店舗飽和の時代に生まれたカクテルバー

田園都市線の池尻大橋駅の東口から地上に出る。コーヒースタンドやパン屋で賑わう商店街を5分ほどまっすぐ歩き、ファミリーマートの手前を左折すると駐車場が顔をのぞかせる。

その裏手の細い道を少し進むと、まるでホテルの入り口のような、LOBBYと書かれた高さ3mほどの大きなガラス張りのドアが目に入る。

LOBBY」は、2019年5月にオープンした「居酒屋以上オーセンティックバー未満」をコンセプトに掲げるバーだ。

居酒屋のようにフラッと立ち寄れる一方、オーセンティックバーのように出てくるお酒一杯一杯を楽しめる場として作られた。ジンやウォッカなどのリキュールや焼酎を果物やハーブに漬け込み、普段の居酒屋でも飲めるハイサワーやバイスなどで割ったオリジナルのカクテルを多数提供している。カクテルの監修は目黒の名店「BAR 014」が行なっているという。

店内には壁一面を覆うようにレタリングアートが描かれており、訪れた人の目を引きつける。

井澤さん「家とは別で、気持ちが楽になったり、特別な気分になったりする場所ってあるじゃないですか。なんでそんな気分になるのかはうまく言語化できていないのですが、自分もいつかは人がおもしろいと言ってくれたり、何かが生まれる場所を作りたいなと思っていました」

LOBBYオーナーの井澤さんは、そう語る。居心地のよい空間が好きで、カフェから始まり、今では2ヶ月に1回、海外のホテル巡りをしているという。学生時代から空間に関心があった井澤さんにとって、LOBBYは念願の店舗だ。

だが、現代は店舗も飽和している。新たな店舗が生き残っていくためには、継続するための構造やオリジナリティの反映が必要だ。LOBBYは、一体どのように店舗を経営していくつもりなのだろうか。

自分の経験を活かして生まれた「アート×ビジネス」という強み

LOBBYの特徴を語るためには、まず井澤さんの昼の顔を伝えるところから始めないといけないだろう。夜はバーカウンターに立ち、シェイカーを振るう井澤さんは、昼間はブランディングプロダクションおよびアーティストエージェンシーの& Supplyの代表としてクライアントワークを手掛けている。

同社は、ビジネスとクリエイティブをつなぎ、企業のビジネスの成功とクリエイターの成功、その両方を目的としている。クライアントの要望に応じて適したアーティストをアサインし、ビジネスとアートの橋渡しを行なっている。

学生のころからずっと空間に関心を持っていた井澤さんは、30歳までには独立し、空間プロデュース業を行いたいと思っていた。とはいえ、その道のりが鮮明には描けず、新卒ではヤフーに入社。大企業をクライアントとして受け持ち広告運用などを行う中で、本当に自分の力でビジネスに貢献できているのか葛藤を抱えはじめる。次第に中小企業に向き合った仕事をしたいと思い始めた彼は、オファーを受けGoogleに転職した。

その一方で、彼は、まず自分のできる範囲で小さく空間作りを始めた。現代においてビジネスを始めるセオリーは、「小さく始める」こと。その一つが、前職Google時代から始めたレタリングアーティスト集団「RELISH」としての活動だ。

RELISHは、音楽イベントの巨大レタリング壁画やアパレルショップやコーヒショップの看板製作を手がけている。井澤さんとデザイナーの小泉さん以外は、案件ごとに新規でメンバーを募集し、都度チームをつくっているという。

音楽フェスティバル「SUMMERSONIC」のフォトスポットとして描いたレタリングアート

だが、才能あるレタリングアーティストたちは大勢存在する。井澤さんが競合となるレタリングアーティストたちと差別化するために見つけた勝ち筋は、オフィス空間のデザインだった。

オフィスの壁に組織のビジョンやミッションをアートで可視化することで、社員への浸透を後押しする。組織づくりにも欠かせない価値を提供することで、アートとビジネスを結びつけることに成功した。井澤さんがGoogleで働いた経験があったからこそ、オフィス空間を通じた社員へのメッセージの重要性にも気づけたのだろう。

ワークスペースが従来のものから変わっていく中で、RELISHの多様化が進む組織にビジョンやミッションを浸透させるという活動は評価された。時代の後押しもあり、RELISHはその後も次々と案件を獲得していった。

「経験」のための空間を作り上げる

RELISHとしての活動は軌道に乗り始めた。だが、井澤さんにとって、それはほんの一歩を踏み出したに過ぎなかった。

井澤 卓 2011年にヤフー株式会社に新卒入社し、広告営業本部にてPanasonicやApple、Microsoftなど大手企業の担当営業としてデジタルマーケティング支援を行う。2014年にGoogleへ移り、新規顧客開発本部にて、120社以上の中小企業のデジタル化、及びデジタルマーケティングを営業・運用担当として支援。2013年にPaint & Supplyとしてレタリングアーティストとしての活動も開始。多くの企業、イベントへ作品を提供。

井澤さん「僕らが目指しているのは、コンセプト設計から入って、ビジネスモデルを考え、空間に落とし込むところまで一気通貫で担える組織です。しかし、現状では僕らがアウトプットとして何ができるか示すものがレタリングしかなかった。だったら、自分たちができることをすべて詰め込んだ、ショーケースのような空間を作ってしまおうと思ったんです」

まだ形になっていないものをイメージできる人は少ない。だが、目の前に具体化されたアウトプットが現れた瞬間、わかる。一気通貫で担えることを示すには、自分たちで作り上げる必要があった。

ショーケースは訪れる人に経験してもらうための空間だが、ショーケースを作ることは井澤さんにとっても価値がある。ビジネスモデルを考え、空間を作り、運営をする経験。それが自らの血肉となれば、本業で提供する価値もまた変わる。社会が複雑化した今、クリエイティブカンパニーがクリエイティブだけを領域にしていては生き残れない可能性もある。

井澤さん「空間を作るなら飲食店にしようと決めていました。ただ、バーになったのは消去法だったんです。僕は飲食業界出身では無いため、最初は注ぐだけで提供できるクラフトビールを中心としたビアバーを構想していたのですが、原価が高くて断念。予算との兼ね合いから何ができるかを考えたら、カクテルを中心に提供するバーしかなかったんです」

クリエイティビティとは、制限のある状況で発揮されてこそだ。経済性を考慮してバーを作ることに決めた井澤さんは、クリエイティブカンパニーのショーケースとして、彼らのオリジナリティを反映したバーを作るために、リサーチを始めた。

今の時代に「バー」を作る意味から考える

彼がまず行なったのは、都内の居酒屋やバー、レストランなどカクテルが提供される場所をとにかく巡ってみること。足しげく通う中で見つけたある違和感を見つける。それは、カクテルが提供される瞬間だった。

井澤さん「カクテルって次の一杯を待つ時に全然ワクワクしないなと、ふと思ったんです。なんでだろうと考えてみると、どこのお店に行ってもだいたい同じ飲み物を頼むからだと気づきました。お酒の中でもワインやクラフトビールは種類が豊富なため次の一杯の楽しみが残されていますが、居酒屋のカクテルはそうじゃない」

既存の店舗では、カクテルの選択肢が少ない。全くないわけではないが、カクテルの選択肢が多い店舗には違う課題があった。

井澤さん「唯一、カクテルが楽しめる場所としてオーセンティックバーがありますが、バーに行き慣れた人でないと入る敷居が高い。とくに自分のような20代後半から30代前半の人にとっては入りづらさを感じるでしょう。また、オーセンティックバーのような場所はカクテルの種類が豊富で何を頼んだらいいかわからなかったり、そもそもメニューが無かったりと万人が楽しめる場所ではありません」

コース料理のように次の一杯を待つ時間も含め、飲み物としてカクテルが楽しめる体験を居酒屋のような敷居の低い場所で創出できたら、他のバーや居酒屋と一線を画した場所になる。まるでストリートフードのように多くの人にとって親しみやすい存在となるよう思いを込めて、井澤さんはLOBBYの形態を「Street Bar」と名付けた。

この「Street Bar」というコンセプトに共感したのが、倉嶋さんだ。倉嶋さんは、広告制作会社、広告代理店で働いたのち、メルボルンでバリスタとして活動。1年4ヶ月に渡り世界を旅し、その後ケニアのスタートアップで働いていたときに、井澤さんから相談を受けた。


倉嶋 歩 2012年に広告制作会社に新卒入社し、親会社である広告代理店で営業として勤務。大手通信会社、銀行、CVS等のプロモーションを担当。4年半の勤務を経て退職し、渡豪。メルボルンやブリスベンでバリスタとして活動後、1年4ヶ月に渡り世界中を放浪。ケニアのスタートアップでCOOとして勤務後、2019年に約3年ぶりに日本に帰国。and SupplyではCOOを務める。

倉嶋さん「ちょうどケニアのスタートアップをやめようかと思っている時期で、次は何しようかと模索していました。実は、日本に帰るつもりはあまりなくて。世界中を旅したり、ケニアのスタートアップで働いていたのも、何が起こるか想像できないことに挑戦したいという気持ちからでした。今、日本に帰ってもおもしろいことはなさそうだと思っていたのですが、LOBBYの話を聞いたときにStreet Barというコンセプトにとても共感したんです」

井澤さん「LOBBYの構想を考えていた時から、ビジネスの世界でゴリゴリ仕事をしつつも、カルチャーにも興味がある倉嶋みたいなメンバーが欲しいと本人には話していたんです。でも、日本には帰ってこないものだと思っていたので、タイミングがよかったですね」

世界を旅してきた倉嶋さんにとって、Street Barのコンセプトはしっくり来るものだった。井澤さんが作り上げようとしているお店が実現している様子を、海外で見てきていた。

倉嶋さん「オーストラリアには敷居は低いけど、インテリアやメニューにこだわりを持つバーやカフェが多く、そういった場が日本にもあればいいなと思っていました」

来た人の感度を上げる体験を

ショーケースとしての店舗。
ストリートフードのように親しみやすいバー。

作り上げるための条件はできた。あとは、実際に形にし、運営していくのみだ。お店を形にしていく上で意識したのは、「感度を上げる」ことだと井澤さんは話す。

井澤さん「人がワクワクする瞬間って感度が上がった瞬間だと思っていて、そういう瞬間は記憶にしっかりと残る。感度はどうやったら上がるのかというと、一つは新しいものに触れること。僕自身、海外にいるときは見るもの触れるものが新鮮で、インスピレーションを得られる感覚があった。でも、いつも行く居酒屋でいつも飲むレモンサワーを頼んでも感度は上がりませんよね。LOBBYにくればワクワクした体験ができる、そうお客さんに思ってもらうためにも、どうしたら感度を上げることができるのかを徹底的に考えました」

LOBBYのカクテルの特徴は味覚だけではなく、視覚や嗅覚でも楽しめることだ。ジントニック一つとってもそのこだわりが伺える。

井澤さん「まずジン自体をローズヒップに浸透させてバラの味と香りづけをしています。作る際は、トニックウォーターだけでなくローズウォーターで更に香りを高め、仕上げにバラの花びらを散らしています」

取材後、実際にジントニックを作っていただいた。まず目を引いたのがカクテルの上に乗ったバラの花びらとグラスの上部を包むように配置されたスライスキュウリ。その見た目は、大きな葉っぱの上に小さな花が咲いているようにも見える。グラスを口に運ぶと、ほのかにバラの香りが鼻孔を抜けていく。うすはりのグラスも手伝ってか、ジントニック特有の少し苦いドライな味わいをしっかりと感じることができた。

バラとローズヒップのジントニック

カクテルがバーの主役だとしたら、空間はそれを引き立てる役割を担う。

こだわりは、お客さんの感度を下げないこと。打ちっ放しのコンクリートや鉄筋が顔のぞかせる壁、あえてでこぼこのまま残した床などの無機質さとカウンターに置かれた大きな木が空間の唯一無二性を演出している。カウンターやソファー席、テーブル席と、視点を変えて楽しめるのも特徴的だ。置かれているテーブルは、鉄や木を加工するところから作っている。

カウンターにそびえ立つ観葉植物

倉嶋さん「そこまでする必要があるのかと思うかもしれませんが、一つでも丁寧ではなかったらお客さんに伝わってしまいます。もし、本物の木ではなく木目調のシートが貼ってあるだけだったら、どこか安っぽさを感じてしまうでしょう。手入れがしやすいとか単価が安いとかは作る側の都合で、お客さんには関係ありません。カクテルで感度を上げても、空間のせいで体験が下がってしまっては元も子もないですから」

材料を加工するところから作ったテーブル

飲食店の立ち上げ経験がクリエイティブに生きる

井澤さんの思いが詰まったLOBBYは着実に理想の形へと近づいていったが、オープンまですべて順風満帆で進んだわけではない。飲食店の立ち上げ経験がなかったため、毎日足りない部分が見つかり、その度対応していった。

倉嶋さん「一番難しさを感じたのはメンバーのモチベーションのコントロールです。立ち上げを手伝うと名乗り出てくれた人が何人かいたのですが、僕らがLOBBYにフルコミットしているの対し、他のメンバーは本業の合間に携わる形だった。そのため、温度感に差が出てしまったんです」

井澤さん「オープンギリギリまで工事をしていたため、どんな空間になるかイメージが付きにくかったのだと思います。僕らはカクテルやフードのメニューも考えていたので、場が出来上がってなくてもお店を作っている手触り感がありましたが、他のメンバーはそうではなかったなと。

ただ、実際に店舗を構える上での難しさを身を持って体感できたことは良かったと思います。実際に空間づくりをクライアントとしていくとなると、こういった現場の大変さを知っているか否かで提案の質も変わってくるはずですので」

意識共有の難しさを感じつつも、内装は出来上がり、ついにオープンの日を迎える。

客層として想定していた20代、30代が多く、おすすめしたカクテルを飲んで次の一杯を頼んでくれる方も多いという。空間へのフィードバックもポジティブで、空間デザイン界隈の大御所がお店にきて褒めてくれたこともあった。だが、まだまだやるべきことは山積みだ。

井澤さん「僕たちがいるから、空間がSNSで映えるからという理由で来てくれた人に、リピートして来ていただくためにはどうしたらいいかを考えないといけない。例えば、週一で手伝ってくれているスタッフが僕たちと同じようにお酒の説明ができたり、お客さんを楽しませるコミュニケーションができる必要がある。LOBBYに行けば何かありそうと思ってもらうために、チームで協力しながら提供できる価値を高めたいと思っています」

LOBBYを入り口として、街全体をプロデュースする

LOBBYはバーとしてだけでなく、ギャラリースペースやイベントスペースとしても今後活用されていく予定だ。

井澤さん「LOBBYはあくまでショーケース。僕らがやりたいのはバーの運営ではなく、空間プロデュース。LOBBYという名の通り、池尻大橋の玄関口として人が集まる場を作り、ゆくゆくは街という巨大な空間のプロデュースをしていきたいです。目指しているのは、ポートランドにあるAce Hotelのような存在です」

クリエイティブ企業という言葉からは、どこか洗練されたかっこいい印象を受ける。だが、アイデアを実現可能な形に落とし込み、ビジネス的に成功させるには泥臭い努力が不可欠だ。理想論を語るだけであれば誰にでもできる。今求められているのは、現実の大変さも知った上で、なお理想へと引っ張ってくれる彼らのような存在なのかもしれない。

取材の後、別日にLOBBY訪れたとき、お店の壁には井澤さん率いるRELISHが書いた新しいレタリングアートが描かれていた。

LOBBYは今日も訪れる人に、新しいワクワクを提供し続けている。