山本郁也から川地真史へ

川地真史様

コシアブラにコゴミにタラノメに、山菜が食卓を彩る季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。
すっかり返信が遅くなってしまって、大変申し訳ありません。寒い冬を越え、暖かくなってきたことに喜び、ついウトウトしてしまっていたようです。という冗談は置いておいて、少し忙しくしてしまっておりました。

長野では桜が咲くのも遅く、4月の終わりに満開になったかと思ったら、直後の雨にさらされてすぐに散ってしまいました。ですが、いまでは桜に代わって花桃が町を飾ってくれており、桜に負けじと大変綺麗な姿を見せてくれています。

つい最近まで末枯れていた山々も一瞬にして新緑に輝き、毎日嬉しそうな表情をしています。ぼくの暮らす地域は、いまがいちばんいい季節かもしれません。いつか遊びに来てくださいね。

さて、デザインの話をしましょうか。

フィンランドでは「Utopia」や「Future」という言葉がよく用いられるとのこと、大変興味深い話です。また、「Futurist」という肩書きも、フィンランドのデザイナーの視力の高さがわかる、大変良い肩書きですね。
「Utopia」や「Future」なんて、日本で真顔で言ったら笑われてしまいそうなキーワードです。「Utopia」や「Future」というのは、かんたんに言えば「夢」の話です。夢を笑うなんて、とても寂しいことですよね。

ぼくは、デザイナーはロマンチストであるべきだと思うのです。デザイナーのミッションが「投企(来たるべき未来へのコミット)」であるならば、デザインのターゲットは、まだ見ぬ未来の子どもたちであるべきです。しかしそれを実行するためには、ビジネスの論理の外側に出ていく必要があります。なぜなら、まだ見ぬ未来の子どもたちへの投資の費用対効果を出すことなんて、不可能だからです。

たとえば、(3回目のお手紙でも話しましたが、)ボイジャー号のゴールデンレコードは、ロマン以外の何者でもありません。存在するかどうかもわからない地球外知的生命体に対して、地球の情報を積んだレコードを飛ばす。ビジネスの論理だけで考えていたら絶対にできないことです。でも昔はそれができた。一体なぜでしょうか。
それは、「夢」を見ることが素晴らしいとされていた時代だったからでしょう。誰もが明るい未来を信じ、宗教的なもの、空想的なもの、神話的なもの、幻想的なものとの出会い、つまり、「夢との遭遇」を期待していた。
しかし時が経ち、ぼくらがようやく出会えたものは、そのときの夢とはまったく違うものでした。

テクノロジーが進化し、世界中の多くのことが数字として可視化され、すべては数字とエンジニアリングで効率よく解決できると思われてしまいました。夢を追いかけた末にぼくらが出会ったもの、それは、「スコア」だったのでしょう。
その結果、スコアとして評価できないことは優先順位を下げられてしまうということが、あらゆる事業の中で起きています。
先ほど言った通り、ロマンを数字化することなんてできません。だからもちろん、ロマンの優先順位は限りなく低いものになります。ロマンが墜落した時代(=スコアの時代)、これがいまの時代だと思うのです。

ぼくが「想像力」が必要といったのは、もちろん、この「ロマン」を取り戻すためです。ロマンを失ったデザイナーを、デザイナーと呼びたくないのです。ビジネスへの貢献でしか自身を正当化できないのであれば、それはデザイナーではなく、「デザインビジネスの担当者」だと思うのです。

川地くんが言ってくれた、「問題解決という言葉には、綺麗にすっきり丸く収まるという暗黙の了解が内包されている気がしてなりません。」という言葉、まったくそのとおりだと思いました。ぼくはこの「問題解決」という言葉がとても苦手です。
デザインのミッションは来たるべき未来へのコミットです。そのためであれば、問題解決だって、問題提起だってするでしょう。発明だって、修復だってするでしょう。うまく整えることだって、あえてズレを作ることだってするでしょう。デザインの可能性は、問題解決だけではないはずです。

「デザイン=問題解決」という表現は、確かにわかりやすく自分を世界に位置づけられます。しかし、それによって、デザインが問題解決に閉じ込められてしまっているとも言えるでしょう。川地くんの言う通り、いまデザインに必要なことは、問題解決という束縛からの解放だと思うのです。デザインには、もっとたくさんのことができる。デザインは、もっと夢を見ていい。

ぼくが敬愛するデザイナーであるバックミンスター・フラーは、自分のことを「Comprehensive Designer(包括的デザイナー)」と表現しました。そして自身の考えた方法を「デザイン・サイエンス」と名付け、それによって世界の資源をすべての人々に平等に分配できる、さらには、戦争をなくせると主張しました。
ぼくは、フラーのこの高い視力こそが、デザイナーの可能性だと思うのです。しかし、ビジネスや問題解決といった言葉に取り憑かれたままでは、いつまで経ってもこの域にはたどり着けないでしょう。

ぼくは正直、ぼくが生きているこの時代にデザインがビジネスを越えていくことはないんじゃないかと思っています。そんなにかんたんなことではないからです。
いまこのテクストを読んでくれている人のうちの誰かの何かが少し変わって、その子どもがその影響を受けて、100年後くらいに、もしかしたら世界の何かが変わるかもしれない。そんな可能性に賭けることしかできないと思っています。でもそれでいいのです。これがぼくなりの、ロマンの実践なのです。
これははっきり言って敗北主義です。でもぼくは田舎に暮らすちっぽけな活動家です。こういったことを少しずつやっていくことしかできないのです。

「Futurist」、この肩書きをユートピア主義者として批判する人もいるかもしれませんが、ぼくは断固として支持したい肩書きです。いや、批判する人の気持ちもわからなくはありません。ぼくも資本主義の現実の中で生きるデザイナーの一人ですから。でも、未来を夢見れなくなったら、人は終わりだと思うのです。

少なくともぼくは、「Design Futurist」でありたいと思いました。でも一人だとちょっと寂しいので、川地くんもお願いしますね。

長くなってしまったので、今回はこの辺りで終わりにします。デザインゲームのことについてなど、せっかく紹介してくれたのに触れられなくてごめんなさい。久しぶりに手紙を書いているということもあってか、言いたいことを言ってしまいました。それになんだか、同じことを何回も言っているだけのような気もします。ぼくはきっと、ずっと、同じことばかりを考えているのでしょうね。

最後に、フラーの言葉を紹介します。ぼくがとても大切にしている言葉の一つです。

“We are called to be architects of the future, not its victims. “
– R. Buckminster Fuller

山本 郁也