デザインをめぐる往復書簡 #5 「山本郁也 → 川地真史」

山本郁也から川地真史へ

川地真史様

長野ではこの時期には珍しく、雨がしんしんと降っております。
東京で暮らしていたときは、雨について前向きに捉えることがなかなかできませんでしたが、自然の中にいると、水によって山や木々が喜んでいるようにも見え、雨も悪くないと思うことができます。

さて、様々な観点から意見をいただきましたが、すべてに丁寧に答えようとすると、何万文字あっても足りませんので、あえてシンプルにまとめた上で、お返事したいと思います。

川地くんが語ってくれたことは、つまり、哲学の問題だと思います。「神」の問題はニーチェが、「欲望」の問題はコジェーヴが、「見る/見られる」の問題はラカンが、それぞれの文脈の中で語って来ました。

かと言って、川地くんの話が、当たり前で古くさい話というわけではありません。なぜなら、その問題について明確な答えはまだ見つかっていないからです。だからぼくらはその──いわゆるポストモダンの──問題を常に思い出し、受け止め、考え直し、答えを探そうとしなければなりません。そして、それがこの往復書簡の使命のような気もしています。

同じように、この時代で悩む哲学者は海外にたくさん存在しています。最近ですと、カンタン・メイヤスーやマルクス・ガブリエルあたりが有名でしょうか。「思弁的実在論」や「実在論的転回」など、様々な提案をしていますが、まだ否定的な意見が多いのも現実です。

そんな哲学者たちが毎日必死に考えても、世界を納得させる結論を出せていないような問題です。ぼくのようなちっぽけなデザイナーが答えを出すには相当な困難があります。ですが、それでも、ぼくにも考えていることがあります。そのお話をしようと思います。

前回ぼくは、「自然」のような「大いなる力」についてお話をしました。それはつまり、「宗教性」の話です。ですが、ぼくは、みんな神に祈ろうとか、そういうことを言いたいわけではありません。なぜなら、現代において(特に日本人において)「神」は、大変抽象的で遠い存在であるからです。元々信仰深い人であれば実感することができるかもしれませんが、普通の人には、ちょっとやそっとでは、とても実感することができない。

いや、論理的には、いまの時代には「神」が必要だと思うのです。「神」の存在を実感し、それを「内なる光」として発現し、それによって自分自身の中で「見る/見られる」の関係性を構築する。それが、人間的な醜い「欲望」を抑圧し、死者や遥かなる未来について想像することを可能にする。

では、人はみな田舎に引っ越し、自然の大切さを改めて学び、体内に宗教性を取り込めば良いのかと言うと、そんなことはありません。それはさすがに非現実的な話ですし、もしそうなったとしても、今度は宗教上の対立が起こるかもしれません。

ではどうしたら良いのか。

ぼくは、結局のところ、一人ひとりの人間が「美しい人生」を過ごそうと心掛けるしかないと思うのです。そして、「美しい人生」を過ごそうとする人を、時間をかけて、一人ずつ、しっかりと増やすしかないと思うのです。それがほんの少しずつ、世界の傾きを直していくのだろう、と。

では、「美しい人生」とは何か。ぼくは、「親に誇れ、子に誇れる人生」と考えています。もっと丁寧に言えば、先人たちの積み上げてきたこれまでの歴史を敬い、そして、明るく豊かな未来を信じることができる、「過去に感謝し、未来を願う生き方」といったところでしょうか。

その生き方のためには、そもそも、過去や未来について考える「想像力」が必要です。その想像力がなければ、人は「今」のことしか考えなくなります。たとえば、「今」は資本主義の時代です。「今」のことだけを考えるのであれば、黙って資本主義にコミットしていればいい。

ですが、それでは近い未来、ぼくらは存在しなかったことになってしまうでしょう。
誰もが「今」のことしか考えなくなれば、未来の人も、自分たちの「今」のことしか考えず、過去に感謝することはありません。だからもちろん、ぼくらが積み上げた歴史について思い出すこともありません。
歴史を振り返り、過去に学ぶことがないのだから、同じことを繰り返し、失敗し続けることでしょう。そんな世界が、良い世界であるはずがありません。

詩人エリオットは言いました。「未来の時は過去の中にある」と。だからぼくたちは、過去や未来について考える「想像力」を、もっと高めなければいけない。

想像力のための活動は、たくさんあります。例えば、本を読んだり、映画を観たり、舞台を観たり、音楽を聴いたり、お墓参りに行ったり、旅行に行ったり。
しかし、それだけでは足りません。それだけで良いのであれば、みんなとっくにやっています。

だから、ただ体験するだけでなく、想像を現実に引き寄せる作業が必要になります。それは、想像上の喜びや痛みを、現実の自分の中に取り込むということです。想像の世界を主体的にロールプレイし、あたかも現実で起きたことかのように体内にインストールすることで、「想像」と「現実」を混ぜ合わせることが重要なのです。

唐突に感じるかもしれませんが、ぼくは、「ゲーム」にその可能性を感じています。

デザイナーと名のつく職業の中で、資本主義の中にいながらも、自分たちの作りたいものを信じ、あらゆるジャンルを横断し、想像力を高めるコンテンツを制作し続けている人たち、それが「ゲームデザイナー」です。

ゲームの世界は基本的に、架空の世界、虚構の世界、想像力の世界です。ゲームデザイナーの想像力によって生み出された、「あり得た(る)かもしれない世界」の物語です。

そして、「あり得た(る)かもしれない世界」とはつまり、過去や未来の世界の可能性のことです。
その、世界の可能性について考えるゲームデザイナーの能力こそが、まさにぼくがいまの世界に必要だと思っている「想像力」そのものなのです。

「こんな世界があり得たかもしれない」、「こんな世界があり得るかもしれない」。この「想像力」を身につけることができれば、人は今を生きながらも、過去と未来を行き来し、様々な世界の形についてイメージすることができるようになる。そうすれば人はきっと、「過去に感謝し、未来を願う生き方」ができるようになる。

たとえば、世界にはたくさんのロールプレイングゲームがあります。
昔であれば「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」が代表的ですが、最近は「Undertale」のような、優しさや憐れみについて考えさせられるゲームや、「YIIK: A Postmodern RPG」のような、まさにポストモダンをテーマとするゲームなど、想像力を掻き立てる様々なインディーゲームもたくさん誕生しています。
また、広い意味でのロールプレイングゲームとしては、「MyChild:Lebensborn」のような、ナチス・ドイツについて思い出させるスマートフォン向けのゲームもあります。

もちろんゲームにもいろいろあります。ソーシャルゲームもあれば、PUBGに代表されるようなバトルロワイヤル系もありますし、昨今話題のesportsもあります。
そういった中ではやや下火なジャンルかもしれませんが、ぼくは、「ロールプレイングゲーム」の可能性に、少しの希望を抱いています。(広い意味にすれば、あらゆるゲームがロールプレイングゲームとも言えますが。)

たかがゲームと思われるかもしれませんが、ぼくはここに、ビジネスの中にありながらも、ビジネスを越えて、人々の想像力を高める「デザイン」の可能性を見出そうとしています。

また、ぼくがここで言う「想像力」は、必ずしも理想の世界のイメージだけを指しません。「Fallout」や「Chernobyl VR Project」から考える、最悪な世界だって構いません。むしろ、そういったゲームによって育まれる「危機感」こそが──来たるべき世界のイメージのために──必要だとも思います。

実は、これに近い議論は10年ほど前にもありました。(批評家の東浩紀さんが、「ゲーム的リアリズムの誕生」という本の中で、すでに語っています。)
しかし、ゲームエンジンが進化してインディーゲームの開発環境が整ったことや、VRのような技術の進化などによって、新たなゲームが次々に登場するいまの時代だからこそ、再考する価値があるのではないかと思うのです。

「Design & Justice」の話もそうだと思いますが、話を聞いて頭で理解するだけでなく、それを「実感」としてどう体内に取り込むのかが肝心です。川地くんは原研哉さんの言葉を紹介してくれましたが、それこそ、「どうやって欲望をエデュケーションするのか」が重要だと思うのです。
そのための一つの方法として、ぼくは、「ゲーム──あるいは、ゲーム的」というものについて考えてみたいと思っています。

そして、薄々気づいているかもしれませんが、これは、ジャック・デリダの思想へのオマージュです。ぼくはデリダを、「想像力」の哲学者だと思っているのです。

気がついたら、早くも今年の一ヶ月が経過してしまいました。
新年早々、慌ただしく過ごしてしまった自分を少し反省しています。余裕がないのはいけませんね。

返事が遅くなってしまい、申し訳ありません。川地くんもお忙しいことでしょうから、慌てて返事を書く必要はありません。余裕ができたときに、またフィンランドのことを教えてください。

日本ではインフルエンザが猛威を奮っています。
川地くんもどうか病気にはお気をつけて。

山本 郁也