2018年夏、4年目になる「ドチャベン」は、「野生的起業論 | Spontaneous Entrepreneurship」というメッセージをこの秋田から発信しました。「野生」と「起業」の耳慣れない組み合わせ。「Spontaneous」という教科書にも見かけなさそうな単語。それでも、この仮説の可能性を直感的に見出し議論に加わった皆さんと共に、半年間をかけてその実像に迫ってきました。
改めて、なぜ今「野生的起業論」という議論に着手したのか。その背景には、デジタルテクノロジーの進化、そしてその源流であるグローバリゼーションの影響があります。ここでは、「野生的起業論」を語る上で、インターネットとそれを取り巻くテクノロジーが、自律分散型の社会を実体のあるものにしつつあるという点を強調しておきます。
新たに敷設されたグローバルなインフラ*1は、中央集権型のシステムへの依存度を低減しました。同時に、豊かさや幸せのモノサシも変化しつつあります。こうした兆しの中で、21世紀を生きる私たちにとって、人が本来の生を存分に全うする余白・あそびが生まれはじめています。そんな時代だからこそ、「野生」というものがむしろはっきりと立ち現れてくる、そう思っています。
分断された個人、関係性に溶け出す「野生」 〜人間中心と生態系中心〜
秋田に息づく「芸達者」達との出会いを経て、創造性は「個人」*2に宿るものという見方は限定的であるとことに気付かされました。彼・彼女らが手掛ける事業、そしてその働き方や生き方は、「個人」としての資質や感性だけで説明できるものではない魅力と物語性に溢れていたからです。
地縁や血縁、その土地の歴史や風土、実りからのインスピレーション、偶然に出会う人とのつながり、そうした諸々の関係性*3の総合的な結実として、唯一無二のプロダクトやサービスが立ち上がる。それが、「芸達者」を巡る旅と、多くの人との対話の中で見出された一つの結論です。
「自然」とは「自ずから然り」。自然という系が本来的に備えている働きを促し委ねることで、その土地、その時代に、その場に居合わせたものによる多種多様な文化が形づくられてきたことに想いを馳せてみましょう。それは極めて自律的で自然発生的であったはずです。
21世紀には、再び自律分散型社会の様相が現れつつあります。また、それがテクノロジーの進展によってもたらされたことを考えれば、人は新たにデジタル空間をも関係性の一部として取り入れていく未来すらも想像できます。
「野生的起業論」という仮説は、従来の起業論やアイデア創出論があまり語ってこなかった創造性の在り方に、言語化されない「野生」的な何かがあるという見方に端を発しています。
今、それを言語化するならば、「個」が見える・見えざるに関わらずあらゆるものと無数に関係を結び、その関係性に溶け出していくような在り方を「野生」的と呼ぼうと思います。それは、自分の理解の下に引き込もうとするのではなく、ときに理解を超える領域に自ら赴いていくような態度を内包しています。
「野生」の構造 〜自然発生性、循環性、両義性〜
関係性の中に、むしろ果敢に飛び込んでいく「野生」。人類が過酷な自然環境の中で生き延びるために養ってきたその資性について、ここでは3つの特徴を取り上げてみます。そうすることで、その背後にある価値観、「野生」が発露するその先に見据えられた世界観が見えてくるでしょう。
近代科学は、全体から部分を抽出することで事象を分析してきました。あえて、ここではアリストテレスの「全体は部分の総和に勝る」という見方を採用してみましょう。そうすることで、「野生」が自然界の構造から引き継いだ「自然発生性」という第一の特徴が見えてきます。自然界の生態系は、絶えず代謝し、分解と生成を繰り返し、その構成要素を変化させながら、全体としてバランスを保つ動的平衡の状態にあります。
まるで一つの生命体のような生態系としての全体性(ホールネス)が、自然発生的に複雑な秩序を形成していきます。人類は、その中に自らの心身を委ね、自然界の構造を掴み取り、偶発性や人知の及ばぬ領域と関係をしてきました。そのかかわり方が「ブリコラージュ(あるものを寄せ集めてつくる)」であり、理性と感性が融け合うことで新たな知を創造してきたと言えます。そこには、人間中心的な発想やエンジニアリングの発想ではたどり着けない豊かな創造性が埋め込まれているのではないでしょうか。
その人間中心的な思考は、資本主義の飽くなき成長願望と共に育ちました。それは、一方で経済を成長させ、人間社会の底上げに貢献し、一方で、枯渇しかけている資源や地球環境が挙げる悲鳴への配慮を欠いていました。反対に、「野生」は「循環性」を目指します。これが「野生」の第二の特徴です。人類は、自然界が持つ弱肉強食の作用に対し、生態系の一部として人為的に働きかけることで生き延びる確率を高めてきました。
万物に八百万の神の姿を見抜いた人々は、自然を一方的に搾取する対象とは捉えません。頂いた命を還すというような、生態系の循環性の中に自分たちを組み入れること、自然と共生・共存することを目指しました。それは即ち持続可能性の追求に他なりません*4。それは、マタギが継承してきた掟や里山の思想とも重なります。
第三に、「野生」は「両義性」を孕みます。二元論や二者択一(YesかNoか / 0か1か)を超えて、そのグラデーションや、相反する要素が同居する状態を許容します。仏教をはじめとした東洋の思想には、光あるところに必ず影があるように、すべてのものは互いに相まって存在するという論理が見られます。生態系の全体性、自然発生性に委ねながら、しかしある程度は人為的に自然に働きかけてきた人類は、まさにその両義性を受け入れてきたわけです。
無数の関係性に飛び込むことは、自らの意志の及ばぬ範囲からの影響や偶然の出会いをもたらします。それを受け止めながらも、同時に自分の意志なるものを手放さないでいられるかどうか。一見すれば矛盾したような在り方に感じられるかもしれません。しかし、この両義性がせめぎ合う現場で、0か1かで割り切れないのをむしろ楽しめるくらいが、野生的な美意識を醸成するのではないでしょうか。
21世紀のOSとしての“Spontaneous Entrepreneurship”
Spontaneous : 形容詞
1)a. (外的な強制でなく)自発的な、任意の b.<衝動など>自然に起こる、思わず知らずに生じる、自動的な
2)<文体など>自然な、流麗な、のびのびした
“Spontaneous”という単語は、こうした「野生」を英訳する上で妥当な表現だと考えます。システムとして相互に影響し合うその渦中で起こる変化は、システム全体がもたらしたようでもあるし、個の内側からにじみ出たものでもある。そうした両義性をこの“Spontaneous”という単語は有しています。野生的な生き方を体現する人々が実にのびのびと暮らし働いている様を見れば、その妥当性はさらに増してきます。
関係性の中に飛び込み、より良い関係性を紡ごうとする「野生」。それをエンジンとして、人類は、コントロールできない自然とうまく折り合いをつけながら、豊かな暮らしや経済、文化を形成してきました。人類のフロンティアを拓いてきたのは、いつの時代であっても、未知の領域に一歩足を踏み入れてようとする人の気概、挑戦する生き方でした。
それこそが、人類が本来備える広義の“Entrepreneurship”=起業家精神と言っていいでしょう。偶然にも、“Entrepreneurship”の語源は「間を取り持つ」というフランス語に由来します。異質なものとの関係性の中に身を投じ、ブリコラージュしていく「野生」との重なりが見えてきませんか。
ここにおいて、「野生」と「起業」という新鮮にも聞こえる組み合わせが、むしろ人類の営みにおいて分かちがたく結びついていたことが見えてきます。そこに、インターネットで世界中がつながり、予測不可能な変化が目まぐるしく起こっている21世紀という時代における、古くて新しいOSとしての可能性を見出せるのではないでしょうか。
わたしたちは、「野生的起業論 = “Spontaneous Entrepreneurship”」を、ここに提唱します。
あらゆる領域に横たわる野生的起業論
「野生的起業論」は、これまで見てきた通り、単なる事業創出の方法論に留まらない射程を有しています。秋田を巡る旅での出会いから、21世紀になって現れた変化の兆しまで、多様な領域に「野生」の息吹を感じ取ることができます。
—「創造性」の領域
自分の意志や意図、個性をあえて手放し、そこから紡がれるもの、関係性の中から自ずと生まれ出るものを待つ。こうした姿勢が、ものづくりの現場に唯一無二の価値をもたらし得ます。例えば、秋田県五城目町には、福禄寿酒造という酒蔵があります。そこで醸される「一白水成」というお酒は、一般的には酒造りには向いていない硬水を仕込み水に使用。セオリーや作り手の意図を脇に置いて、古くからこの土地で用いられてきた硬水に目を向けてみる。そうすることで、他にはない複雑な味わいが生まれました。目に見えない菌やその土地にあるものを信じ委ねるという点で野生的であり、自然との対話が織りなすブリコラージュそのものと言えます。
—「起業論」の領域
14人の「芸達者」は、生活と生業が相互に絡み合い、家族や地域コミュニティ、仕事仲間といった多様な関わりのある営みを通じて、自然発生的にプロダクトや事業を生み出していました。彼・彼女だからできるという側面と同時に、その土地・その関係性の中だからできたという側面があることは見逃せません。マーケットに擦り寄るでもなく、個人の創造性に固執するでもなく、野生が引き出される現場で起こる創発に重きを置く。こうした起業の在り方が、きらりと輝くユニークな価値を生み出していくのではないでしょうか。
—「まちづくり」の領域
強いリーダー、明確なビジョン、緻密な計画。まちづくりの”神話”に登場する、定番の要素です。しかし、秋田県五城目町は、”神話”よりも人の「野生」が信じられています。一人ひとりの自発性を奨励し合い、自由の相互承認がベースとなるコミュニティがある。そして、トライ&エラーができる朝市や大人も子どもも遊び学べる場がある。その結果として、誰に言われるともなく自発的にやりたいことをやる人が現れ、そうして生まれた幾つかの点がときに有機的につながり、線を描き、面に広がっていく、そんな自然発生的で自立分散型のまちづくりが巻き起こりつつあります。
従来の中央集権的な仕組みや個人を重視したシステムとは異なる潮流は、あらゆる分野に広がっています。シェアリングエコノミーが拡大し、Teal組織に注目が集まるのも、自律分散型の系が生み出す価値や自発的な経済活動の在り方が、21世紀の可能性として見出されつつあるからかもしれません。
*1 資本主義は、その原理に基づいて世界中を結び付けました。昨日より今日、今日より明日という具合に、あらゆるものがますます速やかに移動できるようになりました。生産コストも下がり続けています。物理的な制約と思われていたものが、どんどん解消されていく。人間の本来持つ機能を拡張するデバイスも積極的に開発され、医療分野においては寿命という限界すらも突破できるものと試みられています。
*2 人の可能性がより拡張しつつある一方で、わたしたちは、「個人」という概念の限界にも直面しました。そもそも、「個人」という単語は「individual」の訳語であり、近代になって日本に輸入されたと言われています。「individual」という単語はその成り立ちから”これ以上分けられない単位”を指します。分けられるだけ分ける。分かろうとする。理解できない領域を狭めようとする。そのような人間の在り方が、この「個人」という概念に内包されているとしたら。それは、人間が理解できる範疇を重視する、人間中心的な思想にも通底するのではないでしょうか。
*3 東洋においては、純粋に独立した存在としての「個人」観ではなく、多様な関係性を前提にして立ち現れる「関係性自己」とも呼べる人間観が根強くあります。人間が自分たちと異なる「自然」をコントロールするという考え方ではなく、人間自身が、ときにままならない自然・生態系の一部として一体的に捉えます。自然の恵みに感謝し、先祖へ祈りを捧げる。時空を超えて自分たちを取り巻くあらゆるものとのつながりを前提とする、言うなれば生態系中心な考え方です。
*4 実際、「芸達者」たちは個体としての利益追求だけに満足することがありません。多様な主体が有機的につながり、それぞれに利益が循環する状況をつくることをごく自然に目指しています。彼・彼女らの多くが「肩書きはない」と語るのは、地域のコミュニティや風景、歴史といった様々な要素を引き受けているからかもしれません。
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