デザイン思想家Tony Fryの「Design as Politics」を読んだのだが、コロナにも環境危機にも関連した、示唆に富んだ一冊だった。あらゆるものづくりに携わる人に、読んでもらいたい本である。

いきなりだが、ぼくたちの未来は、壊れている。否、ぼくたちが未来を壊している。それに対して、FryはSovereign of Sustainment=持続可能な統治というラディカルなデザイン思想を打ち出すのだ。書評というほどではないが、ぼくの解釈を交えながら紹介したい。

現代が生み出す非未来化: Defuturing

未来は破壊されている。打ち消されている。Defuturingは現在進行形で、未来を打ち消しているということだ。近代から、現代へぼくたちは、持続不可能な世界を構築してきた。

例えば、民主主義は市場原理的なものと同化しつつある。消費者(国民)の「いまここ」の欲望に答える。それは、未来に起こりうる問題へ取り組むための選択肢をひた隠しにする。なぜなら民主主義がみんなで決める中で、対象にする”みんな”には、死者もまだ見ぬ子供も含まれないから(社会的弱者も含まれていないのが現実であるが)。そして、即時的なニーズを満たすためには資本主義の市場原理が最も効率がいい。

この考え方では例えば森林を保護するよりも、生活(お金)のために木々を切り倒したほうがいい。それが合理的判断なのだ。さらに、コスパという言葉が表すように最小コストで最大に切り倒せたほうがいい。それが効率的合理性だ。この意味で、民主主義と資本主義はもはや抱き合わせになっている。

背景にある人間中心性: Anthropocentrism

そうしたシステムが顕にするのは、人間は暴力的であるということだ。

この構造的な持続不可能性の本質は私たち自身である。つまり、この世界で私たちがどのように生きて、ふるまったかの産物なのだ。

要するに、環境問題は技術や素材的な問題ではなくて、人間のモラルへの内省と政治的な意志の問題だ。テクノロジーの良し悪しの言説にはいつも、この問題のすり替えが存在する。資本主義経済への批判もそうだ。モラルや想像力があれば、数値至上主義に陥ることも、人間性を軽んじることもなく、この一線は超えてはいけないという場所で踏みとどまれるはずではないか。その内なる光がないがために、システムを作り上げたぼくたちは、システムの奴隷になる。

ぼくたちのふるまいが、この持続不可能性を引き起こしている。それは、人間中心主義という言葉で語られ、森や動物は人間のための搾取の対象になる。人間は自然より優れているというナラティブが支配力をもつ。

ぼくたちのふるまい、欲望が変わらないといけない。それには、まず人間中心性や暴力性を認め、引き受けることだ(人間中心性からの逸脱に関しては、人間は、食い、食われるものであるなどが参考になれば幸いだ)。

デザイン・政治・政治’的’

このような現代に根付いた、構造的な持続不可能性に対して、Fryはデザインの介入を説いている。が、先に進むには、「デザインは政治的な営み」という理解が不可欠だ。FryはPolitics=政治とPolitical=政治的なものを、下記のように区別している。

Politics=政治:個人・集団・行政による制度化・組織化された実践
Political=政治的なもの:社会の政治動物としての人間の行動および目的志向な社会構造に埋め込まれた幅広い活動領域

ぼくたちは「政治的」に構築された社会に住む。身の回りにあふれるのは意図が埋め込まれた人工物だ。イスもコップも家も信号もまちも法律も。

デザインは、具現化のため、特定の政治的信念・イデオロギーにと方向性を与える

デザインは政治的な営みである。ここでいう「政治的」とは、目的志向であり価値由来という意味だ。目的というのは特定のイデオロギーや価値観から由来する。つまり、目的志向というのは、何らかの望ましさを目指す。それは、どのような望ましさで、誰にとっての望ましさで、どのように形式化されるのか?誰によって決められるのか?

デザインはそうした無数の可能性から、何かを選びとるということだ。その際、どの立場で、どんなスタンスに基づいて選びとるのかという、特定の価値/思想の具現化という意味で政治的なのである。

例えば、時短のための料理のため料理キットを考えてみる。これは素晴らしいサービスだ。忙しい夫婦や親には大助かりだろう。これは時間をかけず料理できる・素早い・手軽がよい、という特定の価値に基づく。一方でそれは市場経済の効率性に基づいていると言えるかもしれない。それは、忙しいという状況を生み出す構造そのものの再生産・強化にもつながり得るかもしれない。

日常的に、デザインは権力や統治に密接に関わりを持つ。さて、もう少し見ていこう。

デザイン・生政治・統治

フーコーはコロナウイルス下でもよく話題にのぼるが、Bio-politics=生-政治を唱えた。これは支配権力の体系を説くものだ。近代以前は直接的な力の公使や暴力(ex:王が処刑を実行する)による権力であったが、近代では積極的な介入をし人々を生かす権力である。なぜなら、人々が死んでしまっては権力者の維持ができない(ex:人口減少してはGDPに支障がでる)。そのために、管理しやすい従順な人間を生み出す。

それには、ひとつに「規律訓練」という概念がある。これは権力・規律を内面化させることで、命令されなくても自らが権力に従属するように教育するという形態だ。これに加えてもうひとつには、人間を「群れ」や「家畜」のように扱い、集団統計的に扱うという権力のあり方もでてきた。例えば、人口調整、ワクチンといった処方である。これらの個々へのアプローチと全体へのアプローチは多層的に統治を生み出す。

特にこの規律訓練はデザインに携わるものにとって欠かせない視点だ。学校の例をあげよう。学校では、あらゆる規律が身体・精神に働きかける。時間割りの細かい区切り、運動会などの行進練習。テスト中に先生が監視しているのではというまなざし。さらに物質生を通してその規律をぼくたちに刻み込む。ランドセルや制服は、わかりやすいデザインによる統治形態だ。所定の服装やカバンを使うというルールから従順さを、物質を通してぼくたちに内面化していく。

また、コロナに関連しても下記のように、デザインを通してという規律を内面化している。これは世界中で見られる動きだ

つまり、この権力支配にデザインは大きな役割を果たす。背後にあるイデオロギーを物質化し、ぼくたちに知らぬ間にたたきこんでいく。ぼくたちは結果として、権力や特定の思想に従順になる。

デザインを通した持続可能のための統治

さて、この考えをベースにしてFryは”Sustainment sovereign=持続可能的な統治“や、”Dictatorship of Sustainment=持続可能の独裁“といった概念を提唱する。

政治的なイデオロギーは、持続可能的な統治の道を探すことで、ビオス(動物的ではなく人間的存在)として、未来を維持するための力について考え、感得することに焦点をおくべきである

デザインは前述の通り政治的である。そしてデザインというのは力の行使でもある。具体的に、Dovey(1999)は、Framing Places: Mediating power in built formにおいて、デザインの力の行使を3つの観点から説いている。1つは、物質や技術的な物を介したコントロールだ。パノプティコンのような監獄がわかりやすい。2つには、より間接的な操作や支配で、あたかも自由意志や選択によるものと見せかける。行動経済学のナッジなどがイメージしやすいだろうか。3つには、認識や認知に働きかけ、欲望と関心を動かす力だ。広告などは欲望喚起の装置であろう。

これらの力の行使を組み合わせて、ぼくたちは動かされている。デザインという実践には、この力関係や権力的視点が欠かせないのだ。なぜならそれは、既存の権力関係や秩序を再彫刻しうる方向に、容易に流れかねないからである。ゆえに、自身の実践にはこの批評的内省が必要なのだ。デザインスクールで、批評と内省を重んじるのは、この意味も多分に含まれる。

と、まあこうした観点をベースにようやくFryのSustainment Sovereignについて話せるが、ここまで言えばおわかりだろう。Fryはつまるところ、責任ある人間の信念、期待や行動を生み出す人工物(装置/システム)を設計することにより、意志を負わせる政治を提唱する。

先のテープはという規範=こうあるべきというふるまい、を内面化する。同じように、の持続可能性に基づく思想・規範を物質化して、精神や身体に刻んでいけばいいということだ。

現在、コロナ下でぼくたちが経験しているとおりに、これはに一定の不自由さをしいることになるかもしれない。それが意識的であろうと、(内面化するゆえに)無意識的であろうと、だ。ある種の自由を放棄すること。政府は従来の統治を半ばあきらめ、市民は自律性を半ばあきらめ、市場は支配を半ば諦める。しかし、Fryは未来を補償するためにはこの犠牲が必要だ、と言う。

それは、「自由」の意味を再構築することであろう。なぜなら、従来の個人の自由の結果、ぼくたちは地球の限界を迎えて自らの首を締めているどころか、他種や自然、未来の子孫を滅ぼしている (exプラネタリーバウンダリー参照)。それは全て「自由」に欲望のままに振る舞った産物なのだ。ぼくたちは、自由を履き違えてきたのではないか。人類に、地球を搾取し、汚染し、無駄にし、ダメージを負わせる権利などないのである。

デザインはこの新たな”統治の思想”に基づいて、”政治的”な営みを繰り出すことを期待される。デザイナーは持続不可能性につながる行動を起こす個人の自由を制限し、「誰しも(将来の人類も、自然も、他種も)共通して生きられる未来」という自由を補償するための仕組みを生み出すように、新たな不自由をデザインすることに取り組むべきなのだ、とFryは言う。

本書ではあまり、詳細かつ具体的な統治のあり方の提案はなされていない。どこまでの統治をイメージしているのかは、いまいちつかめない。どこまでの統治なのか、ともすれば非常に危険な境地へ踏み入ってしまいそうな気もするが、ゆえにこの提案は議論を誘発するプロトタイプとして捉えるべきだろう。

一方、直接コントロールはせねど、この持続可能な思想を埋め込んだ人工物を通した日常のふるまい、習慣を促すことは少なくとも必要なのだ。例えば、昨日あなたが観たNetflixの総時間を、CO2の排出に換算したらどうだろう?それをNetflixがエピソードを観る前・観た後に表示してきたら、どうだろう?これも、規律形成のひとつだと思うのだ。デザインは、覆い隠すことが得意である。いまのデザインの多くは「悩まない・煩わしさを感じさせない」ことが価値観になっていないだろうか?それは、現状の欲望を肯定し、未来の持続性を打ち消すことにつながってないか?

結局、必要なのは人間がより自分を超えた良心をもちふるまえることであり、これが欲望のエデュケーションなのだと思う。

さいごに

ここまで5000文字に近い長文を読んでいただき、あなたはどう思われただろうか?ぼくがこの本を読んで、紹介したいと思ったのは、このデザインによる統治という可能性もさながらに、実践への政治的内省の必要性なのだ。要は、あなたの実践は、どのような価値観や思想に基づいているのだろうか?どのような力の行使をしているだろうか?それは、既存の未来を破壊する秩序や権力の再彫刻へとつながっていないだろう?もしつながっているのであれば、そうまでしてなぜそれが必要だと自身が納得しているのか?

問うことなき実践は未来の犠牲と引き換えに成り立っていることを、胸に止めなければならない。

原文:デザインによる統治と持続可能な未来: Design as politicsを読んで