デザインをめぐる往復書簡 #6

川地真史から山本郁也へ

山本郁也様

修論と授業に追われてすっかりお返事が遅くなってしまいました…いかがお過ごしでしょうか?今年のフィンランドは暖冬ということもあり、こちらは徐々に雪が溶け、大地が顔を出し始めています。寒かったのが今はもう嘘のようで、最近は太陽が以前より顔を見せるようになり、嬉しい限りです。

お返事で、ポストモダンを乗り越えるための「美しい──過去に感謝し、未来を願う──生き方」、それに必要な過去や未来の可能性に思いを巡らせるための「想像力」をキーワードにあげてもらいました。
この往復書簡の根っこにある、デザインはビジネスを超えられるのか、またデザインはどのような可能性があるのか、という問い。その1つの鍵がまさに想像力だと感じます。今回は少しそれを広げつつ、この時代のデザイン観のひとつとして提示したいと思います。

こちらに来てから、まさに想像力や未来を考えることについて強く意識するようになりました。フィンランドのデザインの展示で、”Utopia”や”Future”といった言葉がよく用いられることに驚いたり、Futuristという肩書きを度々目にしたり、何十年後かの起こりうる未来を描くシナリオワークが盛んに行われたりしています。以前メッセ上でやりとりした、放射性廃棄物の処理場であるフィンランドのオンカロ。この場所の危険性を──人類、その他の生命体、あらゆる可能性を孕む──”10万年後の誰か”に知らせるための伝承プロジェクトは、その中でも象徴的な事例です。

デザインとは本来、未来に投企していくものでした。それは「いまここにないものに、まなざしを向ける」という営みから始まったはずです。しかし、いつの間にかその射程は近視眼的になってきています。そこで、今目前の現実のみに固定化されたまなざしや身体を、壊し、再構築する作業が求められます。

例えば、自分の行為の結果に思いを巡らす想像力。デザイナーにとっては、自己の介入がどのような倫理的、社会的、政治的な影響を生み出しうるのかを想像する力が必要です。または、自分とは異なる他者への想像力。異なる他者は異なる世界に住んでいます、でもそれもまた、自分にとっての世界であったかもしれない可能性があります。

では、結局そうした想像力をいかに育むのか?という答えで、ゲームと述べていただきました。実感を体内にインストールする、というのは積極的な介入行為が求められます。この点でゲームは、まさに現実では起こりえない世界を経験可能にする媒体です。

昨年末に、ゲーム”的”なインタラクティブメディアとしてBlack mirror: Bandersnatchが話題になりましたが、ぼくは、物語中のとある選択肢で自分が死ぬか、他者が死ぬかで、他者を選択してしまったんですね。この選択に与えられるのは10秒程度、最後はえいやで決めましたが、生々しい音響と共に言葉にできない感覚が走ったことは未だに身体が覚えています。虚構の世界での「自分の選択」が現実の身体に影響するのだと、強く感じた瞬間でした。

まさにこうした「選択」により体内に取り込みつつ、「選択肢」により物語が分岐することで、あらゆる物語の可能性が存在している、とプレイヤーは意識するのだと思います。また、フィクションのキャラクターに自身を投影することで、自分以外の”誰か”の視点で世界を経験することも容易にできてしまう。余談ですが、北欧はLARPという現実世界でのロールプレイングの発祥の土地だそうで、文字通り身体に異なる他者を同期させる形でのゲームが、一部の間で人気を誇っていると最近友人に聞きました。

このようにゲームは、あり得るだろう世界や、他者の世界を含めた、今ここにないものへの想像力を育む方法の一つだと同感です。では、これを例えばデザイナーの活動にどう接続できるのか、少し限定的な話になりますが考えてみたいと思います。

ぼくは上記に加えて、初回でも述べたエンパワメントという観点に着目してゲームを見ています。最初にゲームに興味をもったきっかけは、北欧でよく用いられる「デザインゲーム」というツールでした。多様な人々とデザインをしていく際の活動をゲーム化し、一定のルールの下、ゲームボードやカード、小道具を使い、デザインを開いていくための橋渡しのツールです。例えば、ヘルシンキでは市民参加の場でもよく利用されています。

このデザインゲームで重要視されているのは、ゲーム化することで当事者のインタラクションを促したり、ゲームの”ルール”という性質により今まで声を持たなかった人も(ルールの前で)平等に参加できる、という観点です。一方、いわゆるゲームならではのフィクション性はあまり見られません。
虚構世界を作り上げるバーチャルゲームは、プレイヤーにあらゆる可能世界の経験を促します。しかし、解像度の高いゲームは、自分で世界の情景を想像する余白自体は、小説などの媒体に比べて少ないかもしれません。

では、そうしたゲームが持つ虚構性や可能世界での選択行為と、デザインゲーム的な共創の促進・低解像度による想像の余白を統合すれば、プロセスを通じて人々の想像力を刺激し、自身で望ましい社会を描く創造力の解放へつながるのではないか。こんなことを、研究テーマとして探求しています。

と、想像力とエンパワメントをつなげつつ、人々の「想像力」と「創造力」の解放を志すデザインについて述べさせてもらいました。というのも郁也さんのおっしゃった、今へのコミットメント、というのはデザインとは問題解決である、という言葉で片付けられていることが1つの理由ではないかと感じているからです。往復書簡の初回で、「Pro(前へ) – Ject(投げる)」というお話がありましたが、そうした認識も言説もほぼ見られないのが現状です。また、人がデザインを創り、デザインが人を創ってきたように、人や社会と共にデザインのあり方も変わっていきます。

では、この時代のデザインの思想とは何であり得るのか。近年、デザインは意匠から問題解決へ、と語られます。一方で、そうした意味性が、デザインは目の前の問題へとコミットせざるを得ない状況を作り上げているのかもしれません。しかし「今の現実」だけを見て介入を続けても、今の現実を強化する欲望をかきたてるだけなのであれば、異なるデザイン観は「欲望のエデュケーション」と論じてきたように、いかにして望ましい社会に向かうための欲望を形作れるのか、が重要になります。

勿論、問題解決としてのデザインはいつの時代も必要で存在し続けるでしょう。しかし、複雑極まるWicked Problemに向き合うときに、問題が解決する、ということがそもそも可能なのか。そうした意識から一旦離れることに、新たなデザインの可能性が眠っているのではないか、と最近思います。問題解決という言葉には、綺麗にすっきり丸く収まるという暗黙の了解が内包されている気がしてなりません。べてるの家に端を発する「当事者研究」では、とある主体が問題を解決するのではなく、その複雑性を受け入れ、どう問題に寄り添い生きて行くのか、という視点の転換があります。これは、根底から人と問題の関係性を再構築することであり、問題解決という言葉のもつイメージからは導かれない視点でもあります。

ぼくが今探求しているEmpitnessを思想とするデザインも、こうした意識から導かれるひとつのデザインの可能性なのかもしれません。それは空っぽな器を用意し、相互依存を通じて己々が成長し解放されることを促すデザイン観です。すこし茶道の世界観に近しいかもしれませんね。
人は空っぽだからこそ、埋めたくなる。空っぽだからこそ、自身で想像する。まだ訪れていない未来そのものも、“空っぽな時間”として捉えられることで、一層の想像の余白が生み出される。人々がそこに身体とあらゆる想像を投げ込みながら、多様なアクターが互いに互いを生成しつづけ、不可知な未来へと進んでいく。その過程を通して、過去に感謝し未来を願うことの後押しをする。

そうした舞台を創ることが、問題解決とビジネスの枠組みのみに縛られず、デザインが未来に繋がる欲望への媒介と機能することに繋がるのではないか、と。問題解決という言葉から離れて別の意味を付与してあげなければ、ビジネスを超えることはできないのではないでしょうか。この時代の新たなデザインの思想が求めらていると感じます。

留学生活も半年が経ち、最近は恐ろしく早く時間が過ぎていきます。慣れというのは良くも悪くもあるなあと、つくづく感じます。
日本では、桜の開花が近づいていますね。フィンランドでは紅葉こそ見られたものの、お花見は期待できないので、お返事にて長野の桜を楽しみにしています。

川地真史