老いをポジティブに捉える合同展示『Aging』

そんな、宛てのない問いに私たちを誘うのが、早稲田大学のドミニク・チェンゼミと橋田朋子研究室による合同展示、『Aging』だ。老いることを、「物体の経年変化」といったポジティブな意味を含む「Aging」という言葉から捉え直すために、学生たちが作品制作を行った。

12月14日には、美学者の伊藤亜紗さんをゲストに迎え、「Aging」という概念を探るトークイベントも行われた。伊藤さんは、身体の障害を治療するべき“症状”ではなく、身体のなかで起きている“現象”として捉え、そのメカニズムの研究を重ねてきた。著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』では「視覚障害」を、『どもる体』では「吃音」を取り上げ、人間と身体の関係性を解き明かそうとしている。

そんな伊藤さんと、同展示を率いた早稲田大学文化構想学部 准教授のドミニク・チェンさん、同大学基幹理工学部 准教授の橋田 朋子さんによる対話は、今回のテーマである「Aging」を起点に、時間やテクノロジーといったトピックへと際限なく広がっていった。

人間が暮らす「生理的な時間」と「社会的な時間」

イベントの冒頭、伊藤さんは「Aging」が「とてもアツいテーマ」と語った。なぜそこまで“アツい”のだろうか。その前提にある「時間」に対する関心を共有してくれた。

伊藤さん「人間が生きている時間には、『生理的な時間』と『社会的な時間』があると思うんです。例えば、締め切りに合わせて原稿を書くとき。『書く』ことは生理的な行為で、自分の状態によって、計画通りに進捗しない場合もあり、予測がつかない。にもかかわらず、『締め切り』という社会的な時間の要求に合わせて、絶えず生理的な時間を調整しなければいけません。

行為を1つずつ足していく『生理的な時間』と、締め切りから逆算して動くために設定される『社会的な時間』。この『足し算の時間』と『引き算の時間』は、常にぴったり重なるわけではない。その狭間で私たちはどう生きていくべきか、これから深く研究していきたいと思っているんです」

『足し算の時間』と『引き算の時間』を行き来する営みと「Aging」の間に、伊藤さんはどのような関連性を見出しているのだろうか。

伊藤さん「認知症の進行度合いを検査する際に、引き算の計算を行うケースがあるそうです。おそらく、足し算の時間と引き算の時間は、人間にとってまったく性質の異なるもので、それを使い分けているのだろうと思います。

今、認知症の方も含め、会話が文脈を外れて『飛ぶ』現象について興味を持っているんです。それも、時間の流れが関連しているのではと考えています。きっと、身体のなかには2種類以上の複数の時間が流れていて、それを行ったり来たりしている。その過程で会話が『飛ぶ』現象が起きているのではないかなって」

積み重ねた「時間」の否定は自己否定に近い

伊藤さんの話を聞くまで、「老い」とは、時間という単一の直線に沿って進行するものだと思っていた。「生理的な時間」と「社会的な時間」、複数の時間軸を行き来しているという考え方は、「老い」に対する一元的なイメージに新たな見方を加えてくれそうだ。

とはいえ、時間を重ねるにつれ、身体や脳は着実に衰えていく。その不可逆的な流れに抗おうと、人間は必死でテクノロジーを発展させてきた。近年、アンチエイジングにまつわる目覚ましい研究成果を見かける度、「いずれは老いから逃れられるのでは」なんて想像も膨らむ。

しかし、伊藤さんが先日米国で参加したシンポジウムでは、テクノロジーによって身体が時間を遡る“危険性”について議論が行われていたそうだ。

伊藤さん「シンポジウムには、身体障害者の支援を専門とする研究者が集まっていました。そのなかで、人間の能力を超越するような義肢やデバイスが登場していること、それを障害当事者たちがどう考えるべきかといったテーマを考えるセッションがあったんです。

そこで挙がったのが、『私たち人間は、“時間”を尊重しなければいけない』という意見でした。アンチエイジングによって、身体を若返らせることは可能になるかもしれない。けれど、それは身体に蓄積された時間の厚みを否定してしまうことにつながる。『時間を遡れない』という条件の下で生きる人間。それ自体の否定になるのではと、彼らは危機感を抱いていた」

ドミニクさんは、自身が吃音と付き合ってきた経験を重ね合せ、「時間の厚みを否定してしまう危険性」という伊藤さんの言葉に大きく頷く。

ドミニクさん「例えば、今すぐ吃音が治る薬があったとしても、僕は飲まないような気がするんです。なぜなら、吃音と付き合うために編み出してきた技が消えてしまうと感じるから。子どもの頃から、何十年と時間をかけて吃音が身体に馴染んできたプロセスを否定したくない。それは自分自身を否定したくない気持ちにも近いのだと思います」

身体のローカルルールを肯定するテクノロジー

歳月をかけて、人は自らの身体との付き合い方を獲得していく。伊藤さん曰く、この蓄積は障害の有無に関わらず人間が持っているものであり、「ローカルルール」のようなものだという。

伊藤さん「これまで視覚障害や吃音など、様々な身体を研究した結果、身体はローカルルールで構成されているのだなと実感しました。走るにしろ、話すにしろ、『この身体で生きるために、こうした方が良いはず』といったルールを、人は数十年かけて学習していく。

一般的に『ローカルルール』には『合理的でない』というニュアンスがありますよね。外部から見ると合理的ではないのに、内部はそれでずっと回ってきて、局所的な合理性はある。それは決して第三者が容易に判定できるものではない。私自身、そういったローカルルールは肯定していきたいんです」

こうしたローカルルールの積み上げは「Aging」を構成する大切な要素なのだろう。橋田さんは、身体を拡張するテクノロジーに抱いてきた違和感の正体を、伊藤さんの言葉から感じ取っていた。

橋田さん「テクノロジーを用いて、一足飛びで何かをできるようになることと、その人が培ってきた能力を拡張すること。この違いがずっと気になっていました。多くのテクノロジーが前者を目指すけれど、本当にそれだけで良いのかなと。

今、伊藤さんの言葉を聞いて、両者の間には『その身体が獲得してきた時間や工夫を汲み取るか否か』という明確な違いがあると実感しました。身体拡張に人間の未来を見るのなら、私たちは人間の身体が積み上げていくものに、目を向ける必要があるのかもしれません」

日本において「アンチエイジング」と聞くと、時間による蓄積を否定し、若さを獲得する行為を連想する。橋田さんの語る通り、私たちは「身体が獲得してきた時間や工夫」にあまりに無頓着だったのかもしれない。

蓄積をあえて「捨てる」行為の持つ意味

ドミニクさんは、そうした「身体が獲得してきた時間や工夫」をあえて断ち切る行為も、「Aging」には必要なのではないかという視点を示す。今回の展示作品の一つ「子供から大人にお下がりできる服」に触れながら語った。

ドミニクさん「この服は、3歳のサイズから大人用のサイズへ、大人用に“お下がり”できるよう設計されています。鑑賞者は各パーツを引っ張った後、最後にハサミを入れます。

このハサミを入れるという行為に、僕は『初心忘るべからず』という世阿弥の言葉を連想しました。『初心忘るべからず』は、多くの人が『最初の頃の初々しさを忘れてはいけない』といった言葉だと思っていますよね。けれど、僕が能楽師の安田登さんから、あれは誤訳だと教わりました。

漢字の『初』は布にハサミを入れるという意味を指す。だから、どれだけ歳を取っても、衣にはさみを入れること、つまり積み重ねたものを捨てる行為を恐れてはならぬ、と世阿弥は言っている。老いて尚、花開くためには、『捨てる』とか『忘れる』といった行為も不可欠なのでしょう」

「忘れる」を実行するには、身体に蓄積された時間や工夫、ローカルルールを自覚する必要がある。けれど、私たちがそれらに向き合う機会は決して多くはない。

ドミニクさんは、伊藤さんから吃音についてインタビューを受けるまで、その症状や自ら編み出した対象法を他人と共有したことがなかったという。私たちが「老いて尚、花開く」ためには、身体に染みついた蓄積を棚卸し、他人と共有する時間が必要なのではないだろうか。

人とモノの関係性から捉える「Aging」のもつ価値

展示作品のなかには、人間の身体だけではなく、人とモノの関係性において「忘れる」行為を設計したものもある。

その一つが、持ち主のモノを一時的に預かり、鑑賞者が忘れた頃に送り返すというユニークな作品「棚ぼたデザイン」だ。

伊藤さんは、自身が“棚ぼた感”を得た経験から、人がモノを「忘れる」意味を次のように解釈する。

伊藤さん「少し前に、Googleで調べ物をしていたら、15年前に自分が執筆したブログが見つかったんです。すっかり忘れていた自分の文章と思いがけず再会し、それこそ“初心”が訪れたような気持ち。一度忘れていたからこそ、再会できた嬉しさというか、棚ぼた感がありました。

人がモノの存在を忘れて、再び思い出すと、『モノにもモノなりの世界があったんだ』という気がしてくるはずです。それまで反っていた自分とモノの時間軸が、不意に重なったような。そうやって異なる時間軸を生きていたと知覚し、尊重する。この行為に何か価値があるのだろうなと思います」

伊藤さんの話す「異なる時間軸を尊重する」価値とは、一体どのようなものなのだろうか。ドミニクさんは、自身の趣味である“ぬか床”を例に挙げながら一つの見解を示す。

ドミニクさん「以前、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんとぬか床についてリサーチをしていて、彼がぬか床の時間推移を整理してくれたんです。すると、ぬか床にも守・破・離とでも呼べるような異なるフェーズの推移があることがわかってきました。最初は、乳酸菌などの『良い』菌が優勢に成長し続け、あまり「良くない」菌が減少していきます。それが、ある時から形勢逆転して、カビをつくる悪い菌が復活する。でも、そこから再び良い菌が集まり、多様な菌が安定化する。そうやって、100年以上続く良いぬか床になるそうです。

ただ、良い菌をキープするのではなく、一度別の時間軸を過ごし、再会する。そのときに、より長く続くぬか床が生まれる。こうした、ぬか床における無数の微生物たちの『Aging』のように、人やモノも、別々の時間を過ごした後に、再び交差すると、それぞれの積み上げた蓄積が新たな価値に転じるのかもしれません。今日お2人の話を聴きながら、『Aging』という視点にはそんな可能性もあるのではと考えていました」

伊藤さんが語った通り、私たちは今日も複数の時間軸を生き、自らの身体に時間や経験、ローカルルールを積み上げていく。「老い」とは、きっとその蓄積を大切に守ったり、時には思い切って捨てたり、その無数の意思決定を繰り返すことなのだろう。

そのなかで、ふいに自分と他者の時間軸が交差する瞬間が訪れ、ひょっとしたら“良いぬか床”のような何かに転じる可能性もある。3人のトークから浮かび上がる「Aging」の輪郭を眺めてみると、老いることは想像以上に創造性の高い営みのように思えてくるのだ。