この記事は、文鳥社(&カラス)の社長の日記のよりの転載です。

「地下鉄サリン事件」について取り組んだ作家のひとりに村上春樹さんがいます。62人の関係者(被害者だけでなく、オウム入信者もふくむ)へインタビューをした「アンダーグラウンド」がその代表作です。丁寧で深い膨大な量のインタビューから、地下鉄に揺られる一人一人の人生(物語)が浮き彫りになります。いろいろな意味で重い本だけど、ぜひ読んでみてほしい一冊です。

もうひとつ超絶おすすめは「雑文集」という本にある「東京の地下のブラック・マジシャン」と「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方」の2作品です。あまり知られていない文章だと思うのですが、サリン事件を通して日本社会が抱える問題を的確に分析し言語化した稀有な文章だと思います。ここでは同時に「物語の効能」について語られています。何のために物語を読むのか、なぜ文学が必要なのか。そのひとつの答えがここにあるように思います。

物語とは魔術である。ファンタジー小説風に言えば、我々小説家はそれをいわば「白魔術」として使う。
一部のカルトはそれを「黒魔術」として使う。

物語もカルトも、現実と切り離された世界、フィクションへと引きづりこむものである点は同じである。しかし本は、閉じるだけで現実に戻ってくることができる。現実とフィクションの差異をきちんと認識することができる。それが白魔術たる所以です。

しかしカルト宗教はフィクションの世界に人々を閉じ込めてしまいます。辛い現実よりも、甘美な物語の世界。努力しても一向に報われる気配のない現実よりも、美しく、刺激的に見える世界がそこにあります。抜け出したくなくなる気持ちもわからなくはありません。

文学もカルトも同じようなフィクションではあるが、「戻ってこれるか」という点に大きな違いがあります。白魔術としての文学を通じて、他者の人生を体験し、現実へ戻ってくる。それを繰り返すことにより「いい物語」と「悪い物語」の違いを感覚的に理解し、判断できるようになる。つまり、より強固な「自己」を形成することができます。

当時のオウム真理教の信者たちに「幼いころに小説を読んだか」と質問をしたところ、ほとんどが「ノー」と答えたそうです。実行犯の「エリート」たち(実行犯は実際に優秀とされる大学をでていた)は、確かに勉強はできたが自己が足りなかったのだ。フィクションと現実の峻別ができず教団が提示する甘美な物語を信じてしまった。つまり、美意識と想像力が欠如していた

想像力と美意識と自己の形成。それは活字の文学が持つ、ささやかだけど、確かな効能のひとつです。「文学」のような(なんの役にたつかわからない)ものを、社会はもっと大切にすべきなのだと思います。そこに即効性はないし、医療などのように目に見える形で人を救ってはいません。しかし、本当はとても大切なものだと思うのです。

この数十年、人々は、テクノロジーやシステムをつくるという「進化」にやっきになってきました。しかし社会の豊かさは、ある程度まで「進化する」ことで解決することができるが、その先は「文化する」ことでしか生み出されないように思います。

それ(カルト宗教の提示する物語)に比べると、我々小説家が提供できる物語は、たかがしれたものだ。 ~中略~ それは見るからに有効性を欠いている。いったい何の意味があるのだと質問されても、答えようがない。明快な回答はない。「そこにはたしかに何かがあるような気がするんです」ともぞもぞと口ごもるしかない。何か。

雑文集-自己とは何か。

その「何か」を僕も信じる側でありたいと思います。今の社会は、あらゆる場面で、即効性と有効性を求めすぎている。

これから先の人類の「進化」は、「文化」にかかっているように思います。それは「あの事件」の教訓のひとつだったはずです。もっと「文化する」社会へ。そうあってほしいと切に願いますし、啓蒙しつづけたいし、そういう仕事をつくっていきたいと考えています。