デザインをめぐる往復書簡 #4

川地真史から山本郁也へ

山本郁也様

明けましておめでとうございます。
こちらは冬至を超え、陽が伸びつつありますが、相変わらずの雪模様です。樹木には雪の桜が咲いています。長野も写真から伺うに、非常に寒そうですね。

少しお返事が遅れてしまいました、質問へのご回答ありがとうございます。
なぜ今デザインが「閉じている」のか、という鋭い問い。デザイナーという言葉の誕生と共に「デザイナー/非デザイナー」という区分ができ専門主義を助長した一方、その言葉なしではデザインが領域として発達してこなかったとも感じます。

さて、このやり取りの主旨でもあるデザインとビジネスの関係性。それにはまずデザインの闇の性質への自覚から始まるというご指摘でした。この力と共に、デザイナーは資本主義の構造内で立ち回る。その際に、自身を律するための内なる光が必要である。その自身との批評的な対話の契機となるのが「自然」という理解を超えた超越的な存在=神性と対峙すること、でした。

このお話をうーんと唸りながら考え、行き着いたのは「欲望」というキーワードでした。現代では物質への欲望が飽和しつつあり、経験的なものや感情的なものに対する欲望へと移行したと言われます。その背景には一人ひとりが自分らしくあることを求める支配的な物語があると感じます。

”自分らしく”生きることを求められる一方で、唯一無二の自分らしさなど存在しえないため、手が届くことはない。その距離から生じる不安、自己を見出したい欲望を、デザインは汲み取り、具現化し、増幅し、ビジネスに向け変換します。

その力を自覚すべきという指摘は、その前提にある無自覚を示唆しています。なぜか?それは、デザイナーが盲目的にデザインは「良いもの」であるという前提に立っているから。あるいは、良いものであると信じたい、という表現が適切なのかもしれません。これは冒頭の専門主義とも繋がります。自分が専門として携わるデザインとは良いものであって欲しい。昨今のデザインという言葉の波及は、その欲望に一層の社会的承認をもたらしています。

ここで、個人的なものですが、ぼく自身の欲望を内観した考えを書いておきます。デザインを社会および世界との媒介と捉え、社会に貢献する自分をよく思いたい、価値ある存在だと思いたい。自己の存在をデザインに頼る自分がいる——ふと、そう感じるときがあります。これは先の支配的な物語と共に、存在レベルでの自己肯定や社会的承認からくる肯定など、日本全体の課題と言えるものを自己の内に見た瞬間でもありました。

つまり無自覚性と資本主義への貢献は、デザイナー個人の内側から生まれる欲望の結果でもあると思うのです。

デザインを「他者の欲望の充足」や「ユーザーへの価値」の名のもとで正当化し、「自らの欲望」をひた隠しにしている。それが認識を歪め、自覚する障壁となっています。しかし、あらゆる創造物には、無意識に創り手の欲望が投影されるので、それは社会への影響として滲み出てしまう。
ゆえに、己の欲望を認め受け入れること、そして、自らの欲望をデザインしていくことが求められるのではないでしょうか。アールト大学では、批評的まなざしがデザイナーに最も重要だと最初に教わりました。デザインとは常に社会への介入であり世界への投企です。しかし、その介入は自らの欲望の映し鏡にもなる。そこに目を向けなければいけない。

欲望自体は、なくすこともままなりません。無我の境地は汎用的な解決策にはならないと思います。欲望=Desireの語源は、「父から授かったもの」という意味だそうです。神様が授けてくれたものです。つまり、欲望自体が悪いのではなく、欲望の水準・対象の問題です。その水準を上げていくこと、原研哉さんの言葉をお借りすると、欲望のエデュケーションが必要です。そのためにまず自身に、それから他者に対しての、欲望を見つめ直すこと。それがデザイナーに求められるのではないでしょうか。

ここで、ふみやさんのご指摘した自然=神性が繋がってくるのでは、と思います。デザイナーはデザインの性質でもある闇の力と共に己の欲望を理解し、超越的な存在を通して、自らの欲望を神から授かったより大きな欲望に包摂していくことが重要なのではないか。そうして初めて、可能性を開き、他者の欲望のリ・デザインへと向き合えるのではないか、と思いました。

しかし、自然が自らの欲望の包摂や内なる光を灯す一助になるのであれば、現代都市に住む人々は、自然とどのような関係性を築いていけばよいのか?という問いが浮かび上がります。唯一神をもたず、アニミズム信仰も薄れてきた今の日本人。神秘性を見出す瑞瑞しいセンスオブワンダーも、自然との繋がりも失われつつあるのではないか、と。これはどう都市と付き合えばよいのか、という問いとも関連するかと思います。

また、観点は変わりますが、大いなる存在と向き合うというのは、自分を超えたものとの「見る/見られる」関係性をいかに作るのか、ということかもしれません。
昔の日本は、一神教のような神の不在に替わり、お天道様だけでなく「ご先祖様に恥ずかしくないように生きる」といった先祖の目が、フーコーの説くパノプティコンのように機能していたのかもしれません。

または日本人的な「世間の目」を構築することも可能性のひとつでしょうか。まずはこうしたディスコースを増やすことで一般的な言説に普及すること、それが業界の慣習になり、大衆の空気、世間の目を仕立て上げることも必要かもしれません。

より個人のレベルでいうと、憧れのあの人ならどう考えるか、という思考を身体に取り込むこと。ヴィクター・パパネックでもイヴァン・イリイチでも誰でも構いません。エクリで上妻世海さんが述べているミメーシスおよび多重的な主客を常に入れ替わるような状態、というイメージです。

ビジネスの現場は分かりかねますが、フィンランドのデザインの文脈では、社会的責任や倫理観というキーワードが議題によく上ります。アールト大学では、必修科目の最初に、Design & Justice というテーマで、ミルの功利主義やセンを取り上げ、デザインの正義を対話をする授業がありました。ファッション/テキスタイル科では、Critical Design Practiceといい、Anti Fashionを取り上げたり、Broken Natureを手がけるMoMAのキュレーターをゲストに呼ぶ必修があります。批評的なまなざしを養うことが必修としてデザイン教育に組み込まれているというのは、日本のデザイン教育との大きな違いを感じ、印象的でした。

こうした、いく通りの方法で、自身の内部に「見る」役割を担う他者のまなざしを統合していく、というのが重要なのではないかと。

気づいたらぱらぱらと異なるテーマで書いてしまいました…。
本年もまた、よろしくお願いいたします。

川地 真史