デザインをめぐる往復書簡 #3 「山本郁也 → 川地真史」

山本郁也から川地真史へ

川地真史様

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

こちらは暖冬と言われていますが、それでも毎日厳しい寒さが続いています。
川地くんは、いかがお過ごしでしょうか。

さて、せっかくご質問いただいたので、「デザインを開く」ということについて、ぼくなりの考えをお答えをしようかと思います。
デザインを「開く」ということは、つまり、「いま、デザインは閉じている」ということになります。前回ぼくが言ったように、誰もが日々デザインをしているし、これまでもデザインをして来たはずです。そのデザインがいま「閉じている」、これがまず、大変な問題だと思います。

では、なぜデザインは閉じてしまったのか。それは紛れもなく、デザイナーの仕業でしょう。デザイナーによりデザインは特権化され、一般市民から切り離されてしまった。それは、ウィリアム・モリスのように、美しきデザインの面影を取り戻すためだったのかもしれません。しかし、「デザイナー」という肩書きが生まれた瞬間に、デザインの特権化はどうしても始まってしまうのだと思います。

とはいえ、デザインに専門性を持つことは、一概に悪だとは言えません。なぜなら、日々何気なくデザインをしているがどうもうまくいかない、そんな人もたくさんいるはずだからです。デザイナーにそういった人々のサポートができるとしたら、専門家としてのデザイナーにも存在意義はあるはずです。いや、むしろ、専門家としてのデザイナーの存在意義はそこにしかないとも言えるでしょう。

人々の可能性のサポート、それがデザイナーの仕事だとすると、川地くんの言うとおり「祈り」のようなものも必要になることでしょう。人々の可能性をまず心から信じること、それ無しに「Empower」は成立しませんし、デザインも成立しないと思います。

ぼくはデザインについて語るときによく「ボイジャー号」の話をするのですが、あれは紛れもなく「祈り」の結晶です。まだ見ぬ地球外知的生命体に届くと信じて、地球からのメッセージを積んだレコードを宇宙に飛ばす。そこに合理的な理由などなかったと思います。
「きっと誰かがいるはず」「きっと受け取ってくれるはず」「きっとできるはず」。その「きっと~はず」こそが、可能性を信じるということであり、デザインの祈りであり、夢だと思うのです。だからデザイナーはもっと、「きっと」と「はず」について考えなくてはいけない。

しかし、ここで、ふと残念なことに気づきます。「可能性を心から信じるデザイン」、それができているデザイナーが、果たしてどれだけいることでしょうか。

いま世の中は、行動経済学の知識によってデザインされた環境(コンテクスト)に包まれています。なぜなら、それはビジネスや資本主義と非常に相性がいいからです。しかし、多くの消費者はそのことに気づいてすらいません。なぜなら、「デザインされた環境」は“非”デザイナーである消費者には大変認識しづらいからです。
これはフィルターバブル同様に、とてもむずかしい問題です。実はビジネスの都合の良いように環境がデザインされている、しかし、消費者はそれに気づくことができない。さらに言えば、それをデザインしているデザイナー自身も無自覚なことが多い。このことからも、デザインを「開く」ことは、社会にとって重要な作業になると思います。

ボイジャー号にコンテクストはありません。ただ信じて投げるだけです。それは大変美しい。しかし、それではビジネスはできない。ビジネスができなければ、デザイナーは生きていけない。だからデザイナーは、デザインをビジネスにするために、ビジネスに迎合し、行動経済学を頼ってしまう。これではいつまで経ってもデザインは開かれません。

ただ、事態をさらに難しくしている要素がもう一つあります。それは、行動経済学とデザイナーの出会いを、ぼくたちは安易に否定できないということです。なぜなら、松岡正剛氏が指摘する通り、デザインは元々、何かをごまかしたり、誰かを騙したり、詐術や呪術のテクニックのために使われて来たという歴史を持っているからです。デザイナーはそもそも人々の可能性をサポートする正義の使いなどではないのです。それどころか、人々を騙すプロフェッショナルなのです。

川地くんの紹介してくれたフィンランドのデザイナーTapio Wirkkalaの、「自然と通じ合う身体経験から霊的なものを具現化するシャーマン」という言葉の通り、デザイナーはまさに呪術師なのでしょう。

デザインと資本主義の関係を考えるためには、まずそこからスタートしなくてはならないと思っています。まず、デザイナーたちが、自分たちの持つ闇の力について自覚すること、そして、デザイナーはそもそもそういう存在なのだと受け入れること。そこがデザインについて考えるスタートだと思うのです。無闇に自分たちを正当化してはいけません。

さらに言えば、デザイナーは人々の内側にアクセスしEmpowerする以前に、まず自分たちの──ラルフ・ワルド・エマソンの好む言葉を借りれば──「内なる光」を発見しないといけません。内なる光を見つけ、その灯火を絶やさないこと、それなしにEmpowerは語れないと思うのです。
人々をEmpowerするデザイナーの正義は、デザイナーの内なる光をもって、デザイナー自身が、証明し続けなければなりません。それができないのであれば、デザイナーは、行動経済学の知識によって売上のためにひたすら人々をコントロールする、資本主義の悪魔になってしまうことでしょう。

ぼくは、その「内なる光」のために、「自然」が力を貸してくれると考えています。デザイン可能なプロダクトやサービスやビジネスではなく、デザイン不可能な大いなる存在を目の前にして、ようやく人は考えるのだと思います。「自分たちは本当に正しいのだろうか」と。

フィンランドのデザイナーたちはどうでしょうか。
内なる光を持っていますか?

極寒の候、お元気でお過ごしください。
おだやかな一年となりますよう、心より願っております。

山本郁也