「花道家とは醜い仕事である」、それがこの本を通じて伝えたいメッセージである。

そのメッセージはおそらく一目この本を見ればわかるだろう。この本の内容は至極単純でシンプルなものだ。だが、花道業界にとっては意味のある本だと信じている。なぜならこの本で表現した「花道家の醜さ」は、どんな花道家も必ず抱えていることだからだ。だがそれを見て見ぬふりをしている花道家も多い。花道家の多くは自分の仕事の美学を心から信じている。だが、そんな花道家にこそ見てほしいと思う。認めたくないだろうが、我々花道家のやっていることはこういうことなのだ。

ぼくはこれまでこう考えていた。花道家はどれほど取り繕っても、花を殺し、花を捨てる、その事実は覆らない。美しい仕事をしているように見えて、裏では汚いことをしている。せっかくそこで綺麗に咲いている花を刈り取る。花を育てる産業は環境にも悪い。花道家はその殺害と汚染の上に成り立っている。だから花道家はその事実から逃げてはならない。それを隠すのではなく、それを自覚し、理解し、隠さずにオープンにした上で、それでも花をやる理由を堂々と語ることが花道家の使命なのだ。

書家の石川九楊が指摘した通り、花道は武士の思想とよく似ている。対象を容赦なく切り捨て、その命を何かに捧げる。つまり、死を美として取り扱う。石川は、人間の命を自身の神であるバモイドオキ神に捧げた酒鬼薔薇聖斗の行動まで「彼は花をやったのだ」と言い放った。このときの対話に参加していた花道家の川瀬敏郎は石川の発言に対して反論を試みるも、感情的な反発にとどまってしまっていた。それほど石川の指摘はクリティカルだった。

ぼくは美しい側面しか見せない花道家に嫌悪感すら持っていた。裏では汚いことをしているにもかかわらず、何をごまかしているのかと。それはむしろ花に対しても花道という文化に対しても不誠実なのではないかと。だからこそ、この本の中ではその醜い側面がむき出しになっている。花道家が絶対に見せたくないもの、本当の花、それがこの本のテーマだ。

その上で、花はそれだけではいけないということをはっきりと言っておきたい。ぼくは花道という文化について、心から美しい文化だと思っている。だからこれからぼくは花の「光」に焦点を当てていかなければならない。これは石川から花道家への宿題である。ぼくはずっとこの宿題への応答を試みている。だからまずは武士の心、つまり「美しき死」に向き合おうと思った。すべてはそこからだと考えた。だからこのような本をつくった。ぼくの前作である『Post-Mortem Portraits 』もそうだ。日本語で「遺影」と題したこの本では、タイトル通り花の死について取り扱っている。

いま思えばぼくのここ10年の花の活動は、常に死とともにあった。その活動は今回の本『贄花』で一旦を終える。今回の本は前作よりもさらに「死=闇」の強度が高くなっているはずだ。だが同時に「生=光」の気配も感じ取れるだろうと思う。この本の完成によって、ようやくぼくは先へと進むことができる。

ぼくはこれから、死を踏まえた上で、あらためて生に、光に向き合う。それがぼくの次の10年の仕事だ。

『贄花』は小さな本ではあるが、大きな意味のある本だ。花道家や日本文化に興味のある人はもちろん、エコロジー、サステナブル、エシカルなどの昨今ビジネス領域で重要視されている領域に関わる人まで、さまざまな人に見てもらいたい。特に、エコロジーとビジネスのよき関係については、時代の要請によってここ数年で急速に議論が深まっている。だが、その両者のあいだには見えない大きなクレバスがある。この本はそのクレバスを覗くための本でもある。きっと、何らかのヒントが得られるはずだ。