大学生の頃「ビジネス」という言葉が苦手だった。当時、私はこの言葉に人や社会への想いは二の次、ただ利益を追求する手段、という印象を抱いていた。今思えば、かなり浅はかだった。

社会人になって数年。心から共感できる活動が十分な収益を立てられず、ゆるやかに後退していく様子を何度か目にした。想いを形にし、誰かに届け、社会をよりよくしていくために、「ビジネス」は不可欠なのだと痛感した。

学生時代の偏った見方を恥じるとともに、確固たる思想を保ったまま、事業を伸ばしている人の姿に、強く惹かれるようになった。

“1冊の本だけを売る”森岡書店の店主、森岡督行さんも間違いなく心惹かれるビジネスを営む一人だ。

森岡督行(もりおか よしゆき)
1974年山形県生まれ。1998年に神田神保町の一誠堂書店に入社。2006年に茅場町の古いビルにて「森岡書店」として独立し、2015年5月5日に銀座に「森岡書店 銀座店」をオープンさせた。そして2017年、6月13日に「森岡書店総合研究所」を開設。著書に『写真集 誰かに贈りたくなる108冊』(平凡社)、『BOOKS ON JAPAN 1931-1972 日本の対外宣伝グラフ誌』(ビー・エヌ・エヌ新社)、『荒野の古本屋』(晶文社)など。

本屋業界を揺るがしたAmazonは、あらゆるジャンルの商品を取り揃える「ロングテール戦略」によって、素早く気軽に本を手に入れたい市場の心を掴んだ。森岡さんはその真逆のアプローチを採ったともいえる。

森岡さんの経営する「森岡書店」は、1週間ごとに1種類の本しか取り上げない。その本のテーマにまつわる展示会や、著者を招いたトークイベントを行なう。たった一冊の本を通して、人と人が出会い、交流を紡いでいく。そんな本を介したコミュニケーションを求め、今日も全国から多くの人が森岡書店を訪れる。

森岡書店は、日本国内において本屋の数が減少を続けるなか、従来の枠組みにとらわれない“オルタナティブな本屋”として、メディアで頻繁に取り上げられている。

学生時代に抱いた経済活動に対する違和感

そんな人気書店をゼロから作り上げた森岡さんだが、学生時代は「大量生産大量消費を前提とした社会・経済の枠組みのなかに身を投じること」自体に反発心を持つ若者だった。

とくに強かったのは、環境問題への関心だった。経済的に豊かになるための活動が、地球温暖化やオゾン層の破壊を加速させてしまっていることへの問題意識があったという。

森岡さん「僕は山形県の出身で、大学から東京に来ました。多すぎる車、ドラッグストアに並ぶ商品、夏の自然でない暑さ、止まらない経済活動。そういうものに接して、『矛盾しているな』と感じていました。なんだかどれも自然と調和していないし、環境を破壊してまで維持するべきなのかわかりませんでした」

どこかに歪が生まれてしまっている今の社会や経済のシステムをそのまま維持することに疑問はある。けれど、そこに身を投じなければ、自らの暮らしを維持できない。22歳の森岡さんは、その矛盾のなかで答えを出せずにいた。

森岡さん「自給自足の生活を送るとか仏門に入るとか、まったく経済活動から脱して生きていく決意はできなくて。何かしら仕事をしなければいけないとは思っていましたが、就職の時期を迎えても、どうしても違和感が拭えなくて。卒業後は、趣味の読書と散歩が中心の生活を送りました」

アルバイトと散歩と読書の生活を経て、森岡さんは神保町の古本屋「一誠堂書店」に入社する。古本はリサイクルであり、「これなら、自分の中で環境問題とも折り合いがつく」と考えたという。

もちろん、古本屋という商いにも強い魅力を感じていた。大好きな本と常に触れられる環境、常連さんを介して知る古本の奥深さ。森岡さんはすっかり古本の世界に魅了される。

気ままに本と共に生きる暮らしに転機が訪れたのは2006年、32歳の頃だった。偶然訪れた古美術店の入った建物に、森岡さんは心奪われる。森岡さんの著書『荒野の古本屋』では、“こころのボルテージが急上昇”した瞬間が綴られている。

「私はそれまでにたくさんの近代建築、昭和初期に建ったビルを見てきたつもりだが、壁の質感、天井の高さ、建物の保存状態のよさ、賃貸可能な物件のなかで、これほどの物件はほとんど残っていない。(中略)ただ、昭和二年築のビルの趣に完全に魅了され、『ここで古本屋をやってみたい』という衝動がこみ上げてくるのを押さえきれずにいた」

森岡さんが昔住んでいたアパートと同様、古い石炭置き場が残っていたことにも、この建物との運命を感じた。こうして、独立を決意し、日本橋の茅場町に「森岡書店」を開店。経営者として「現実社会にどっぷり浸かっていく」ことになる。

「1冊の本だけを売る」本屋が成り立つ理由

現在の「1冊の本だけを売る」というコンセプトは茅場町時代に生まれた。本屋の一角で美術展を行なっていた際、集まった人が会話を交わして帰っていく姿を見て、たった1冊の本が紡ぐ親密なつながりに、可能性を感じた。

その構想を、初めて大勢の前で発表したのは、スープ専門店「Soup Stock Tokyo」などのビジネスを展開していることで知られる株式会社スマイルズ創業者の遠山正道さんのイベントだった。

森岡さん「『新しいビジネス』という題目で、参加者も事業案を共有する時間があったんです。そのイベントの前から、遠山さんの書籍は読んでいましたし、『ビジネスとアートは似ている』という考え方に、大変な共感を抱きました。『彼ならわかってくれるのでは』なんて期待も膨らみ、何を話すか必死で準備した記憶があります」

当日、森岡さんが発表を終えると、遠山さんから一言。

『それはおもしろい!』

1冊の本だけを売る本屋が、初めて出資者を見つけた瞬間だった。こうして、2015年に「森岡書店 銀座店」が誕生する。

「ビジネスとして成り立たせるのは本当に大変です」と話す森岡さん。それでも、茅場町時代にみた、本から関係性が紡がれる風景、尊敬する遠山さんからもらった言葉を信じ、商売を続けてきた。

銀座の店を開店してから、これまで3回の決算を迎え、“何とか”数万円の黒字を保ってきたという。

森岡さん「売上から逆算して、毎週の展示を組むようにしています。というのも、得られる単価は本の展覧会によって大きく変動するからです。800円の絵本を売る日もあれば、サイン入りの画集を1冊20万円で売る日もあります。

例えば、仮に100円の本だったとしても、『どうしても森岡書店で売りたい』という気持ちが伝われば、売上の見込める展示の後での開催を探ります。そうした採算度外視の選択をするためにも、黒字を保つことは大切です」

当日はイラストレーター平澤まりこさんの絵本が展示されていた。本以外にグッズも販売している

新しい試みも積極的に仕掛けている。昨年には、森岡書店のウェブサイト上で、オンラインコミュニティ「森岡書店総合硏究所」を始めた。

入会するには、月額864円でオリジナルの読み物が読める「行間に浸る」プランか、月額7776円でリアルイベントに参加できる「行事にも浸る」プランを選べる。

森岡さん「森岡書店を訪れた人がオフラインの場でも集まるきっかけをつくりたい。だから『空間のない森岡書店』と呼んでいます。

メンバー同士が交流する掲示板では、『エッセイ研究室』や『カレー研究室』のような小さいグループがあります。人や情報が循環して、豊かな体験が生まれているのは、嬉しいですよね」

黒字にするための努力は惜しまない。けれど、人や情報がゆるやかに交わり合う場も進んで確保する。それによって、お客さんはただ消費を繰り返す代わりに、他者とつながり、新しい場や体験を生み出していける。

森岡書店のあり方は、大量生産大量消費に違和感を持っていた森岡さんが、10年近くを経てたどり着いた、一つの答えなのかもしれない。

その場にいる人に“一つでも多く”持ち帰ってほしい

人や情報の豊かな循環は、国を超えた広がりを見せている。最近では、森岡書店に海外から観光客が訪れることも珍しくない。

彼らは、本を購入することは少ないが、じっくりと見て回り、帰っていくという。海外のお客さんを対象に、外国語の本を扱ったり、絵画集や写真集など、言語を問わない本を売ったりする予定をたずねると、森岡さんは別の“施策”を教えてくれた。

森岡さん「本にお客さんの似顔絵を描いたりしてますね。決して上手なわけではないんですけれど、言語がわからなくても喜んでもらえます。ほかには、この建物の説明をすることもありますね。一応『東京都選定歴史的建造物』にも登録されている建物ですから。日本に来て、寄った甲斐があったって思っていただけるかなと」

手書きの似顔絵に、建物の解説。一見、本とは関係ないうえに、あまり直接的な収益にもつながらなさそうに思える。しかし、森岡さんにとっては何より大切な行為だ。

森岡さん「その場にいる人に少しでも楽しんでほしい。一つでも多くのものを持って帰っていただきたいなって思うんです。似顔絵を描くくらいなら僕でもできますから。よかったら、描きましょうか、似顔絵。似ていませんが、その体験が面白いかと」

誰に対しても「一つでも多くのものを持って帰っていただきたい」という想いを忘れない。その姿勢が一貫しているのは、森岡さんのなかに確固たるビジネス論があるからだ。

森岡さん「ビジネスに大切なのは、『愛』や『希望』、『健康』、『朗らか』、『気品』といった言葉ではないでしょうか。どれも小学校の教室に貼ってあるような言葉ですけれど。時代を超えて教室に残り続けているだけあって、変わらず大切な真理だと思うんです。

自らの事業を心から愛し、希望を託せること。そして、自分や周囲が朗らかで、健康な状態でいられるよう尽くすこと。最後の『気品』は、そのビジネスが正しくあることかな」

ビジネスにおける“正しさ”と聞くと、持続可能なビジネスモデルを構築することや、収益を最大化することなどが連想される。しかし、森岡さんの答えは少しだけ異なる。

森岡さん「関わっている全ての人が幸せでいられる状態を求めること。その『正しさ』にこだわる姿勢に、気品が宿ると考えています。見た目が美しかったとしても、その製品を生み出す過程のどこかで、誰かがすり減らしてしまっていては、『正しい』とは言ってはいけないと思います」

誰かがすり減らしてしまってはいけない。それは森岡さん自身に対しても同じだ。経営における課題にぶつかった日も、良い方に考えるよう心がけるという。

「まあ、元々あまり深く考えない性格なのかもしれませんけどね」と、森岡さんはいたずらっぽく笑った。

「あそこのコーヒースタンドの店長さんに話を聞いたら面白いかもしれません」

取材を終えて店を出ようとすると。森岡さんが近くのお店を紹介してくれた。店主の方がユニークな経歴の持ち主なのだという。思いがけず次の取材先が見つかり、つい嬉しくなる。私たちに手を振り、そっと扉を閉める森岡さんは、最後まで気品で溢れていた。

学生時代の森岡さんが憂いた“大量生産大量消費の社会”は、まだまだ健在で、仕事で自分をすり減らしてしまう人も多い。しかし、ビジネスに“気品”を取り戻していくことで、少しずつでも、人間が朗らかでいられる方向へ、社会は変わっていけるんじゃないだろうか。