そしてアメリカも。アメリカこそが、もっともおおきな幻想である。白人種の者たちは信じている--この土地を手に入れることが彼らの権利だと、心の底から信じているのだ。インディアンを殺すことが。戦争を起こすことが。その兄弟を奴隷にすることが。

この国は存在するべきではなかった。もしこの世に正義というものがひとかけらなりとあるならば。なぜならこの国の土台は殺人、強奪、残虐さでできているから。それでもなお、われらはここにいる。
コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道(谷崎由依 訳、早川書房)』、p360

世界地図を見るのが好きだった。

もともとは中1の地理の授業で国の名前をたくさん覚える宿題が出たか、そんなのがきっかけで開いた世界地図だったけれど、10代特有の「じぶんではないじぶん」へのあこがれをもって、エキゾチックな名前の国や都市、大陸を切り刻むいびつな国境、へんてこなかたちをした島々や湖などに無邪気な想像力をたくましくした。

ぼくはあまりじぶんが好きな子どもじゃなかったから、日本から遠ければ遠いほどよかった。「そこにいるじぶん」を思い描けない途方のなさが心地よく、日本はどこの国とも海を挟んでいたので、我ながら都合が良い場所に生まれおちたものだとおもう。

10代を過ぎ20代を駆けぬけるなかで、ぼくにとっての「異国へのあこがれ」というのは、そこへたどりつけないという安心によって支えられていたものだと知ることになる。

たとえば2001年9月11日、ふたつの飛行機がワールドトレードセンタービルに突っ込んだその日は、友だちの誕生日だった。テレビに映し出された爆発炎上するビルをみながら、どうしてぼくは素朴に友だちが歳を重ねることをよろこべたのだろうか。

アメリカという国が飛行機でたった1日ほどじっとしていれば着いてしまうほどの距離でしかないことを、すくなくとも中学生のぼくは知らなかった。

東日本大震災にしろ、ぼくの実家を全壊させた阪神淡路大震災にしろ、それは「この世界」で起こったことにかわりない。「どこへでも行けてしまう」ことは、ある意味において「どこへも行けない」ことと同義になるのだろうか。

コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道(谷崎由依訳、早川書房)』は、物理的に、そして抽象化された次元についての「移動」と、「わたしたちがここにいる」という素朴だが重大な事実をめぐる小説だ。

史実にもとづく「大きな主題」と「大胆な空想」

本作は、「北へ逃げないか」という言葉からはじまる19世紀アメリカを舞台にした黒人奴隷の逃亡を題材にした小説だ。

南部のプランテーションに生まれた奴隷少女コーラが、同僚のシーザーとともにジョージアの農場から逃亡を図り、サウス・カロライナ、ノース・カロライナ、テネシー、インディアナを経由し、決して一言に「良きもの」とは言い難い出会いと別れを繰り返しながら北部を目指す。

そして彼女のこの長大な旅路を支援したのが「地下鉄道」である。この作品の中核をなす「地下鉄道」は、南部奴隷を自由州である北部への逃亡経路、あるいはその逃亡を支援した組織の名称である。

これは19世紀アメリカに実在し、1810年から1850年に最も利用されたと言われているが、もちろん実際に地下鉄道がアメリカの地中を走っていたわけではない。

この「地下鉄道」を史実の通り「比喩的」にでなく、自由を求めて北部へと秘密裏に逃げる奴隷を「物理的」に運ぶものとして「地下鉄道」を創出したという大胆な想像力がこの小説の大きな駆動力となっている。

コロンブスによる「発見」以降、アメリカ大陸はヨーロッパ諸国による入植が盛んとなり、新天地という希望的な響きの一方で数々の争いにさらされ続け、特に18世紀~19世紀においては独立戦争と南北戦争という国家形成において特に重要となる戦争を経験した。

そのように多くの血が流されその上に築かれたアメリカという国を象徴するものとして独立宣言があり、本作においても奴隷によって独立宣言が暗唱されるシーンがたびたび描かれるが、そのたびに「すべての人間は平等につくられている」という言葉の正しさをコーラは問う。

コーラが訪れるアメリカ各州はそれぞれにまったく異なる社会や文化を形成した異世界として描かれているが、アフリカ系アメリカ人たちにとっての「すべての人間」とは、あるいは「われら」とはいかなる存在であるのかというこの問いが「地下鉄道」により小説の深部で接続されることにより、ドメスティックな問題にとどまらない規模が作品に与えられれている。

「世界文学」と「越境」

「日本文学」や「アメリカ文学」といったことばがあるように、「世界文学」ということばもあるのだが、「世界」と呼びうる場所が日本やアメリカなどすべての国をそもそも含んでいるのであれば、この世界に生まれたすべての文学はみな「世界文学」ということになるだろう。しかしもちろん「世界文学」とはそういう単純な理由によりあえてそう呼ばれるものでもない。

本作『地下鉄道』はピュリッツァー賞をはじめとする数々の文学賞を射止め、数々の新聞に取り上げられ、バラク・オバマ前大統領の読書リストに入るなどし、40の言語に翻訳されまさにこれから「世界中で」読まれる小説となりつつあるが、そうした権威を得たという事実や商業流通の規模が、この小説を「世界文学」にするだろうという見解もおそらく正しくはない。

「世界文学」ということばを最初に用いたのはゲーテらしい。

ゲーテは世界文学を「道徳的および美的感情の国民相互間における融合から生じるもの」とし、この核に当たる概念は「越境」だろうと読める。相反するすべてを同時に抱え込めるだけの広さがある「世界」は、その外側からのまなざしにおいて「ひとつ」と認識しうる場所だろうけれど、その内側にはさまざまな裁断が存在している。

世界地図に刻まれた国境がまさにそのひとつだ。たとえばアメリカを北部と南部に分けることになった「メイソン=ディクソン線」の測量を題材にしたトマス・ピンチョンの長篇小説『メイスン&ディクスン』は、まさに「大地に線を引く」という行為そのものを描いているが、メイスンとディクスンの陽気な測量の旅の節々では奴隷制度が偏在している。

つまり、かれらがアメリカを自由州と奴隷州に分割しうる線を引く以前から支配-被支配構造はそもそも存在していて、それゆえにこうした根深い問題は人間の便宜を超えた領域であまねく存在している。

そう考えると国境や、白人であるとか黒人であるとか、性別、国籍であり民族であるものは、ただ合理的に裁断しやすいという要素でしかないのかもしれない。大なり小なりの経済活動を円滑に行うためになされたそうした裁断のしわよせが特定の要素を持ったひとびとにもたらされてしまい、おそらくぼくらはそれを「差別」というかたちで認識する。

この世に悪意が根本的に存在するかぎり「差別」はその裁断の数だけ存在する。あらゆる境界を越えて偏在する悪意によってもたらされているなら、それに対抗する術として世界文学は「越境」を試みる。

『地下鉄道』でコーラはひたすら「逃げる」のだけれど、この小説における「逃げる」とは奴隷州から自由州への「越境」だろうか。

もちろんそれだけではないはずだ。

1年や100年といった単位や歴史的事件によって裁断された時間へ、そして肉体により隔てられた生き死にを経験する他者の魂(としか呼びようのないもの)へのぼくら読者の越境を、「世界文学」たる本作のような小説は可能にしてくれる。そのなかでぼくらは小説という虚構のなかでしか感じたり考えたりできないことを経験する。