デザインをめぐる往復書簡 #2

川地真史から山本郁也へ

山本郁也様

ここフィンランド・ヘルシンキでも、冬が本格的に始まりつつあります。9時にようやく陽が昇ったと思えば15時には沈んでしまうことに加え、灰色の雪雲が常に空を覆っています。もう何日太陽を見ていないことでしょう。これは本当に寒さよりよっぽど厄介で、こちらの人ですら、慣れることはないと言います。

実は早くも、なんてお返ししようと、すごく悩んでしまいました。ぼくも縁を感じていた一方で、尊敬する郁也さんとデザインについて語り合おうと言うのですから、緊張しないわけにはいきません。

デザインという言葉が広がっている一方で、そこに内包される意味や向き合い方の混沌はこれからも続いていくのでしょう。
デザインとは何か、どう向き合っていけば良いのか、そうした問いへの断片的な思想を、ゆるやかに紡いでいければ幸いです。
また、「専門性としてのデザインをどう捉えるのか」というお話もありましたが、これはまさにフィンランドに来てから考えずにはいれらないテーマです。

アールト大学に来て学んでいるのは、大雑把に言うとデザインを「開く」ことです。人は誰しも、毎日の中で生きるためにデザインをしています。ご飯を食べ、人と話し、仕事をしながら、自身で生活を形づくっている。そんな生きることと切り離せない活動が、デザインです。
デザインはデザイナーの専売特許のようになってしまっていますが、そのデザインによって影響を受けるのは、“非”デザイナーの生活者です。ですから、そのデザインが生活者に対して悪影響を及ぼすこともある。郁也さんが随分前にお話しされていたように、意図せずともデザインが間接的に人を殺すこともあり得ると思います。

その当事者である生活者が、声をもたないのは果たしてどうか。そうした偏ったパワーバランスへの課題意識が、少々ポリティカルな問題意識にも繋がり、フィンランドでは、生活者を単なるデザインの受給者ではなく、共にデザインするパートナーとみなしていくという、視点の再設定が行われています。

この「開く」根底には、ある種の信心、「祈り」があるのではないかと感じています。人は、生まれながらにして力強く脈々とした感性、生命力をもっているのだと信じること、そこから「開く」デザインが始まっているのではないか、と。
フィンランドデザインのディスコースの中では、「Empower」することがデザイナーの役割になる、と説かれています。「Em(入り込む / 供給する)-power(秘めた力)」つまり、個々が本来持つ内的な可能性にアクセスし芽吹かせていくのがデザイナーの仕事になるのではないか、という意見です。
こうした考え方は、フィンランドが長らく他国の支配下にあった歴史が強く影響していて、それが、個人の力の重要性や平等性といった価値観を生み出し、デザインにも接続されているのだと思います。こうした、デザインを「開く」ことに対してのお考えも、お伺いしたいです。
久保田晃弘さんの著書「遥かなる他者のためのデザイン」の中にある、“デザインとは、遠くへ行くための道をつくる”という表現が個人的にとても好きなのですが、これは上記とも重なりますし、またフルッサーの「Pro-Ject」とも通ずるところがあるのでは、とぼんやりと感じています。

finland

また、「草木国土悉皆成仏」、まさに長野とフィンランドで自然と共に生きているからこそより考えられるテーマですよね。フィンランドはキリスト教が布教される数百年前までアニミズム的信仰を持っていた国だったようですが、フィンランドの神話の中にある「全てに精霊が宿っている」という一文を見てとても納得しました(ちなみにサウナ発祥の地だけあり、サウナにもきちんと精霊が存在します)。

森や湖が日常に溶け込んでいるというだけでなく、冒頭のように気候による影響もあり一日一日の景色が常に移ろい、それが自分の感情に作用していると全身で感じられる環境だからでしょうか。寒く、陽のない冬をどう心地よくすごせるのか、恵の太陽を全身に浴びられる貴重な短い夏をどう楽しむのか。そうしたアーキテクチャの中で生活を作りながら生きるこちらの人々と話していると、自然を受け入れ、自然を崇拝し、自然に生かされている、ということを強く感じます。

ヘルシンキでは、近年のスマートツーリズムの流れもあり、地下鉄を拡張し、従来の主な交通手段であったバスの路線を減らしました。ただ、ぼくの友人は「地下鉄では外の眺めが見えなくなるから、地下鉄から離れてしまった」と話しており、都市部に住む人々ですら効率化に支配されず、自然との向き合い方を保ち続けていることに非常に驚きました。フィンランドでは、こうした自然崇拝や、霊的精神とデザインが密接に結びついています。
フィンランドデザインの雄Tapio Wirkkalaはデザイナーを、「自然と通じ合う身体経験から霊的なものを具現化するシャーマン」と喩えています(しかもTapioという名はフィンランド東部の神話では「森の精霊」を指すのです!)。ただ、デジタル化やサービス化といった波により、デザインが物質性から逸脱していくことが、この自然と結びついたデザイン観にどう影響が出てくるのか、気になるところです。

資本主義への向き合い方、この国のあり方を見て行くためには、もう少し時間がかかりそうですが、少しずつ理解を深めていきたいと思います。

はやいもので既に年の瀬、ぼくは冬季休暇を利用してアウシュヴィッツを訪問してこようと思います。今年も一年お世話になりました。良いお年をお過ごしくださいませ。

川地真史