルゴリズムはまだまだ謎に満ちています。これが明らかになれば、現在のコンピュータでもってしても解決困難な問題を解けるようになるかもしれない……といった期待が寄せられていたりもするんです。

計算機のアルゴリズムを作る時って、必ず視点がある。「自分はこっから問題を見ている」という一定の視点です。けれども、粘菌には目がないから、視点もない。どこにも中枢がないから、いろんな場面でいろんな情報をローカルで集めていって、その情報を何らかの形で活用して、ふわっと行動の最適解を導き出してしまう。まさに複雑系です。

──粘菌は身体のどこまで情報を共有してるんですか?

佐山:それもまだ判明していないんです。おそらく、動きを見ている限りでは、そこまで局所的ではないと思います。粘菌の動く様子、YouTubeにたくさん動画が上がっていて、見てるとすごく面白いですよ。早送りで見ると、本当に動物みたいで。からだ全体に波が流れていて、心臓が鼓動してるかのように脈動しているんです。

波というのは物理的な波だけじゃなくて、化け学的なシグナルを送っているとも捉えられます。粘菌が使っているシグナルの分子というのは、我々が脳内で使っている神経細胞同士の細胞間トランスミッターと同じなのでしょう。だから、情報分子がやり取りされている。インターネット自体が生きていて、彼らが自発的にネットワークを張り巡らせていくのと同じですね。

個ではなく、組織自体が学ぶ「コレクティブラーニング」

──少し話が戻るのですが、最近よく聞く「コレクティブラーニング」というのも、集団動態に近い分野でしょうか。

佐山:近いですね。コレクティブラーニングという言葉には、二つの文脈があります。一つは単純に「みんなで学ぶ」という文脈。学校みたいな場での先生との1対1、一方的な教えを受ける形ではなく、生徒同士でチームを組んで学び合うこと。ここを意味するのが典型的な用例だと思います。

もう一つの文脈は「誰も一人として勉強はしてないのに、組織として学んでいる」というような状態。チームが経験を積むことで、相互作用が円滑になり、個人のスキルが上がらずともチームとしてのパフォーマンスも向上する。こうした現象も「コレクティブラーニング」と言えます。

──今のコレクティブラーニングのお話を聞いて、先日読んだセザー・ ヒダルゴ教授の著書『情報と秩序:原子から経済までを動かす根本原理を求めて』の内容とも関連性があるのかな、と感じました。

佐山:英語での原題は『Why Information Grows』でしたね。彼は複雑系のコミュニティのチームメイトです。ただ、彼の本とコレクティブラーニングはちょっと違うかな。彼が言及しているのは集団ではなく、国の話なので。「ある国、ある地域が、どういう能力を持っているか」というのを総合的に可視化した上で、「それらの共同体が次にどういう成長をし得るか」をネットワークの技法を使って議論した本なんです。

『情報と秩序:原子から経済までを動かす根本原理を求めて(早川書房/セザー・ ヒダルゴ 著, 千葉敏生 訳』

佐山:ある国が豊富な人材と資源を持っていたとしても、それによってすぐに経済的成長ができるかと言うと、そんなことはありません。たとえば工業的な発展を目指すなら、「こういう製品をつくるためには、こんな中間段階の製品とかパーツが必要」、「それを作るためにはこういう技能が必要」というように、複雑に要素が絡み合います。

そうした製品同士、技術同士のつながりをネットワークで可視化した上で、ある時点でのある国が持っているキャパシティをマッピングすると、次にどんな産業的な成長が起こるかを予想できる……そんな研究をまとめたのが『Why Information Grows』。

セザーはスゴく頭いい、面白いやつですよ。しょっちゅうFacebookでやり取りしてますが、あの本を出してから有名人になっちゃいましたね。今は講演やらで世界中を飛び回っていて、なかなかお酒を飲みに行く機会も取れないのが残念です。

ここまで国家や地域スケールの話をしましたが、多分みなさんの組織にとっても示唆的なことだと思います。個々の人材の能力はもちろん重要なんですけど、そのトレーニングだけに集中していても、おそらく組織としての機能は次のレベルに進みません。そこにはやはり、複雑系とかネットワーク・サイエンスが絡んでくる。つながりの部分、関係性を強化しないとダメです。「チームワーク」と言っちゃうとちょっとチープだし、少しニュアンスも違うのですが。

──「関係性」と「チームワーク」が違うというのは、どういう意味ですか?

佐山:「チームワーク」は、ある5人のチームがあったとしたら、その5人で一生懸命トレーニングして、5人間のコンビネーションを良くしていく……みたいなイメージだと思います。一方でコレクティブラーニングのコンテクストにおける「関係性」は、その個別の5人に固執しません。5人のうちのAさんが果たしている役割を、外から連れてきたZさんが代替できてもいい、と考えます。

そういう意味で、複雑系において「集団」を考える場合には、それを「チーム」と呼ぶよりも、「オーガニゼーション」や「コレクティブ」と表現した方が、感覚的にもフィットするんです。

変革とは、組織内に培われてきたラーニングとの戦い

──つながりや関係性をトレーニングするとしたら、それはどんなイメージでしょうか?

佐山:具体的な関係性のトレーニングの方法論については、正直私にもよく分からないです。新人研修などでやってるのは、ほとんどはコミュニケーションスキルのトレーニングなんですよね。関係性の強化のために必要なのは、やっぱり実地で得られる経験だと思います。「こういうトラブルが生じた時に、こういうチャンネルで情報を流したらうまくいった/いかなかった」といった経験値が蓄積されていくことで、組織全体が成長する。それを“トレーニング”と表現するのはちょっと変で、やはり“ラーニング”として起きているものですね。

──そうしたラーニングを組織の中で蓄積していくためには、やはり最近よく言われている「心理的安全性」などが重要なのでしょうか?

佐山:そうですね。その安全性は「ラーニングが起きやすい素地をつくる」という意味で重要です。安全性が担保されれば、皆やり取りを活発にするようになるので、その分だけコレクティブラーニングが起きやすくなります。

──その、ラーニングって……いいことばっかりじゃないですよね?

佐山:鋭いご指摘です。私は研究者なので、「良いとか悪いとかの価値についてはなるべくニュートラルにしよう」と思いながら、ここでも話しています。だから、私の言っていることに価値があるとは思わないでください(笑)

たとえば、組織の中にまったく非生産的な慣習が、意味もなく長年残っていたりしますよね。あれもラーニングの一種です。なかなか組織がそこから抜け出せないのは、組織内で素晴らしいリインフォースメントラーニング(強化学習)が浸透しているんです。現状維持というのは、生物学的に見ても非常に大事なストラテジーです。

「今までそれなりに上手くいっていたのに、それをあえて変える」というのは、変えたことでダメになる可能性もあるから、生存戦略的もかなりリスクが伴うと。もちろん、それがただの言い訳になっているケースも多い。「組織にある慣習を変える」とは、「長年培われてきたラーニングと戦い」なのです。

複雑系の知見が、組織の課題解決に新たな視点をもたらす

──ある意味、ラーニングも自己組織化のひとつのプロセスだと。

佐山:はい。自己組織化にも、良いものもあれば悪いものもあります。

──「何か新しいパラダイムで別の自己組織化を起こして、旧来の組織を変えていこうとする」といった文脈で、それをどうやったら起こせるのか……といった研究は、複雑系で取り組まれていたりしますか?

佐山:もちろん、いっぱいありますよ。質問ありがとうございます、それはとても素晴らしい視点です。「いま起きている変化が、自己組織化によるものなのかどうか?」が理解できると、対処の仕方が変わるんですよ。

組織内でとある問題が起きていたとして、多くのケースでは対処療法的に「その問題をなくそう、抑えよう」というふうに考えますよね。ただ、その問題が自己組織化の結果として生まれたものだと分かれば、複雑系の見地から「どこか別の所をキュッと絞めてやると、あっという間に状況が変わる」というロジックが成り立つ。それを踏まえて、対処療法とはまったく異なるストラテジーを立てることができます。

学校を例にとりましょう。「学校をよくしよう」と言って、ドカーンと予算を割り当ててお金を投入するのは、対症療法的なやり方です。それではまったく効果が出ない。その学校のクオリティが低いのは、「お金がないから」ではなくて、もっと別の条件のコンテクスチュアルな条件がいっぱいあるんです。それらの帰結としてさまざまな問題が表出している。そこを直して「学校をよくしよう」と言うのなら、もしかすると学校とは全然離れた所の、社会的なメカニズムにアプローチする必要があるかもしれない。

たとえばアメリカであれば、そこには地域の人種差別の問題が絡んできたりする。実際に学校内部をどうこうするより、行政と連携して地域のケアに回った方が、明らかに成果が出るケースなども多々見られます。これは「対処療法が間違っている」という話ではありません。複雑系のネットワークの視点を持っていれば、組織の課題に対してまったく違った見方が可能になり、対処の幅が広がるのです。

北斗の拳とコントローラビリティ

──「目が痛いから目薬をさす」というのが対処療法だとして、複雑系のアプローチは「目が痛いから手足のここのツボを押す」みたいなことなのかな、と話を聞いて感じました。

佐山:まさに“ツボ”ですよね。日本語は豊かですね、ツボという言葉はピッタリだ。現在の複雑系では、「ネットワーク内のツボを特定する」ための研究がとても盛んです。あらゆるネットワークはそれぞれのルールに従って挙動を示していますが、どのネットワークにも「ここを突くと全体をコントロールできる」というツボがあるんです。

私はちょうど世代なんですけど、『北斗の拳』では主人公のケンシロウが「アタタタッ!」と敵の秘孔を突くと、バーンとなりますよね(笑)。あれが複雑系の中にもあるわけです。もちろん1つとは限らず、「2つや3つを一緒に押さなきゃいけない」といった複雑な条件があったりします。

複雑系の世界では、ネットワークにツボが存在すること、そのツボでネットワーク内の挙動を制御できること含めて「コントローラビリティ」と呼んでいます。

──複雑系におけるコントローラビリティの研究は、具体的にはどのような分野で進んでいるのでしょうか?

佐山:ニューロサイエンス(神経科学)が多いですね。ぶっちゃげて言うと「人間の脳をどうコントロールするか」という、結構ヤバい研究が進んでいます。もちろん、人間の神経ネットワークは大規模で複雑すぎるので、現在の科学技術では解析しきれませんが、小さい生き物での実験は成果が出始めています。

カエノラブディティス・エレガンスって線虫、ご存じですか? 体長約1mmで、神経細胞が100~200個くらいしかなくて、神経回路が完全に把握できている生物です。私の研究者仲間のひとりが、この線虫の神経回路をネットワーク解析して「コレとコレとコレが○○という動作のコントロール・ノード(≒ツボ)だ」などとモデリングをしていて。実際にそのノードに電気刺激を与えると、前に動いていた線虫がこちらの想定通りに方向転換をしたりするんです。

これはすごい発見で、おそらく「理論的には同じようなことが人間でもできるよね」と言えてしまう。我々の脳にも、コントロールのカギとなるノードがあって、すべてを解析しきれなくてもそれさえ判明すれば、行動を操ることが可能になるかもしれない。医療分野などでの明るい活用方法はいくらでも考えられますが、やっぱりちょっと怖さも感じますよね。

人間中心の考えでは、持続可能性は見出せない?

小林 泰紘(こばやし やすひろ) Ecological Memes 発起人/キュレーター
世界26ヶ国を旅した後、HUB Tokyoにて社会的事業を仕掛ける起業家支援に従事。その後、人間中心デザイン・ユーザ中心デザインを専門に、金融、人材、製造など幅広い業界での事業開発やデジタルマーケティング支援、顧客体験(UX)デザインを手掛けた。現在は共創型戦略デザインファームBIOTOPEにて、企業のミッション・ビジョンづくりやその実装、創造型組織へ変革などを支援。自律性・創造性を引き出した変革支援・事業創造・組織づくりを得意とし、個人の思いや生きる感覚を起点に、次の未来を生み出すための変革を仕掛けていくカタリスト/共創ファシリテーターとして活動。座右の銘は行雲流水。趣味が高じて通訳案内士や漢方・薬膳の資格を持つ。イントラプレナー会議主宰。エコロジーを起点に新たな時代の人間観を探る領域横断型サロン Ecological Memes発起人。

BIOTOPE 小林氏(Ecological Memes発起人。以下、小林):佐山先生、そして参加者の皆さん、エキサイティングな対話をありがとうございます。ここで改めて、僕の方から今回のイベントの趣旨を整理しつつ、佐山先生にいくつか質問をさせていただきながらもう一段対話を深めていけたらと思います。

小林:Ecological Memesは、エコロジーや生態系を切り口に、さまざまな分野を横断・往来しながらこれからの時代の人間観やビジネスの在り方、持続可能な生態系について探索していくことを趣旨としています。なぜエコロジーなのかというと、これらのテーマを人間だけの世界に閉じて考えることには限界があり、ほかの生き物や自然環境も含めた相互のつながり合いや “全体性”を考えていく必要があると思っているからです。

「複雑系」という言葉には、多種多様な要素が入り混じりつながり合った“全体”を、なるべくそのまま捉えていく、といったニュアンスも含まれているのではないかと感じています。まず、佐山先生から見て、こうした“全体性”に目を向けていくことには、どのような意味があると思われますか?

佐山:それはすごく大事なポイントです。この世界に起こる事象を捉えていく上で、単一の要素の動きだけを追うことに、あまり意味はないと思っていて。それだけ見ていると、そこに他の要素が入り込んできた時にどうレスポンスするかが、まったく把握できないから。だから私は、自身の研究では必ず複数の要素を混ぜるようにしています。

複雑系の研究においては、多種間のインタラクションに目を向けていくことが大事です。私個人としては、絶対にそうであるべきだと思っているので、ここ10年くらい周りに一生懸命説いていて(笑)。最近はそういった研究が増えてきているので、それは喜ばしいですね。

小林:気候変動などを例に取ると分かりやすいかと思いますが、私たち人間の持続可能性を模索していく上でも、人間の都合だけを考えていたら、いつかどこかで破綻しますよね。なぜなら人間が生きている世界は、ほかのいろんな生物、自然との関わり合いの上に成立しているものだから。

佐山:地球上で起きている問題について考える場合、人間を中心的にすえることは非常に危険だと思います。言ってしまえば、その人間が諸問題の根源なわけで、人類がいなくなれば惑星自体は健康に戻ることは明らかです。しかし、そういうことを言うと研究費がもらえない(笑)。だから、多くの研究には「とりあえず人間は守らないといけない」という暗黙のルールがある。

大雑把なくくり方をしてしまっている「人間」という概念から、もう少し離れるべきなんでしょうね。我々が「人間」と呼んでいる集団の内部構造を、人間以外の要素を含めながらもっと慎重に見直していかないと、「今の世界がなんでこんなにうまくいっていないのか」が分からないと思います。

全体は見えない、だから見なくていい

小林:エコロジカルミームでは、「個と、それが形成する集団・群れ、そして地球環境の相互作用に着目して考えることが、エコロジカルな世界の実現につながっていくのではないか」という仮説がひとつの出発点になっています。ここでいう“群れ”というのは、家族や地域コミュニティ、組織、都市、国などさまざまな単位を想定しています。

私たちが生きている環境は本当に複雑で、先ほどの佐山先生のコントローラビリティの話を例に取れば、いま自分の見えていない所で起こっている事象がツボを刺激し、世界や全体の状況に大きな変化を起こしていて、その影響を自分は受けざるを得ない……みたいなことが、きっと山ほどあるんですよね。

そういった全体のスケール感や複雑性を想像すると、個というのはあまりに無力に感じてしまうこともある。かといって、「世界全体を捉えてそれをコントロールしよう」という態度にもどこか限界がある気もします。そもそもこの世界は頭で理解するには複雑すぎるのでしょうし、「全体が全部わかる」と思うこと自体がおこがましい、というか。

こうした状況の中で、私たちはどういう風に「“世界”という全体」と向き合っていけばいいと思われますか?

佐山:ありがとうございます。それはすごく大事な問いだと思います。これは私個人が出している結論ですが、全体は見えません。だから、「全体を見よう」とするのはやめた方がいいです。

小林:やめた方がいい?

佐山:この世界のこと全部を見ようとすると、複雑度があまりにも大きすぎるので、我々個人の頭では到底理解できない。地球全体のふるまいを理解するための情報量を処理しようとしたら、おそらく全人類の脳みそを使って丁度いいぐらいでしょう。

小林:現在あるスーパーコンピューターでも、人間の脳の1%ほどの神経回路しか再現できていないことを考えると、やっぱり途方もない情報量ですね。

佐山:ざっくりとした想像ですけどね。それくらい、マクロの情報をすべて得ようと努力するのは虚しいことだと、個人的には思っています。

ちょっと話を戻しますが、先ほど「粘菌は局所的に得られる情報だけで、全体としての最適解をはじき出す」と言いましたよね。これってつまり、「あるネットワークの中で個々人が好き勝手動いてるけど、全体としてはうまくいってる」という状態のようなものです。すごいですよね、粘菌は。

ただ、彼らも最初から最適化したネットワークを持っていたわけではない。なぜ今の粘菌がうまくいっているかと言えば、「これまでにたくさん死んだから」です。うまくいかなかった膨大な数の粘菌の試行錯誤、失敗があったからこそ、彼らは進化の過程で今の形態にたどり着けたのです。

これは人間にとっても非常に示唆的な話です。人間だって、これまでの進化の過程の中で、あらゆるタイプが生き残ってきたわけではないんですよ。寒さに耐えられないタイプが死んでいった時代もあれば、暑さに耐えられないタイプが死んでいった時代もあった。

いろんなタイプの人間がいて、どれかはうまくいかない。これは悲観的な話ではなくて、ある生物が存続していく上で必要な状態なんです。寒さに弱いタイプが死んだからといって、みんなが寒さ対策にばかり気を取られて暑さ対策を怠っていたら、急に暑くなった時に全滅してしまいますよね。

今のはちょっと雑なたとえ話ですが、要するに「常にいろんなタイプの個体がいないと、その種は簡単に絶滅してしまう」という話なんです。

会場に置かれた、Ecological Memesの思想をひも解くための参考図書。

多様性がなければ、私たちは絶滅してしまう

佐山:そこでキーワードになってくるのが「多様性」です。これは「多様性のある社会のほうが、個人が生きやすくなる」といった社会的なレイヤーの話ではなく、あくまで「多様性がないと絶滅の危険性が高まる」という、より俯瞰的でドライな観点の話です。現時点での良し悪しなどは関係なく、いろんなタイプの人たちがいないと、粘菌のようにはなれないんですよ。

小林:現時点での良し悪しは関係ない?

佐山:たとえば、Twitterで1万人くらいフォローしている人と、顔見知りの30人くらいしかフォローしてない人がいたとして、「どちらが情報収集・発信の在り方として適切か」というのは、一概には言えません。ただ、どちらのタイプの人もいることが多様であり、その中間地点のような人たちもブワーッといっぱい広がっているべきです。

さまざまなタイプの人間がいないと、社会全体としてのレスポンスが均一化してきます。現代の人間が環境に対してプレッシャーを与えている最も大きな要因のひとつは、大量生産・大量消費ですよね。これは、みんなが同じような情報に触れ、同じようなライフスタイルを選んでいる……つまりは、均一化の弊害なんです。

産業構造や職業選択でも同じようなことが起こります。「データがお金になる」とわかってから、Google でも Amazon でも Facebook でもデータセンターがドカンとつくられて、ニーズがあるからみんなデータサイエンティストになっていく。

彼らが使っている電気の量は、ものすごいんですよ。現在、世界の電力消費の約3%をデータセンターが占めていて、これが2030年には8%にまで引き上がると見込まれています。世界で環境保全のための省エネが叫ばれている中、完全にその流れに逆行しているんです。

みんなが同じ方向に向かうと、どこかに負担が偏っていくんです。こうした問題は、見えない所でどんどん膨れ上がっています。けれども、みんなが違うことをやれば、少なくともこうしたリスクを分散できるんです。この文脈において、人間の行動や価値観、生活形態の多様性があることは、とても大きな意味を持ちます。

環境とは常に動的に変わっていくものです。変化し続ける環境で共存していくためには、どんな環境下においても誰かしらが適性を見出せるように、多様な状態を維持していくことが必要です。それこそが、持続可能なシステムの本質であるとも言えるかもしれませんね。

パーソナライズのキーワード「繋がない」

小林:「社会が多様である」というのは、個人の話に落とせば「個性的である」ということですよね。

佐山:「人はあらゆる面において他人と違った方が良い」と、私は感じています。だから周りを見てみて、自分が少しでも他の人と似ていると感じたら、ちょっと違うやり方にしてみたりね。社会のシステムとしてはその方が確実にエコだし、結果的に「その人にしかない要素がある」という状態は、必ずしもそうだとは断言できませんが、個人にとっても有利に働くことが多いのではないかと。

小林:私たちはどうしていったら、自らをパーソナライズしていけるのでしょうか。

佐山:難しいところですね。私たちはこれだけ情報過多の社会に生きてますから。感覚値ですが、「これが自分だ」と思っても、その思考の7割ぐらいは外からの受け売りで構成されているでしょう。私なんて1割くらいですよ、きっと。今日もそうですけど、9割は誰かから聞いたことを、自分でそのまま喋ってますし(笑)

佐山:本当にパーソナライズして人と違う自分になりたいと思ったら……「真っ白で何もない部屋に、インターネットに繋がっていないコンピューターがひとつある」みたいな環境に身を置いてみるといいんじゃないでしょうか。これ、僕の理想の仕事場でもあるんですけど(笑)。そういう部屋にしばらくこもってひたすら書いたコードは、おそらく今の世の中にあるコードと全然違うものになると思います。

ここ最近ずっと考えているキーワードがもう一つあって、それは「繋がない」ということ。複雑系のメッセージの逆に聞こえるかもしれないんですけど。繋がらなくても、繋がりすぎていても良くないんですよね。ただ、現状の社会を見ると、どうも繋がりすぎている気がする。だからあえて「繋がない」ってメッセージが、今後さらに必要になってくるじゃないかなと感じています。

私たちは世界を変えられないし、世界は私たちを変えられない?

小林:それでは、また参加者からの質問を受付けていきたいと思います。皆さんの表情を見ていると「まだまだ聞きたいことがたくさんあるぞ!」という感じが伝わってくるし、僕もまったく同感です(笑)。感想でも意見でもいいので、どなたかいらっしゃいますか?

小林:いい感じにこの雰囲気に調教されてきていますね、皆さん(笑)。どんどんいきましょう。

──先ほど、複雑系科学の定義の中で「創発(エマージェント)」という言葉が出てきましたが、もう少し具体的にお伺いできますか?

佐山:「ミクロとマクロの関係性を定義できない状態」と表現するのが最もシンプルでしょうか。あるネットワークにおけるミクロの情報とマクロの情報を結ぶ解析的な数式を書いてみて、ミクロからマクロの挙動を予想できればドヤ顔をして、難しければ「うむ、これは“ソウハツ”ですね」とお茶を濁すのが定番です(笑)

複雑系の中には「マクロがミクロを支配する」という因果関係を議論する人もいます。彼らは、全体のシステムとしてマクロが存在していて、個々のミクロの分子を支配し始めるのだと主張していますが、これは真っ赤な嘘です。こういうことを言うと、多分いろんな人から批判されるんですけどね(笑)。絶対にそんなことはあり得なくて、分子は分子でずっと別の関係性における法則で動いています。

「スマホで世界の情報を見ることで、人間は世界というマクロに操作される」みたいなことを言う人もいますが、それは構造的に見れば“発信者と受信者”、つまりは個対個のインタラクションであって、マクロとの関連を示すものではありません。同じシステムをどのレベル、どのスケールで記述するかの違いでしかない。個が全体を支配するとか、全体が個を支配するとか、そういった因果関係はないんです。

もう少し具体的に説明すると、たとえば「トランプが大統領になってから、アメリカという国全体がこういう風に変わってきた」と言われることがある。人種にまつわる暴力が増えてきた、とか。これはたしかにマクロの変化です。

でも、実際にミクロのレベルで起こっているのは、隣にいる人との喧嘩なんですよ。つまり分子と分子、構成要素と構成要素のインタラクションなんです。「アメリカというマクロが私に何かしてくる」ってことはあり得ない。「少なくとも影響は与えているじゃないか」という指摘があったりしますが、突き詰めて考えれば影響も同じスケールの関係性の中で起こっている話なんです。

「個々が好き勝手に生きる」が、世界にとっての最適解

イベント中の約3時間、参加者からの質問が途切れることはなかった。

──「ミクロとマクロに因果関係がない」ということは、ミクロの構成要素である私たち個人が何をしても、マクロである社会は変わらない、とも言えますよね。だとしたら、こう少しでも「世の中をよくしたい」と思っているような人は……言い方が難しいのですが、どう生きていったらいいのでしょうか?

佐山:もうね、皆さん完全に好きなようにやってもらっていいと思います。とても逆接的ですけど、「個々が好き勝手に生きる」が、全体を踏まえた際の最適解です。

複雑系科学、とりわけカオス理論などに少し触れた人は「私がすることは巡り巡って世界の変化に繋がるのだから、世界のことを考えて、世界のために行動しなきゃ」という風になりがちですが、それは危ない考え方です。

なぜ危ないのか? 歴史を見れば一目瞭然じゃないですか。すべてがそうなるわけではないものの、そういった思考が全体主義やポピュリズムに繋がって、大きな事件の引き金になることは、少なくありません。

だから皆さんは「個と全体はつながっている」ということを念頭に置いた上で、ぜひ、完全に個人主義に走ってください。社会全体におけるメリットや影響なんて、考えてもきりがないですから。もし社会のために何かしたいと思うのであれば、それぞれの個人が違った尺度で、ローカルから見た世界に基づいて「これは良いはず」と感じたことをやっていけばいいんです。

──意地悪な聞き方かもしれませんが……そうした個人主義的な考え方が、結果的に環境破壊などの諸問題を招いているとは考えられませんか?

佐山:誤解されがちですけど、個人主義とは「個人のベネフィットを上げるために行動しろ」と言ってるわけではありません。「それぞれが自分の判断基準に従って、違った行動をしてください」という意味です。

その中で「私は社会全体、システム全体のために奉仕します」という人が出てくること自体は、もちろん構わないんです。そういう人がいるのは、ありがたいですよね。ただし、そこから「社会のために皆さんこうしてください」と他者へのインポーズが生まれてくるのは、危険な兆候です。数理社会学的に考えても、明らかにヤバい方向にいきます。

ここもまた逆接的で、誰かが「社会全体のシステムに対していいことをしていこう」「そのために全員こうするべきだ」と言い始めてそこに与する人が増えてくると、途端にシステム全体は弱っていくんですよ。

念を押しますが、個人主義とは「社会課題のようなマクロの変革に取り組もうとする人たち」の行為を否定するものではありません。社会には、そういう人もいて然るべきです。いろんなアプローチの社会変革があっていいし、彼らを取り締まるのも良くないことです。

──な、なるほど……。

佐山:皆さん、いい感じに混乱してきていますね(笑)。つまりは「多様性が重要だ」という話に繋がってくるのです。個々の挙動が多様であればあるほど、結果的に見て、個人レベルの幸福度も上がるはずです。なぜなら、全体のためと強要されればされるほど、個人の幸福度は下がりますから。

一人ひとりが「こうしたい!」という個人的な妄想を抱いて、バーッと散り散りに走っていく。その行き先がいろんな方向をカバーしていれば、社会全体として存続していく可能性が高くなります。みんながみんな「こっちがいいよね」と同じ方向に走っていった場合、それがもし間違っていたら、全員が一斉にこけてしまう。そういう事例は、歴史的にもたくさん起きていますからね。

パラダイムシフトはそうそう起きない

──私たちの世界では時々、「ある瞬間を転機に大きく社会の在り方が変わっていく」という相転移的なパラダイムシフトが起こると思います。そのパラダイムシフトをつくった契機に個人がいたとしても、それは「ミクロがマクロに影響を与えた」とは言えないのでしょうか?

佐山:生物の進化の過程を見ると、構造の変化はものすごくロングスパンで起こっていますよね。あれと同じで、全体のシステムの変革というのは、マクロな視点で見るとグラジュアル(漸次的)に起こるものです。

今この瞬間や、直近で起こったことを見ていくと、「これは相転移かも」と感じる出来事はありますよね。とあるムーブメントの参加者が100万人を超えた、とか。しかし後々長い目で、10年や100年といったスパンで振り返った時には、それは総括的にまとめられる社会運動のひとつに過ぎません。

だから、パラダイムシフトって「何かの登場で世界が突然変わる」って思っている人が多いですけど、全然そんなことはないんです。そうやってファッショナブルにぶち上げると本が売れるから、みんなそう言っちゃってますけどね(笑)

──インターネットの出現などは、結構なパラダイムシフトなのかなと捉えていたのですが、違うのでしょうか? 

佐山:たしかに、情報共有のスピードは格段に早まりましたね。インターネットが登場して、局所的な相転移はいくつも起こったのかもしれません。ただ、私はパラダイムシフトを「人間が本質的、根本的に変化する」というレベルで捉えていて。そうと言える変化がインターネットによって起きたかと問われると、ちょっと微妙かなと個人的には思っています。

新しい技術が世の中にアダプトしていくと、パソコンやスマホといったガジェットは一気に広まります。ただ、それはマーケティングの文脈で説明できる現象です。人間のラーニングは遅いので、使う道具が変わっても、基本的な思考の体系はそうそう変わりません。歳を取るとなおさらですよね。

「じゃあ若い世代は?」という話が出てきますが、彼らの場合は、“考え方が変わる”のではなく、“最初からそうなっている”だけのこと。つまり、生物学的な世代交代が起きるタイミングでは、群として「置かれてきた環境の前提」が変わり、その中で育まれてきた“当たり前”も変容しているので、そこで比較的大きな相転移が起こる可能性はあります。

BIOTOPE・松浦桃子氏によるグラフィックレコーディング

生命とそうでないものの境目はない?

──複雑系科学の中では、「記憶」はどういったものとして捉えられていますか? 個人の記憶は基本的に死んだらなくなるわけですが、ある集団の中で伝承されていくような記憶もあったりするかと思います。

佐山:ものすごくドライな言い方をすると、記憶とは「システムの状態」です。複雑なシステムの中には、大量の変数がありますよね。この変数がある特定の数値を取っている状態が、すなわち「記憶がある」と言えるのです。

我々の場合は脳みその中にある神経細胞が記憶を司っていますが、別に神経細胞じゃなくてもいいんです。ほかの動植物やコンピュータのような無機物でも、何度か一定の状態を保てている様相を確認できるならば、それは紛れもなく記憶の産物です。

魚や鳥が群れで変わった行動を取る、といった現象がありますね。あれも「集団全体として記憶を持っている」と言えます。同じように人間の組織や社会も、過去の履歴に基づいた記憶を維持するメカニズムを持っています。

──お話を聞いていると、だんだん生物と非生物の境目が曖昧になってくるような気がしていて。佐山先生は「生命があるものとないもの」の境目って、どのように捉えられていますか?

佐山:「生命」と「非生命」の境目は、ないです。逆に聞きたいのですが、ありますか? あったらぜひ知りたいです。

「生命の有無を判断できる」と思えているのは、我々が普段見ているものが二極分化しているだけであって、その中間の例は世界にいっぱいあるんですよ。中間の例というのは、たまたま状態が不安定だからどちらかにいっちゃうだけの話で……と、このあたりは私の研究分野である人工生命の話になってくるんですけど。キリがないので止めておきます(笑)

生き物かそうでないかの判断に「意識の有無」を挙げる方もいますが、複雑系科学で意識の問題はあまり議論されません。というのも、議論しても答えが出ないから。仮に意識を定量化すれば、どんなものでもある程度の、それこそ水でも0.0000001意識ユニットくらいは持っていると言えてしまうでしょう。ネットワークに記憶があれば、経路依存性が生まれてくるので、それをもって「意識を持っている」と言えなくもないですしね。

個体でないものについても……たとえば、「人間社会」って生きてますか? 生きている個人が集まっているものは、生きていると言えるのか。これもまた、難しい問いですよね。生と死は、私たちが普段思っている以上に曖昧なものなんです。

スピリチュアルではない複雑系の説明

──自分は真面目に「自然との繋がりを考えることが大事だ」と周りに話したりするんですけど、その時に「スピリチュアル系ですか?」というリアクションを取られることがあって。今日の複雑系のお話を聞いて、あらためて「スピリチュアルじゃないんだよ」と言える気がしています。すみません、ただの感想なんですけど。

佐山:スピリチュアルって解釈、よくありますよね。なんでなんでしょうか。宇宙との繋がりを考えることだって、学問的に見れば全然スピリチュアルじゃないんですけどね。実際、宇宙からは電波が送られてきていますから。

そのあたりを変な風に誤解や曲解をして、根拠のないことを言う人たちもいることは確かです。まあ、別に実害がなければいいのかなと思います。スピリチュアルだろうがなんだろうが、それが皆さんの人生がよくなるような行動に繋がるのであれば、わざわざ否定するのもナンセンスかなと。ただ、スピリチュアル的な何かというのは、意思決定にはまったく役に立たない繋がりなので、あんまり生産的ではないよなあと個人的には思っています。

念のために、スピリチュアルではない複雑系の説明の仕方もご紹介しておきましょうか。最近、一般の方々向けに複雑系をイントロデュースするパンフレットを作成したんですよ。研究者が書いているので、スピリチュアル要素は一切入っていません。ウェブサイトで見られるようになっているので、興味のある方はぜひ。来週の試験に出ますから、覚えておいてくださいね?(笑)

佐山先生がドキュメントにまとめ、公開している『複雑性早わかり

生命とは泡である

──生命の起源に興味があるのですが、人工生命の研究者である佐山先生は、そのあたりどのように考えていらっしゃいますか?

佐山:ヤバい質問が来ましたね(笑)。あくまで個人的な見解ですが、私は「エネルギーがあるところには生命が発生し得る」と考えています。

ラーメンを作る時に泡を立てずにお湯を作れますか? 多分、やろうと思えばできるんですよ。超低温で3時間かけてお湯にするみたいなプロセスを取れば。でも普通に過熱してたら、泡は立ってしまいますよね。

この泡っていうのが、すなわち生き物の起こりなんです。根源的に言えば、エネルギーが流れていくプロセスの中で、どうしても何らかの構造を作らないといけない。そこでエネルギーの散逸が効率的でない場合に、泡ができるんです。

もちろん最初はただの泡ですから、生きてはいません。けれども、そこに自己複製するメカニズムなんかが偶然入ったりすると、エネルギーを浪費するような泡が次々と生まれてくる。この「自己複製していく泡」の行きつく先が、我々です。

──エネルギーがあったから、生命が誕生したと。

佐山:そうです、エネルギーがなければ生命は生まれません。「太陽がガスコンロ、地球がラーメンを作っているお湯で、我々はそこにぶわーっと生まれてきた構造なんだ」と思ってもらって全然構わない。これジョークじゃなくて、本当にそういう説明の仕方をした人がいるんです。イリヤ・プリゴジンという科学者で、散逸構造の理論で1977年にノーベル化学賞を受賞していますね。

おそらく、物理形成の段階でエネルギーを散らせないといけないんですよ。エネルギーが入ってきた時に、通常はランダムに流れていきます。そのエネルギーの散逸が局所的に起こった場合に、何らかの構造ができることがある。その構造がたまたま“自己複製”だったら、生物ルートに入っていくと……ちょっと話が難しくなりましたね、そろそろ次にいきましょうか。

『複雑性早わかり』を公開している、ウェブサイト——ComplexityExplained

複雑な世界における「幸せ」とは何か?

──先ほど幸福度の話が出てきたのでお聞きしたいのですが……先生は複雑な世界の中で、人間がどうしたら幸せになれると思われますか? 「それぞれ好き勝手に生きる」というのがひとつの答えかと思いますが、もしあれば、もう少しヒントをいただけたらと。

佐山:そうですよね、皆さん幸せになりたいですよね。ただ、「誰もに当てはまる幸せのファクター」というのは、残念ながら難しい。個々で幸せの在り方は全然バラバラだし、バラバラで良いと思うんです。だから、全体のために自分の幸せを犠牲にすることは、やらなくていい。

たとえ自分の幸せのための行為が、環境破壊を助長していたとしても、個人的にはそれでも構わないと考えています。「環境を守って自分が不幸になる」なんて本末転倒ですから。もし「環境破壊に加担していることが、自分にとっての不幸感につながる」と感じるのであれば、何かしらやり方を変えて、上手く折り合いをつけていけばいいのでしょう。

そもそも、「幸せ」とは何なのでしょうか? なぜ人間は、何かをすると悲しくなったり幸せになったりするのか。この問いについてはさまざまな説明の仕方がありますが、ものすごく冷めた言い方をすると「進化の結果」なんですよ。進化の過程の中で、そう感じるメカニズムが生存に有利だと判断されて残ってきた。物理世界に“絶対的な幸せ/不幸せ”なるものは存在しませんから、言ってしまえば「幸せ」とは「錯覚」でもあります。

だからこそ「すごい幸せだな/不幸せだな」と感じた時に、一歩下がって「なんで自分はそう感じているんだろう」と、引いて考えてみることが重要です。これが「メタ認知」です。メタ認知で自分の感情が動く要因を捉えていけば、幸せや不幸せはある程度コントローラブルになります。

ローカルな世界に埋め込まれた現状と離れてみて、自分という存在を相対化していく。こうしたアプローチは、とても仏教に通じる部分があるような気がしますね。どちらかと言えば受動的な方法論ではありますが、頭に留めておいていただくと、つらいことがあってもあまり苦しまずに済むかもしれません。まあ、そうすると喜びも薄まっていって、感覚がどんどんニュートラルになっていくんですけどね。いわゆる“悟り”と呼ばれる境地に近づいていくと。

“悟り”の境地は、複雑系の研究者がデータに向き合う状態と近いように感じます。俯瞰的な場所から、起こっていることすべてをパターンとして捉えていって、それを「マクロからはこういう風に見えてますよ」とドライに示していくのが、我々の学問ですから。ちょっと拡大解釈していくと、仏教も複雑系なのかもしれませんね。

──だからと言って、我々が見えているごく一部のパターンが空虚だ、というわけでもないんですよね?

佐山:もちろんです。マクロから見れば取るに足らない変化でも、ミクロから見れば一大事ですから。ただ、それを大事に捉えすぎてしんどくなってしまったら、そこから離れてみるのも選択肢としてアリだよ、というニュアンスで覚えておいてください。

同種で群れず、多様に繋がれ

──佐山先生がおっしゃった「繋がない」というキーワードが、すごく胸に響いています。一方で、現代の私たちの世の中は繋がりにあふれていて、一切合切すべてを断ち切るのは現実的ではないし、それはそれでバランスの取れていない人間になりそうな気もしていて。上手に社会のネットワークと繋がっていくためには、どんな視点を持ったらよいでしょうか?

佐山:アメリカのTwitterなどが顕著なんですけど、SNSでは「繋がりすぎて分断する」ということがあちこちで起こります。いろんな調査で明らかになっていますが、考え方が似ている人間同士が広く強固に繋がっている一方で、考え方が違う人たちのコミュニティとはほとんど繋がっていない人が多いんです。

皆さんはどうでしょうか。自分と全然違う考えを持った人、SNSでフォローしてます? プロレス好きじゃない人は、プロレスラーをフォローしないですよね。トランプをフォローしている人は? あ、言わなくていいですよ(笑)

同じような属性や趣向を持った人間との繋がりを優先して、違うタイプの人間を避けようとする現象を、心理学では「ホモフィリー」と言います。これは普遍的な傾向、人間の進化の結果として備わっている性質ですから、しょうがない。同質性の高い群れができてしまうのは、我々個人の責任ではありません。こうやってどんどん責任転嫁していきましょう。どうでもいいことにはウソをついて責任転嫁をして幸せに生きる、これが肝心です(笑)

ただ、特定のクラスタの中だけで繋がりすぎていて視野が狭くなっていくと、「こうすべき」みたいな周囲へのインポーズが強くなっていくでしょう。このリスクについては、先に述べた通りです。

だから皆さん、情報源を多様化していきましょう。ここでもやはり「多様性」がキーワードになりますね。自分とは違ういろんな人、対岸にいるような人の意見に触れてください。その結果「これはダメだ、ストレスになりすぎる」って切ってもいいですから。少なくともいろんなインプットに触れておいた方が、個人レベルでもリスクが下がりますよ。

小林:繋がりの多様性を大事にしながら、自らの個性を突き詰めて判断・行動していくこと――言葉にするとシンプルですが、“多様性”の本質というか、「繋がりすぎてしまった複雑な世界を僕らはどう生きていくか」といった問いと向きあうための、非常に大切な示唆をいただいたように思います、佐山先生、今日は知的興奮の止まらない3時間を、本当にありがとうございました。

【Ecological Memes:イベント告知】
エコロジーや生態系をテーマに、これからの時代の人間観やビジネスの在り方を探っていく領域横断型サロン「Ecological Memes」は、12/22(日)に「“あいだ”の回復」をテーマにしたフォーラムを開催します。


豊かな自然に囲まれた北鎌倉・建長寺を舞台に、心身を整え、これからの時代の人間観やビジネスの在り方を共に探索してみませんか。

惑星規模での持続可能性が問われていく中で、生態系やエコロジーを志向する個人・組織・社会の在り方を探究し学びたい方。何かしらのキーワードやテーマに興味・関心のある方。よくわからないけどピンときてしまった方。どなたでもお待ちしています。

詳細は下記リンクよりご覧ください。

https://ecomemes-forum-2019.peatix.com/