「究極的にはいつか死んでしまうわたしたち」を考えるのは、元も子もないように思えるかもしれない。

だが、生や死といったある種の境界条件をものりこえた先で、なおも思考を続けようとする意志を持ったぼくらだからこそ、あらたに想起し、かたちの有無をさまざまとした「モノ」を生み出すことができる。しかし、生み出されたがゆえに破棄されるものもあり、そうした新陳代謝のなかにぼくたちは生きている。

過去にも、テクノロジーの発達により生じる不安を産業革命で人類は経験してきた。ことに昨今では「人工知能」「シンギュラリティ」という言葉を中心として、テクノロジーがもたらす社会への影響が頻繁に議論され、フィクション作品でも攻殻機動隊やグレッグ・イーガン『順列都市』などで、意識をソフトウェア化することにより事実上の「不死」が実装された世界が描かれている。

そこにあるのは「わたしとは?」という素朴だが、重大な存在論だ。

「人間が機械に代替されうるか」という問いに対してのアプローチは多様にあるが、その問題の根本である「このわたし」という存在についての議論は人文学の領域に思われる。

しかし、複雑系科学を軸に研究をおこなってきた郡司ペギオ幸夫はこの問題に数理モデルを導入することで「自然科学の問題」と捉えた。

「デジャヴを数理モデル化」した郡司ペギオ幸夫

2018年1月に発売された『生命、微動だにせず  人工知能を凌駕する生命(青土社)』は、2014年から2017年に発表した郡司の論文や批評を収録したもので、人工知能・詩・認知科学・哲学ゾンビなど広範囲の議論をおこなっている。

その中心に据えられた思想は「デジャヴの数理モデル化」だ。

郡司はデジャヴという認識運動についてベルクソン『物質と記憶(1896年)』でなされた議論を解釈しなおし、ベイズ推論と逆ベイズ推論を用いた数理モデルを構築を行うことで、「過去の経験」と「現在の知覚」の関係性についての議論を展開している。

感覚的な説明になるが、条件付確率であるベイズ推論は「過去の経験を前提として未来の結果を予測する」というモデルであり、その逆を解釈するなら「いま現在の知覚をもとに過去の経験を想起する」という現象に対応する。

しかし「いま現在の知覚」という局所的現象は「過去の経験」への介入をまのがれず、それ故にベイズ推論と逆ベイズ推論に非対称性(かれの言葉でいうなら「非同期性」)が生じる。郡司はこれによりもたらされる認識のミスマッチを「デジャヴ」として扱っている。

「非対称性」により見出されるもの

この本で展開される郡司の議論で特に優れていることは、決して「ベイズの定理を援用したデジャヴの数理モデル化」ではない。それはあくまで問題へのアプローチ手法でしかなく、ベイズの定理自体は郡司が構想した認知プロセスの簡素なモデルのひとつでしかない。

研究そのもののオリジナリティは、採用した手法に先立つ「思想」にあらわれるとぼくは考えているのだが、郡司が「過去のわたし」と「未来のわたし」という時間を異にするふたりの「わたし」をパラメータとして数理モデルに組み込んだことにこそ、彼ならではの「思想」が現れている。

たとえば素朴にN個の経験を有する「過去のわたし」は、いま現在の知覚を受けることでN+1個の経験を有する「未来のわたし」になるが、過去から未来、未来から過去への「わたし」という状態の遷移は非対称である。

そして「状態の遷移」と「非対称性」というふたつのキーワードは、熱力学において非常に馴染み深いもので、当然のように熱力学第二法則を想起させる。断熱過程における不可逆性は時間の矢となり、熱力学的状態を「死」へと導いていく。

こうした着想・議論は複雑系科学を生業とする研究者たちにとって基本的なことではある。だが、そうした系譜を一般化し、適応範囲を生命という「思考する身体」まで拡張させたことに、郡司ペギオ幸夫の研究者としての才気が顕在化している。

研究領域を「越境する」ということ

自然科学に限らず、研究を続ければ続けるほど特定の領域についての理解が深くなるが、時として視野が狭くなることもある。

しかし、研究のおもしろさはその蓄積が思いもよらない領域に接続され、一般性を得ることにあるんじゃないかとぼくは思う。これを「真理」と呼びたいひともなかにはいるだろう。

郡司ペギオ幸夫は広範囲に渡る関心をみせる一方、その軸は実にシンプルで、「王道」といって差し支えない研究活動をおこなっている。王道を歩みながら雑多な問題にひとつのコンセプトを持ってアプローチできるのは、研究者としてのひとつの理想像だろう。