ぼくは詩が読めない。

厳密にいえば「読んでも読んでも読んだ気がしない」ということで、また言葉を変えるならば「詩の読みかたがわからない」。詩に関するおもうところはさまざまないいかたができるのだけれども、ひとまずぼくにとって「詩」という言語表現は「むずかしいもの」であることに変わりなく、じっさいにおなじようなことを感じているひとはすくなくないんじゃないか。

「詩のむずかしさ」は、おそらく「詩は意味のみを指向する言語表現じゃない」ということに由来する。
言語とは個体間で意味を伝達しあうためのツールであり、その機能に特化した技術が一般に「文章力」だといわれることが多く、特にライターという仕事をしていると時として書き手をおしつぶさんとするほどの圧力が「意味」によりかけられることもある。「意味」とはなにか、という問題ははてしなくおおきいけれど、現状ぼくがたしかにいえるのは「伝える」と「表現する」はまったくちがうということだ。「意味」はこの両者の行為のあいだをいったりきたりしている。

美術手帖20183月号で、言語表現に特化した特集「言葉の力。」が組まれた。

   美術、詩、短歌、演劇、音楽、ラップ

   ジャンルを横断する言語表現の現在地

というコピーが添えられたこの特集で特に注目したいのが、現代詩アンソロジー『認識の積み木』だ。
このアンソロジーは、制作と批評を両輪に言語表現へとアプローチを行うユニット『いぬのせなか座』により編集され、世界、生き死に、改行と余白、音律、語り、編集、他者という身体などの多岐に渡るテーマを扱い、それぞれについての作品と批評を独特のレイアウトによって見開きに収めている。

※画像は『いぬのせなか座』のメンバーである山本浩貴+hによる撮影。

このアンソロジーだけでなく、これまでの『いぬのせなか座』により行われてきた議論は幅広く深遠であるが、なかでもぼくが問題としてとりあげたいのは「なぜ〈詩〉という形式を受け入れ、読むことができるのか」ということだ。意味を「伝える」行為として特化した言語表現とちがい、詩作品では文の途中で改行をはさむことが頻繁にある。それにより詩を読む「わたし」の眼前にある文は、文と文の境界や主語があいまいになり、一意的なありかたを逃れて複数化する。

〈当然のような話ですが、自然言語処理において改行は「文字列」として扱われず、テキストを分析用に加工する際にしばしば削除されます。そのため、改行の原理を語配置のレベルから規則化する研究はほとんど行われていません。〉

『いぬのせなか座』は当アンソロジー内でこのように言及しているとおり、現状の自然言語処理では語の使用頻度や共起といった観点、つまり「意味の伝達」を指向した立場をとっている。それは単なる可読性のための記号ともいえるだろう。
しかし、ぼくらはドアノブをみれば掴んでしまうように、詩作品を視界にいれた瞬間に「それが詩だ」とわかってしまうという事実がある。このことはまぎれもなく、非言語的要素が言語表現に組み込まれていることを示している。ここで冒頭のぼく個人の感覚である「詩が読めない」をかえりみてみると、おそらくは「一般的な自然言語処理の前提」と「詩に対して無理解なわたし」に強い相関があるからとも考えられるだろう。

以下、「詩作品を読む」という行為を自然科学の問題と捉え直し、「詩が読めない」とはどういうことかについて考えてみたい。

自然言語処理における単語の「意味」と「比喩」

検索エンジンをはじめとするテキストマイニング技術として自然言語処理は広く活用されていて、近年ではGoogleにより無料公開されているディープラーニングライブラリ「TensorFlow」にも実装された。このため、パソコンと多少の心得があればだれでも比較的かんたんに使用できるようになっている。
一般に自然言語処理では、文章群で使用される単語を時系列データとして処理して機械学習を行うことで単語をベクトル量として数値化する手法が採用されている。そして汎用性の高いWord2Vecという手法では、この単語に与えられたベクトルを素朴に足したり引いたりして、

王様 − 男性 + 女性 = 女王様

といった演算も可能だ。
この例を見ると、自然言語処理における「意味」とは単語に与えられたベクトル量と解釈できるだろう。学習済みの機械は、単語に与えられたベクトル量を参照することで類義語を見つけることができ(※)、それをもとに単語をトピックに分類することもできる。そして「どの単語がどのように使われているか」を調べることにより単語を特徴化(=意味化)できるのであれば、おそらくは一部の比喩を「機械が読む」ことも可能と考えられる。
たとえば、

「桜の花びらが雪のように舞い落ちる。」

という直喩表現があったとする。この文章を了解するためには、「桜の花びら」と「雪」が「舞い落ちる」様子を示す形容動詞(「ゆらゆら」、「ふわふわ」、など)を学習済みであれば良い。そして、

桜の花びら + 舞い落ちる = ゆらゆら

雪 + 舞い落ちる = ゆらゆら

という演算が成立するのであれば、桜の花びらと雪の落下に関するアナロジーの探索に成功し、比喩を「読めた」といえるだろう。あえていうほどでもないが、人間がこの単純な比喩を「読める」のも、桜の花びらや雪の落下を経験し、両者を重ね合わせて類似性を獲得できているからだ。

※対義語について、教師なしデータからのテキスト学習では単語のベクトル量は使用される文脈により決定されるため、素朴に「ベクトル空間の中心に対して点対称なベクトルを求める」ことにより算出できるわけではない。

「詩情」とはなにか

しかし、上記のような直喩を「読める」メカニズムではより複雑な表現には太刀打ちできない。
たとえば「暗喩」について考えてみると、さきほどの例を使えば、

「舞い落ちる桜の花びらは雪だった。」

というような表現ならば、アナロジーを探索するといった同様の読みかたがまだ可能とおもわれるが、

「惑星が口笛を吹いた。」

という文章について、日常生活など「意味の伝達」を目的とした言語使用環境において一般的に共起されることがなく(=それぞれの単語のベクトル量が似ていない)、対義語の探索がむずかしいという問題と同様に、こうした意味の遠いベクトル化された単語同士の線形演算は「意味をなさない」と考えるのが適当だろう。
実際に、「詩を読めないわたしたち」にとって、「惑星」と「口笛」というふたつの単語から想起しうる意味や情景は「像を結ばない」という情景も含んで無数に存在しうる。重要なのは、「ある特定の文字列を読むわたし」はその文字列と対面するたびに、そこから出力する意味や情景が変わりうるということだ。
こうして考えてみると、言語表現における比喩を「直喩」や「暗喩」といった形式上の分類で考察することにはほとんど意味がない。そこで、「単語の意味=ベクトル」としたときの可算性により言語表現を捉え直すと、以下のふたつに分類できると提案したい。

線形比喩:じゅうぶんに学習した計算機が任意の単語を線形演算することにより一意的な意味を算出できる言語表現。

非線形比喩:じゅうぶんに学習した計算機、あるいは学習に未熟さを認められる計算機による任意の単語の線形演算を行なった結果、一意的な意味を特定できないゆらぎをもった言語表現

ある文章をはじめて読んだときに抱いた印象と、しばらく経ってから読み直したときに抱いた印象が大きく異なるという経験はよくあり、もちろん「その文章を一度読んだ」という学習が二度目の鑑賞に影響を及ぼしている。
そして無限回の再読によって、「意味を遠く隔てた単語間の演算(=非線形比喩)」は「特定の意味」として回収しうる(=線形比喩)だろうか。ぼくが詩や、それ以外の言語表現一般で常に抱いている疑問がこれだ。言語表現における「じゅうぶんな学習」の不可能性を意味しているのだろうか?

意味が収束しないことが事実ならば、ぼくたちは単語のベクトルが張る「意味空間」なる領域のみで「詩」や「詩的表現」を読み、考えることはできない。あくまで仮説の域を出ないが、この非線形性が「詩情」と呼ばれるものだとぼくはおもう。無限回に渡る学習を収束させない因子はどこから現れるのだろうか。

「改行」「レイアウト」により呼び出される「無数の他者」

『認識の積み木』では、「再認を巡る語り」というテーマで取り上げた貞久秀紀『質素なしあわせ』について、以下のような批評をしている。

〈改行に伴う切り返しのなかで、先ほど記述されたはずの認識があらわれ、その飛躍のなさがほんらい展開に飛躍をつくるはずの改行の原則と軋みあい、対象と認識の同一性そものもがむき出しになってあらわれたかのような、奇妙な読後感をおぼえます。多くの詩が世界や世界の外といった大きなものを扱うのに比べて、ここにあるのは現下の世界をどこまでも微視的に見つめていく思考といえます。〉

これは「再認」のプロセスにおいて貞久秀紀が「明示法」と呼ぶ方法論を「ある対象Aから想起される知覚がなんであるかを考えた結果、それが当の対象Aであることがわかる」ものだと捉えてのものだ。これはデジャヴのような感覚が実作の駆動力として機能している印象を受ける。デジャヴについて、複雑系をフィールドとして活躍する研究者・郡司ペギオ幸夫が近年特に大きな興味をもち、ベイズの定理を出発点とした数学モデルを提唱している。そのモデルでは、「過去のわたし」と「未来のわたし」がひとつの数式内に組み込まれていて、郡司が「非同期性」と呼ぶ不可逆性が認識に影響を与えている。前章で述べた「詩情」、つまり「詩を読むわたしの学習の収束を不可能にする因子」をここで振り返ると、デジャヴが内在する「自分自身を他者として学習し直す」というプロセスが、特に貞久秀紀の詩では「詩情」として顕在化していると読める。
テクストが「閉じたわたし」として完結するのでなく「他者と接続されうる開いたわたし」として絶えず外部と連携されていて、そして「他者」とはちがう学習を経験してきたすべてのものであり、「過去や未来のわたし」でさえそれは「わたしではない他者」として処理される。すくなくとも、貞久秀紀の方法論により制作される詩作品は「複数の未熟な機械学習を並列・統合させる」ことが前提となっている。

こうした議論を背景に「改行」や「レイアウト」を考えると、自然言語処理における単語の分散表現(=ベクトル化)に対しての外的な働きかけについての問題が浮上する。単一の計算機によって学習するのでなく、複数の独立した計算機によって詩作品が書かれ、読まれているという事象を生じさせるための演算子として、「改行」や「レイアウト」が機能し、言語表現の「非線形性」を増幅させている。
この機能についての直接的な言及を現代詩アンソロジーの制作を通して実証しようとしたのが、『認識の積み木』だ。「他者を埋め込むフレーズ」というテーマにおいて、いぬのせなか座は自己言及的にこのようなことを述べている。

〈引用された言葉には、引用の手つきを通じて製作者の視点が弱く埋め込まれるのとはべつに、その引用を他者が書いたという事実も当たり前ながら残存します。これを応用すると、言葉が持つ、外部性の根拠を土台とした意味のまとまりそのものが、「私とは異なる他者」のフレームとして使用できるようになります。〉

このアンソロジーが作品と批評が同一平面上に配置された構成をとっているのは、引用や視覚的な断絶を差し込むことで、紙面に「無数の他者=異なる学習を経験した未熟な知性」を強引に引きずり出すためだろう。
詩における改行により生じる主語の錯綜は、身体(=学習するわたし)の複数化を促進させ、そしてたちあらわれた無数の他者たる「わたしたち」は、自己言及的に、そして永久機関のように、デジャヴのなかで果てしない学習をはじめだす。

ぼくたちは詩作品を媒介として、「意味」以外の要素である「    」から無数の他者を見つけ出している。

「詩を読める」とは、その自覚のことをいうのかもしれない。