生まれてこのかた、当たり前に私は女だった。
髪を伸ばすことやスカートを履くこと、なんならわき毛を剃ることに対してもなんら違和を感じることなく、この四半世紀を生きてきた。

それでも、「夫も私も仕事で子供のお迎えにいけない時、対応策を講じるのは、絶対的に母(女)たる私」のような状況に直面すると、女という理不尽をつい恨んでしまう。

建前では「女性の活躍」なんて高らかに言われているけど、実際社会の中に身を置くと「産み、育て、よく働いて可愛らしい/美しい女」が当たり前に求められ、賞賛されていることをビンビン感じるのだ。

何より私を落胆させるのは、女のテンプレートが求められたとき、ついその役回りを演じようとしてしまう自分自身だった。

自分の中の女に裏切られた時、私は女性が書いた小説を読む。多くの場合、私が感じたような女の失望と叫びがそこにあるからだ。

だから、藤野可織さんの『ドレス』という短編集のことを聞いた時、読んでみよう、と思った。それは、彼女自身が「普通の女性」を自認し、小説の材料に自分が「女性」であることを使ったという前情報ありきでの意欲だった。

奇想的な舞台に乗った、普通の女たち

『ドレス』に登場する女性たちは、昔の恋人のパーカーが捨てられなかったり、言うことを聞かない息子に辟易したり、痴漢に悩まされたりする、“普通”の女性だ。しかし、全編を通し、現実からはかけ離れた奇想的な描写や世界観が随所に見られる。そして、普通の女性と奇想が絡み合う時、現実を映し出す鏡のようなものが顔を出す。

例えば、「マイ・ハート・イズ・ユアーズ」は仕事中にOLたちが寄り集まり、男性アイドルの動画を見るという、さもありなんなシーンからはじまる。しかし、徐々にこの世界では、男性は「若く、小さく、可愛い」ことが求められ、ひとたび「適齢期」を逃せば、恋愛対象から外れ、会社においても肩身が狭くなってしまうのだ、ということが明らかにされる。

静子は、佐々木くんみたいに適齢期を逃し、体が大きくなっていてしかもパートナーがいない男性に厳しい。
ー中略ー
でも、私はおぼえている。佐々木くんは入社当時は若くて、そこそこ小さくてかわいかった。佐々木くんが子どももつくらずあそこまで大きくなってしまったのは、佐々木くんを選んであげなかった私たち同期の責任でもある。
藤野可織「ドレス」、“マイ・ハート・イズ・ユアーズ”、p47

この話で何よりも印象的なのは、出産の様式だ。男性は受精時に女性の体に取り込まれ、胎児の栄養源となるのだ。

妊娠とともに死ぬ男性。これは、妊娠とともに女性に訪れる社会的な死(勤める会社から、退社を強いられたり、妊娠・出産・育児期間中の休業は履歴書上空白期間として判断されたりする)と奇妙に合致している。

そして、終盤、小説の中の世界として、私たちの世界が描かれることで、物語と現実は完全に入れ子になるのだ。

表題、「ドレス」では、社会的ランキング(いわゆるスペック)が自分のものと過不足なく一致している恋人に満足する男性が、恋人が身につけはじめた奇妙なアクセサリーに翻弄されていく姿が描かれている。

それでもそれは、やはり彼には医療器具、それも見た目の良さなど意に介さない緊急に間に合わせたものか、もしくは全くのゴミにしか見えなかった。
藤野可織「ドレス」、“ドレス”、p135

自分にはゴミにしか見えないそれが、恋人の友人や会社の同僚の反応から、「かわいい」もので、かつ恋人のスペックに相応しいものであると判断した主人公は心のどこかでその「かわいい」を否定しながらも受け入れ始める。

男性に理解されない「かわいい」アクセサリーは、肩書き的に自分を選んだ恋人への小さな反抗のようにも思えるし、理解し合えない男女の感性の違いを嘆くもののようにも思える。

私たちに女を求めているのは誰なのか?

『ドレス』を読み、最も印象的だったのは、要素を抜き出すと恋愛、出産、育児、性的虐待のように女性たちが抱える問題が女性の視点で描かれているにも関わらず、全編通し、語り手、ひいては作者にその問題を解決しようという気が全くないようという点だ。
象徴的なシーンが、「テキサス・オクラホマ」で描かれた、ドローンによる意思的な殺人という重大な問題について、一部始終を観察した語り手が「総体として存在するために」黙殺するシーンだ。

私も一部分として参加しているはずの集合意思が私を見ているはずのそれが、私に興味を持たない、私を救わない。この恐ろしさは、私が日常で感じているものに酷似していたーー。

これまで社会の中で“女性らしさ”を求められたとき、理不尽で不愉快だと感じることが幾度となくあった。けれど、それが私が違和感なく受け入れている“女性らしさ”と何がどう違うのか、全くわからない。

私は女だから、飲み会でサラダを取り分ける。私は妻だから、夫の意に沿わなかった時つい「ごめんなさい」と言ってしまう。私は母親だから、子どもの病気の時は寄り添わなくてはならない。これら全て、“当たり前”のことのはずなのに、どうして不愉快になるのだろう?

この問いはある種の恐怖を持ってして、私を動けなくする。私だって“当たり前”を作りあげる一部なのに、私が女という形式を破ろうが守ろうが、“当たり前”は漫然として存在し、社会はいつも通り回っていく。それは、“当たり前”のせいで私の人生が大きく変わったとしても揺るがないのだ。

結局、この『ドレス』という短編集は、現代を女として生きる自分と鏡写しの女たち、そして彼女たちを意に介さない集合意思を私に提示し、求めていたような「女の失望と叫び」への共感などは寄せ付けてもくれなかった。しかし、読後にまとわりつくこの恐怖感は、私がこれまで向き合ってこなかった問題を顕在化させるには十分なもので、私はこの恐ろしさを忘れたくないとすら思っている。

何よりこの小説を夫に読んでほしいな、と思う。2018年現在、生きる私を、そしてあなたをきちんと切り取るために。

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