無言か声高にか、意識的にか偶然にか、意図的か過失によるものかはともかくとして、監視される側の監視業務に対する多大な協力によって、彼らの「プロファイリング」が促されていますが、私はそれを「見られることへの愛」だとは思いません(少なくともそれが一義的なものだとは思いません)。

よく知られていることですが、ヘーゲルは自由とは、学び取られ、承認された必然性であると定義しました……。自らを記録に収めようとする情熱はもっとも重要なものであり、おそらく、私たちの時代において、もっともあからさまなヘーゲルの原理の一例です。そこではデカルトのコギトが更新されて、新バージョンの「我見られる(監視され、注目され、記録される)、ゆえに我あり」となっています。

『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リキッド・サーベイランスをめぐる7章(ジグムント・バウマン+デイヴィッド・ライアン)』、p165-166

高校生のときに安部公房の小説『箱男』を読んだのだが、そこにはこんな挿話がある。

少年Dは近所の女教師のトイレを覗き見しようとするのだが、それに失敗する。そして女教師は少年を家のなかに入れ、部屋のなかに少年Dをひとりにし、鍵穴から覗いているから服を脱ぐように命じる。

『箱男』はダンボール箱を被ることで他者の視線を遮断し、この社会の監視者でありながら「この社会に存在していない者」をめぐる作品であり、『燃えつきた地図』から引き続き「失踪」を主題としながら、「見る/見られる」という問題にも筆を伸ばしている。

上述の挿話で描かれているのは「見られる」ということの嫌悪と、「見る」という行為の悪意だと読める。見る/見られるという関係性なしにぼくらが社会生活を営むことは困難だ。しかし、そのバランスが過剰に破られたとき、ひとびとの関係性、ひいては社会構造までもが劇的に変化する。

このことはインターネットにおける「匿名者の発言」とその影響力をみれば、今でこそ「あたりまえ」ではあるが、同時に安部公房の洞察の鋭さも顕著に物語っている。

しかし、ソーシャルメディアをはじめとするコミュニケーションツールの台頭にともない「すすんで個人情報を公表する」といったことが現代では起こっているという指摘がある。

そうしたことを背景に、「見る/見られる」が生み出す力学について、そしてそのバランスの変化によってもたらされる社会構造の変化について詳細に議論されているのが今回取り上げる対談本『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リキッド・サーベイランスをめぐる7章』だ。

バウマンとライアンのふたりの対話の中核となる「ソリッド(固体)」と「リキッド(液体)」という暗喩を紐解きながら、「まなざしと社会の関係性」について言及したい。

社会学者ジグムント・バウマンとデイヴィッド・ライアンの電子メールによる対話

本書はふたりの社会学者ジグムント・バウマンとデイヴィッド・ライアンの電子メールによる対談をまとめたものとなっている。

ふたりが専門とするのは「監視社会」の研究であり、特にバウマンは本書の核となる概念をまとめた『リキッド・モダニティ』という本を2000年に発表していて、ライアンがバウマンにこの概念から派生する諸問題を質問するといった形式で対談は進んでいく。

その議論は、従来の「パノプティコン(一望監視施設)」的な監視体制から、いかにして「リキッド・サーベイランス」へと移行したのかにはじまり、ドローン、ソーシャルメディア、消費社会、テクノロジー、セキュリティ、倫理など広範囲なトピック展開されている。

「ソリッド(固体)」と「リキッド(液体)」という暗喩

安部公房の『箱男』をとりあげて述べたとおり、監視(=「見る/見られる」)という行為には精神的な力学が不可避的に発生する。その相互作用により社会たる構造が形成されるという発想は、自然科学的にごく自然なものだということができるだろう。

たとえば統計力学などで頻繁に使用される分子シミュレーションでは、多数の個体(分子)それぞれの位置と運動量を追跡することで、系全体の状態を議論するという手法がとられている。系に含まれるすべての個体は原理的にすべての他の個体から分子間力を受けている。

これを参照すると、「見る/見られる」という不特定多数から及ぼされる力が構造形成の駆動力となっているという解釈は妥当だといえ、その結果もたらされる状態を「固体」「液体」と呼ぶのは自然なことに思える。

そこで「パノプティコン(=ソリッド)的な監視社会」と「リキッド・サーベイランスによる監視社会」を本書で扱われている隠喩にならって図示してみた。

パノプティコンが形成するソリッドな監視社会(Fig.1)は、監視者が被監視者に対して巨大な力を持っていることで、秩序構造が生み出されている。被監視者はその力に対して抑圧を受けて行動の自由を損なわれているのだが、この構造は本書でもたびたび言及されているようにジョージ・オーウェルの小説『1984』に見られるものだ。

対してリキッドな監視社会(Fig.2)には、パノプティコンのような大きな力を持った特別な監視者が不在である。そして、系(=社会)をなす個体それぞれが監視者であり被監視者であり、時事刻々と変化する系の状態に個々が対応できる自由がある。

両者を比較すると、監視者のありかたそのものが監視社会の構造を決定づけているようにも見えるが、重要なのは社会を構成する被監視者が持つ自由度だ。

つまり、強制から誘惑へ、規範による規制からPRへ、警備から欲望の喚起へと、すべてが移行しているのです。そして目標とすべき結果を達成する役割もすべて、上司から部下へ、監督者から監督される者へ、検査官から検査される者へ、要するに管理者から被管理者へと移行しています。

『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リキッド・サーベイランスをめぐる7章(ジグムント・バウマン+デイヴィッド・ライアン)』、p82

このように、ソリッドからリキッドな監視社会への移行は、被監視者の能動的なアクションの喚起により促されていることが、本書で述べられている。

「組織運営」におけるリキッドな仕組み

暗喩を中心とした抽象的な話ばかりをしていると現実感をどうも持てなくなるのだが、実際にこの「液体化した構造」は生活のなかでも感じることがある。

そのひとつが、組織運営や業務の遂行体制だろう。

たとえばUNLEASH編集部では、チャットツール「Slack」とタスク管理ツール「Trello」を連携させた業務管理体制を採用している。これにより記事のネタ数、執筆中の記事、校正中の記事や修正案についての議論、公開予定の記事など、編集部全体のタスクが全員に「見える化」されているのが特徴だ。言い換えると、業務の進捗を随時全員が「監視」し、同時に全員が「監視されている」状態となっているわけである。

この状態はバウマンとライアンの対談で語られていたことにかなり近い。

従来的なプロジェクトの管理体制は、組織を牽引するリーダー(パノプティコン的存在)を立て、構成員それぞれが与えられた役割を果たすといったソリッドな構造を持っていた。

一方で全タスクと議論の「見える化」が組織内に施されると、構成員の行動に自由度が生まれる。業務の遅れやネタの補充・提案など、組織全体の状態の観察を通して自発的に行うことができ、「液体的」な構造として組織運営がされるようになる。

こうした「slack」や「チャットワーク」、「Trello」などのオンラインツールはその「便利さ」以上に、構成員の一人ひとりの「見る/見られる」を原理的につくり変え、組織そのものを「属人化しない(=リキッドな)」ものへと変貌させうるという可能性におもしろさがある。

テクノロジーにより生み出されたツールは、単なる「道具」にとどまらない。

「何を使うか」という選択は、ひとびとのあいだに働く引力/斥力を決定し、やがて形成されるクラスターの構造に支配的な影響を与えている。