デザインをめぐる往復書簡 #1 「山本郁也 → 川地真史」

山本郁也から川地真史へ

川地真史様

長野はだんだんと寒くなり、朝の気温はすでにマイナス、チラホラと白いものも見えるようになってきました。
フィンランドはいかがでしょうか?大変寒い地域でしょうから、こんなものではないのかもしれませんね。

ほぼ同時期に、ぼくは長野へ、川地くんはフィンランドへ、それぞれ東京を脱出したことに、ちょっとした縁を感じています。きっとお互いに、東京でデザインをすることの限界に直面したのだろうと思います。しかし、それは、決して東京が悪いというわけではありません。ただ、ぼくらが心の中に持つ器の形が、少し東京と合わなかっただけなのでしょう。多少の孤独も感じます。

でも、だからこそ語り合うことができるものがあるとも思っています。だから、そんな者同士で、(孤独を埋め合うように、)少しデザインについてお話したい。そう思ってこの文章を書いています。

いまの時代、「デザイン」という言葉はすっかり手垢にまみれてしまいました。しかし、それでも、ボルヘスが「神の署名」と表現したように、「デザイン」という言葉の中に、どうしても何か神聖なものを感じてしまう、どうしても何かを期待せずにはいられない、そんな力を感じる言葉であることもまた事実です。結局ぼくたちは、汚れながらもなお輝く、「デザイン」という言葉の持つその魅力、いや、魔力に取り憑かれているのでしょう。

デザインは誰のものでもありません。しかし同時に、誰のものでもあります。誰もが日々デザインをしているし、これまでもデザインをして来ました。その誰のものでもないはずのものに、専門性を持とうとしてしまうことが、すでに過ちなのではないかと思うこともあります。デザインの道は、懺悔の道なのかもしれません。

さて、フィンランドのデザインや、アールト大学はいかがでしょうか。日本よりも「共創」や「市民参加」の文化が強いということはよく耳にしますが、本当のところはどうなのでしょうか。
また、先日の川地くんのこのツイート、とても気になりました。このツイートを見て、いつの間にかアニミズムを日本の特権のように思ってしまっていた自分に気づき、大変反省しました。

日本には、いわゆる「草木国土悉皆成仏」という文化がありますが、フィンランドにも同じような文化があるとしたら、そしてその文化が今もなお色濃く残っているとしたら、フィンランドこそが、日本がなりたかった日本なのではないか、と、ちょっと飛躍させて考えることもできるかもしれません。

草木国土悉皆成仏の文化を、東京ではあまり感じることはありませんでしたが、長野の山中に居ると強く感じます。ぼくの住む町の人の多くは、山や川の神様を自然と崇拝し、それに対して何の疑問も抱いていません。見事なまでに、自然というアーキテクチャによって、町や人がデザインされていると感じます。フィンランドにもそういった自然崇拝の文化はあるのでしょうか。

nagano

知っての通り、デザインは「De-Sign」、つまり、「署名を脱する」という意味です。そして、「脱」という言葉には、「前方へ抜けて出る」という意味があります。「De」を抱くその名の通り、デザインは常に、──フルッサー的に言えば、──「Pro(前へ) – Ject(投げる)」しなければなりません。

そのような使命を引き受けるデザインも、日本とフィンランドでは、共通点もあれば、違いもあることでしょう。資本主義への向き合い方なんかも違うかもしれませんね。

この時代のデザインとは何なのか。そして、この時代にデザインの中で生きるぼくたちの役割とは何なのか。川地くんとのやり取りを通じて、少しでも炙り出せたらと思っています。

孔子は「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」と言いました。せっかくお互い自然の中にいるのだから、ぼくたちも、胸中に山水を抱きながら、デザインについて語り合えたらと思います。

寒くなってきましたので、どうかお体には気をつけて。
それでは。

山本 郁也