ファスト化する私たち

いつからだろうか、時間は細切れになり、ふと気づくと足早にすぎていく。それは日々の生活に不協和音と、ゆらぎを生じさせる。最早「スキマ時間」という言葉まで作られてしまった。この言葉は、ぼく達の現代の生き方を投影する。

わずかな間に生じた時間をも効率的に活用したい、その割には現前の時間、“今、ここ”をないがしろにしてしまう。そんな矛盾の中で生きている。

多くの企業は「どうすれば人々の注目と可処分時間を奪えるか」、という終わりのない競争に励み、デザイナーはその競争に貢献している。この歯止めの効かない加速する潮流に対し、スローデザインという概念を紹介したい。

スローデザインとは何か?

スローデザインは、世界的なスロームーブメントから派生した概念だ。イタリアで発祥したスローフードやスローシティはその先駆けとなる運動である。2002年にAlastair Fuad-Lukeが論文にて提唱し、現在はオランダを拠点とする学際的研究組織であるSlow Research Labなどを中心に研究されている。

“スローネスへのパラダイムシフトは、経済成長や効率主義による時間の制約を取り除き…(略)…個人・社会文化・環境の調和を図りつつ、時間の脱コモディティ化に向かいます。”——Alastair Fuad-Lukeより

“Slowという概念は、異なる速度での物事への関わりを促進するだけでなく、批評、熟慮のための余白、ユニークな創造的表現により、より調和のとれた在り方・生き方を呼び起こします。”——Slow Research labより

この概念はマニフェストである。あらゆるオブジェクト・空間・イメージなどのアーティファクトを通して、人間、経済、資源のファストな代謝を、適切なゆるやかさに戻していく。単に時間をかけてデザインをするのではなく、対象を経験するに必要な時間をとることで、ピカピカな表面だけを汲み取ったり、効率性と形式のみを求める記号的消費への誘惑の背後に隠された、“見えない大切さ”を咀嚼するためのパースペクティブを提供する。つまり、メソッドやツールではなく、デザインコンセプトおよび思想と捉えられるのではないだろうか。

少し事例を見て、理解を深めていきたい。スローデザインとは何かを理解するために、スローな概念と正反対の事例を示すことでよりクリアになるかもしれない。スローデザインの概念に則ってデザインされたわけではないが、わかりやすく日常的な生活用品に目を向けてみよう。

例えば、コーヒーマシーンとドリッパー。ここではぼくの物語をご紹介する。以前働いていた会社では、冷蔵庫がありコーヒー豆を保存していた。ぼくは朝早くオフィスに行き、仕事前の読書に耽る前に一杯コーヒーを淹れるのが日課であった。湯を沸かし、豆を挽き、ドリップする。一滴ずつ滴っていく中でひとつ深呼吸をする。このドリッパーが行為をスローダウンさせてくれる媒介であり、この間5分が慌ただしくなる1日の前に、自分の時間を味わうための儀式となり、朝の一杯への楽しみを増幅させる。1ボタンで出てくるコーヒーマシーンは、この5分を短縮できる。そのぶん読書が長くできるだろう。しかし、それではダメなのである。

次に、スローデザインを表すための少しプロボカティブな例、Simon HeijdensのBroken Whiteを見てみよう。

一見、シンプルでよくありそうな白い食器である。しかし、人々が利用する時間の経過と共に、ひびが入っていき、それが徐々に生きた花の模様を映し出す。この模様により、食器と共にある“時間”が可視化されるのだ。それは時間の内に込められた体験の記憶や愛着の可視化でもある。または使い手と食器、食べることの新しい関係性が生み出されるかもしれない。

Simon HeijdensのBroken White

Simon HeijdensのBroken White

Broken Whiteは、物が時間と共に成長していくという気づき、内省を引き起こす。食器を徹底的に味わい、物との関係性が育まれるために必要な時間を教えてくれる、スローデザインの好例であろう。

日常を生きる中で、私たちは物を巧みに操作する能動的主体と勘違いしがちだが、実際には明確な意志をもたずとも自然と行為に及び、気づかないうちに操作されるに至ることも多々あるだろう。ファストにデザインされた環境に身を置けば、それだけ私たちの在り方は、適切な時間感覚を超えて加速しうる。

窓と鏡のインターフェース

故に、デザイナーにとって時間を考えることは、体験、ひいては人の生き方を考えることに直結する。もちろんこれはインターネットに関わるデザイナーも例外ではない。デジタル化の波の中で、よく「直感的なインターフェースが良い」と言われる。しかし、これは「目的を効率的に達成するから、直感的なインターフェースが良い」という暗黙の前提に立った発言ではないだろうか。本当に、是非を問うまでもなく良いことなのだろうか?

これは、デザイナーが目的に向かって一直線に道を引き、一切の寄り道をする余裕を与えない強固なアーキテクチャの構築を意味している。行為者が寄り道ないし自身で道をつくる余白は存在せず、来た道を振り返る隙もない。これは、インターフェースのファスト化とも言えるかもしれない。

メディアは透明になるべきか

書籍『メディアは透明になるべきか』では、直感的な操作で意識に上らず透明化していく“窓”のインターフェースに対して、行為者を立ち止まらせ経験に意味を付与する“鏡”のインターフェースが述べられている。もちろん、窓のインターフェース(= 熟慮されたユーザビリティ設計)を否定しているわけではない。むしろ両者のバランスをどう取るかが問題なのだと思う。

人間は周囲のオブジェクトや状況に影響を簡単に受けてしまう。ゆえに、今一度それらとの関係性を“時間”という観点で見つめ直してみてはいかがだろうか。