ときに過酷な大自然という環境で生き延びるために、人類のDNAに刻まれてきた「野生」的な在り方。では、物質的な豊かさが有史以来最も高まっているこの21世紀に、人類は「野生」をいかに取り戻せるのでしょうか? その鍵を握るのが「遊び(Play)」。それは、あらゆる子どもが生まれながらに持っているものであり、大人の中にもおしなべて眠っているはずのものです。
「野生」とは、あらゆるものと良い関係を持とうとする傾向を持ちます。ときには自らの理解を超えるもの、目に見えないものにも想像力を働かせ、それらとの関係の中にまず飛び込み、試行錯誤し、受け入れていく。そうした在り方は、まるで子どもたちが、絵本を通じて動物たちの世界に迷い込んでみたり、何もないような場から勝手に遊びをつくり出す様子にも重なります。
もう少し「遊び」の持つ要素を分解していきましょう。まず、「遊び」は本来的に「目的性」や「言語性」が極めて薄いものです。没頭する子どもに「なんでそれをしているの?」と尋ねても、きっと「楽しいから」と答えるに過ぎません。そうして、言語で表現し理解できる限界を軽々と越えて、結果として、異質なものとも関わっていくのです。野性が存分に発揮されるためには、目的性を問われない遊びと、それを可能にする余白が必要なのです。
遊びが「身体性」を伴う場合が多い点も見逃せません。遊びに没頭すると、自然に手や体が動き、ときには感情に身を任せ、五感をフル活用することになります。右脳と左脳と身体を駆使する全人的創造が繰り広げられるうちに、未知なる外部とのつながりに自己が溶け出し、さらに、自分の内側にある好奇心や遊び心にも触れていくような瞬間に遭遇することになるでしょう。事物を操作するのではなく、自分が自然の中に入り込み、その構造を体感的にくみ取っていく。それこそが野生のクリエイティビティと言えるでしょう。
そして、没頭すること、「プレイフル」な状態であることも遊びにとって欠かせない要素です。とにかく楽しくて、時間を忘れて夢中になってしまう。誰かに言われたからやるわけでもないし、はなから目的やルールが決まっているわけではない。でも、なぜだかドキドキして勝手に身体が動いてしまうような感覚。それも真剣に、本気で。そこには、創造する自信(Creative Confidence)が自ずと宿るでしょう。その一瞬を見つめると、ときには制約をこそ楽しみ、制約があるからこそ自由に遊ぶ、そうした両義的な側面も見えてきます。
すべては“Play”になる。Playful Economyの誕生
気の向くまま、心動かされるままに「遊び」へと身を委ねてみることで、自分の内側にある「野生」と出会うことができる―「野生的起業論」という提案は、テクノロジーが加速度的に進化する現代だからこそ、その意義が見出されるものです。仕事や営みが自動化され、限界費用はゼロに近づこうとする傾向を踏まえれば、現代は「労働」と呼ばれる領域が縮小するその過渡期であるとも言えます。Schoolの語源が、ギリシア語の「暇つぶし」と言われているように、学ぶこと自体も、余白、そして遊びと溶け合っていくことになるでしょう。
強いられ、やらされている「働く」から、自発的に没頭していくプレイフルな「働く」へ。“Labor”、“Worker”から“Player”へ。未来の仕事は遊びから生まれていくかもしれないし、遊びに溢れているまちがこれからの世界を引っ張っていくのかもしれません。実際、プレイフルな人々の周辺にはプレイフルな仲間が引かれ合い集まる傾向が見られます。
そうして、「遊び」が起点になることで、無数の「“Playing Community” = 遊び仲間」が至るところに発生しています。そのコミュニティでは、世間一般の幸せや画一的な豊かさよりも、その生態系を構成する主体による共同主観がモノサシとなり、自発的に価値がつくられていきます。「民藝」の多様さ、エレガントさはそうした営みの結実の一例にあたるでしょう。
こうしたコミュニティが、中央を経由せずに相互につながることも、「グローバルとはトランスローカルである」という社会学の指摘通りに、すでにテクノロジーが可能にしています。お互いの文化をシェアし合い、刺激し合うという「遊び」、エンターテイメントに昇華されていくかもしれません。もはや、物理的な制約から解放されたコミュニティがデジタル空間に組成され、人は、関係するコミュニティを相対化し、自由に選択できるようになっていくでしょう。
だからこそ、物理的な地域、風土に紐づいたコミュニティとしてのローカルが注目を集めつつあります。比較的低コストで活用できる資産が転がっていて、自分たちで食べるものをつくったり交換し合ったりする文化が残り、生き抜くために貨幣への依存度が低いのが、ローカルの特徴です。自然や歴史といった時空間にまたがる関係性に浸かりながら「Play」ができる舞台として、一層魅力的になり得るとも言えます。
プレイフルな人々が多様な関係を結び、仲間が集まり、そうして自然発生的に生まれたコミュニティが、また他のコミュニティとつながり、大きな生態系を形づくっていく未来。そうしたフラクタル(部分と全体の自己相似)な連鎖は、“Playful Economy”とでも呼ぶべき様相を呈するでしょう。人間本来の「野生」とデジタルテクノロジーが、これまでの中央集権的なシステムのオルタナティブを自走させていく。自律分散型のシステムが生じるに連れて、資本主義を基盤とした貨幣経済も、一つの選択肢として相対化されていくことになるでしょう。
自然発生的な変化は、すでに日本に限らず世界中で起こっています。世界に点在するクリエイティブクラスは、土地と遊び、文化と遊ぶことを繰り返しながら、徐々に「野生」へと向かい始めています。その兆しは、すでに現れています。
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