ぼくは2018年から2年間、フィンランドの大学院に留学していた。当時はデザインを専門に学んでいたが、大学院の初日に語られたのは「エゴからエコへ」の合言葉だった。「エゴ」には生きものたちのピラミッドの頂点に人間がいる図、「エコ」には人間が他の生きものと並列され円を成す図が描かれていた。当時は、その図にハッとさせられたことを覚えている。

留学する前にはデザインに対して絶望していた(連載「デザインをめぐる往復書簡」を参照いただきたい)。人々の快楽や欲望を満たすビジネスの道具に成り下がったデザイン。自分が行なっていることは「もっとわたしを見てよ!」「もっとこれ欲しいかも!」という欲望やエゴを強化しているだけかもしれない、そんな危うさを感じていた。このままじゃいけないと感じ、フィンランドに留学した。ぼくの留学は、高尚なことを追求する目的よりも、身体が逃げろと訴えてきたからだった。身体から出たサインに耳を澄ませた結果であり、必要な逃亡だった。

逃亡先のフィンランドでは、人間のためだけではないデザインのあり方に触れ、それ以上に森に溶け込んだ寮での生活は、身体感覚を以前より確実に、周囲を取り巻く存在と呼応できるように書き換えていった。

前置きが長くなったが、この連載の本題は「エゴる」と「エコる」のあいだで揺れ動くことにある。 留学当時は確かに、自身の見てこなかった(見たくなかった)世界を突きつけられた気持ちになった。しかし、一周まわった今、色々と思うこともある。

ぼくたちは「自然のため」「地球のため」に生きたい、と欲望しているのだろうか。「地球のために生きる」ことを願っているのだろうか。いや、ぼくはぼくのために生きている。しかし、単に消費的な欲望に身を委ねるのもヤバいとわかっているし、自分のふるまいを変えたいとも思う。フィンランドにいた当時、「第三次世界大戦が叫ばれていた時と同じくらい、気候変動に危機感をもっているの」と語っていた人の顔が浮かぶ。このままではヤバいのだ。じゃあ、どう折り合いをつけていけるのか。この時代に、欲望のかたちとは、どうありうるのか。

人と自然の複雑な関わり合い

近年は人間と自然、近代的な世界観で二つに切り分けられてきた関係性の再考が叫ばれている。留学初日に見せられた図が伝えていた「エゴからエコ」のメッセージは、人間を優生とする社会ではなく、あらゆる多種と同等な存在とみなすように関係性を変えていくお話しだった。

しかし「人間」という言葉でくるめられることにも違和を感じる。他の種や生き物、自然存在に対して「人間」と置いた時に、種として扱われる瞬間に、ぼくという個人が他のひとたちと同一のものに扱われ、一緒くたに丸められてしまう。

たしかにあらゆる生命の尊重は必要だが、全体主義にもなりかねない。全体のために個人は犠牲になってもいい、というイズムの支配だ。エコ・ファシズムという言葉が生まれたように、全体主義は環境問題にも足を忍ばせている。ナチス・ドイツが掲げた「生物圏平等主義」が結果的に人種で切り分け人間の排除につながったように、エコロジーの思想は、種や生態系、環境全体の福利、エコのために、個人の権利や尊厳を顧みない危うさを抱えている。その到達点が人間不要論といった極論だが、この言説は同時に「地球のために」といったメッセージと地続きかもしれない。

また、自然保護や環境保護の考え方も、一筋縄ではいかない。ここで語られる保護の対象は(人間にとって必要な)自然じゃないか、と暗黙の前提として人間の生存と豊かさの享受が想定され、結局は人間のエゴだとの批判も耳にする。

自然生態系や生きものたちは、守られなければいけない弱い存在なのだろうか、と疑問に思うこともある。いま、新たな倫理や責任のかたちが必要なのは確かだが、人間だけが地球を破壊してきたから人間だけが修復を担うのか、といえばそれはそれで傲慢さを感じてしまう。

人間humanの語源は、腐食土humusだ。それは、天上人としての(自然より優生な)人間ではなく、同じ地平に降り立つ、謙虚さhumilityを意味するのではないか。なんなら、人間は植物がいなければ呼吸ができないくらいに脆弱で、守られているのはぼくたちでは…とも思う。そういえば、トウガラシがあんなにも辛いのは人間を中毒に陥らせることで栽培を促す生存戦略だと聞いたことがある。人間だけで出来ることは思ったよりも少ないし、人間はトウガラシの奴隷だ。なんなら、守られなければいけないのは、ぼくらかもしれない。

やっぱり、人間と自然の関係性は複雑である。「エゴからエコ」への滑らかなトランジションはできない。ぼくは欲望を抑え、エコロジーをふまえた選択や地球にいいことを、と行動するときもあれば、それができない状況だってある。エコやエシカルといっても、みんながオーガニックコットンの服を買えるわけでもないから「エコな取組み」は理想論になってしまいがちでもある。「その服を買えばエシカルだから万事OK」と考えることもまた、単純化された解決主義に陥ってしまう。むずかしい。「わかっちゃいるけどできないよ…」と落ち込むこともある。常にエコロジカルに生きられるほどに、ぼくは完璧ではない。

結局、エゴが悪でエコを善と捉えるのではなく、固定化された解を求めず、この厄介さと付き合い続け、フラつきながらも進む、そんな歩み方のほかにないのだろう。「毒と薬」だってそうだ。状況によっては毒は薬にもなる。薬は、飲みすぎても毒にもなる。毒は薬と正反対に位置しているようにみえて、反転もしうる。毒にも薬が、薬にも毒が、含まれていることもある。毒でもあり薬でもある、なんてこともある。個を超えた関係性にある「エコ(ロジー)」も、個の欲望=「エゴ」にも同じことが言えるかもしれない。

ケアと痛み分け、相互依存と切断

本連載の筆者ふたりは、Deep Care Labという法人を運営している。過去や未来の人々、生き物の相互依存を前提とした世界観への変容を促し、「ケア」の実践と想像力を育むクリエティブ・スタジオだ。中心においている「ケア」という考え方は、福祉や医療のイメージが強い言葉かもしれないが、根底にはエコロジーと響き合う。政治学者のジョアン・トロントはケアを以下のように定義づける。

「世界」を維持、継続、修復するために行うすべてのことを含む人類的な活動であるとみなされる。…世界とは、私たちの身体、自己、そして環境をも含むものであり、私たちはそれらのすべてを、複雑で、生を維持するための網の目の中に紡いでいく

ケアの前提には、ぼくら自身とそれを取りまく環境の総体としての、いのちの網目(web of life)=相互に依存しあう関係に生きる生命観が横たわる。世界はタペストリーのようだ。人間だけでなく、植物も虫も動物も山も川も海もみな、他の生命に依存してはじめて成り立ち、相互依存は切り離せない。しかし、この関係の切り離せなさが厄介でもある。

畑を借り始めたばかりのある日、台風並みの暴風雨に見舞われた。若い果樹を植えたばかりだったので、折れたり、飛ばされるのではないか、と気が気で眠れなかった。家にいながら、ぼくの身体感覚と想像力は畑にまで拡張されていた。畑とぼくは一体となっている、まざまざとそう感じた。映画『グリーン・フロンティア』では、森の木々が切り倒されるとき、森に住む先住民がその森に起こることを、自身の身体での痛みとして感じ取るシーンが描かれる。流行りに流行った韓国ドラマ『愛の不時着』でも、恋人や仲間の危機に身を挺して助けるシーンが印象的だ。

この感覚はとても不思議だ。畑とぼく、森と森の民、リ・ジョンヒョクとユン・セリ…一緒なんだけど、一緒じゃない感覚。あなたが傷付けばわたしも傷つく、究極の自分ごととも言える。ケアとは痛み分けに近い。

だからこそ、ときにはそのつながりを切断したくなる。畑が自分の延長だと感じていると、それはそれで大変だ。水やりしないと彼らが苦しいかも…と思いつつも、疲れ果てて朝起きるのがきつかったり時間もないのに…と苦しくなる。いや、それくらいは頑張れよと言われても不思議ではない。でも、例えば台湾人のパートナーが母国の家族の体調が優れないことに気を病んだりしている状況で、畑の野菜なんて気にしていられない。ぼくにはいま、ぼくを取りまく大切な状況がある。

エコや地球のため、自然のため、を叫ぶのはこういう個々人の抱える切実さや状況も無視して一元化した新たな基準を敷き直す、支配の形態にもなるのだと思う。二元論で「分けない」重要性も承知だが、その一方で自らを他の存在と同化しすぎることや、痛みをすべて引き受けることも苦しさを伴う。とはいえ、常に環境からの呼びかけを聴こえぬように切断することも健全ではない。チャールズ・テイラーは、近代が確立した個人像を「緩衝材に覆われた自己」と呼び、対比的に「多孔的な自己」像を説いた。それは、あらゆる周囲との関わり合いに常に影響を受け作用されてしまう、たくさんの孔をもつ脆弱な個人だ。

葛藤をつづりながら、ダンスの技法を育む

これは、エコロジーや人新世の時代における、ひとりひとりの向き合い方の問題。何らかの制度やシステムが転換すれば解決するわけではない。エゴとエコを考えるとは、各々がバランスをとり続けようと、フラつき続けることにある。

「ソーシャルディスタンス」がすでに死語なのかわからないが、本来ぼくたちがパンデミックの最中に考えるべきだったのは、自身の欲望を取りまく関係と照らし合わせ、状況に応じたディスタンスを取る技法の育み方ではないか。

パートナーと喧嘩後に話し合ったある時の、彼女の一言がふとよぎる。

「関係性を築くって、ダンスみたいなものでしょう?自分を100%保ち続けるのは無理で、相手にあわせて一歩ひいたり、足を送ったりしなければ関係は築けないでしょう。それってダンスじゃない」

これが、本連載のはじまりに寄せて伝えたかったテーマだ。 エゴとエコ、そのあわい、反転、両立…日々の中で起こる出来事や他者とのやり取りに対する、自信の応答、または応答しえなさ。そうした日々のダンスのエピソードを、内にうずまく葛藤を吐露するように、言葉に綴っていく。

この連載は、格好良くいえば倫理的実践のアーカイブである。それは各々の、個人的なものから始めなければならない。筆者ふたりが自らのエゴに向き合って、葛藤をさらけ出すことを大切にしたい。聖人のようにみんなが美しく生きられるわけないのだから。

倫理とは、状況に照らして、逡巡しながら、考え巡らせ葛藤を抱き抱えながら、判断をしていくものだ。そのシチュエイテッドな応答は、決して汎用的な解決策にはなり得ない。解決しうる類の話でもないし、読んで役に立つ話ではないかもしれない。しかし、葛藤をさらけ出す個人的な実践だからこそ、平べったい一般論に回収されない、生々しさを孕むことができる。本文に目を通している方々には、ダンスの技法を培っていく過程にしばし、お付き合いいただけると嬉しい。