はじまりの話

私、田島が川地と出会い、Deep Care Labの活動につながる構想の話をし始めた2020年、私はパラダイムシフトの真っ只中にいた。これまでの常識や自分が当たり前だと思ってきたものが全部崩れ、意識や知能は大人だけれど社会に対する理解度が赤ん坊に戻ってしまったような状態で、よるべなさを感じながら荒野を彷徨っていたのが当時の私だった。

2019年に息子を出産した。これが私にとっては価値観の一大転換をもたらすターニングポイントになった。出産には十人十色の体験談と感想があると思うけれど、私の出産の一番の思い出は「わたしは哺乳類だったんだ」という強烈な気づきを得たこと。

陣痛の痛みと猛烈に襲ってくるいきみたい感覚を我慢して乗り越えなければならない苦行の中で、理性ではどうにもできない自分の中の野生を感じ、そして全力でいきんで腹にいる子を外に押し出し、引っ張り出してもらう・・・。その体感覚が、テレビで見ていた人間の出産シーンではなく、馬や牛やイルカの出産シーンと重なった。

「あぁ、私も彼らと同じ哺乳類だったんだ・・・」

これが自分にとっては雷に打たれたくらいの強い気づきで、これはなにか自分にパラダイムシフトと学びをもたらしてくれるかもしれないと思い、これを「哺乳類自覚(animal awareness)=自分が哺乳類だと気づくこと」と勝手に呼ぶことにした。

その後、体を休める1か月のひきこもり生活を経て久々に娑婆に出たときに、人々が行き交い、車が走る自宅のまわりの日常の風景を見て「変なの・・・」と思ってしまった感覚は今でも忘れられない。

出産で得た「哺乳類自覚」をまとって世の中を見ると、元々サルである私たちが洋服で着飾り、道路を整備し、車を作って乗り回し、買い物に行き、お金という代物でモノやサービスをやりとりし、そのお金を得るために体と精神に鞭打ち働き、資本主義だの民主主義だのの実体のないイデオロギーを信望することが滑稽でものすごく不思議なことと思えてしまったのだ。

こうして、目覚めてしまった「哺乳類自覚」によって私は今まで当たり前だと思っていた物事すべてに疑問を感じるようになった。

元々サルなのにこんなにあくせく働くのか
元々サルなのにお金がないと生活できないようになったのか
元々サルなのに(地球環境を破壊するまで)の文明を築くことができたのか
元々サルで他の動物たちと共に生きている存在だったのに、なぜ彼らを管理したり保護するような特権的な地位にいて私はそれを当たり前だと思っているのか
etc…

この疑問が地球史、生命史、人類史、生物学や文化人類学から見たヒトへの興味のはじまりとなった。そして興味を持って知っていけばいくほど、ヒトの一人では生きられない弱さと、ヒトとヒト以外も含めた果てしない生命の営みの結果として「いま」がある、ということにも気づいていった。そんなときに川地と出会い、この図を見せてもらう。

「あぁ、これだ」

哺乳類自覚を得て、果てしないいのちの網目の中に存在する自分に気づいた私はこれから何をするのか、という問いを持ち始めていたときに見たこの図がすーっと自分の中に入ってきた。

こうやって私は身近な人々のみならず、祖先や未来に生きる子ども、山川草木、動植物や微生物…ともに関わり合いあらゆるいのちと共に生きていることに気づき、思いやりの実践を重ねるDeep Careに対する共感と実践への渇望へと自然と導かれていった。(当時はこの概念をDeep Careという言葉にはまとめていなかったし、この図自体もこのあともっと洗練されていくことになるが)

共に生きることで学ぶDeep Care

さて、産まれることで私に哺乳類自覚をもたらしてくれた子供との暮らしは、これまたたくさんのDeep Careな気づきにあふれたものだった。

子供は言うまでもなく、大人である私たちが知っている世界の見方、捉え方を知らないままに生まれてくる。

「わかる」 ことは「分ける」 こととよくいう。
そういう意味では、子供は成長するにつれて、外界の世界との関わりを通して世界の「分け方」を習得していくともいえるのかもしれない。徐々に子供が成長し「分け方」を覚え、私が知っていることとの差が埋まっていく中で、特に興味深かったのは、子供が言葉を習得し始め多少コミュニケーションっぽいものが取れるようになった1歳半〜2歳あたりの彼の世界の捉え方だった。

虫や道端の石ころも道を歩く犬にもナチュラルに声をかける姿を見たときは、虫や石や犬が話しかける対象になる世界観の認知をそのまま自分もトレースしてみたい、という衝動に駆られたし、子供がどんなに前のことでも「きのう」と言い、過去を一緒くたに捉えていることがわかったときには、おとといとか1週間とかの概念を知らなかった世界に戻って、私もその時系列なく混ざり合った過去の手触りを感じたいと思った。

「分ける」ことをまだ十分に知らないからこその「分けない」視点と世界の捉え方。自分の境界と他のものとの境界すら曖昧そうなこの頃の子供の環世界は、明らかに私と違っていた。この子は私が大人になってから得たDeep Careの他種と共にある感覚や、あえて「分けない」ことで見えてくる世界の捉え方をいま成長過程にあるからこそナチュラルに知っている。

そう考えると、私も昔は子供と同じ感覚を持っていたのかもしれない。Deep Careを大事にするということは、子供の頃の感覚を取り戻していくことなのかもしれない。私の頭はそのときの映像や感覚を記憶していなくても、もしかしたら体は覚えているかもしれない。

私はその期待感から、子供の姿を真似してみることで私は自分の昔の感覚を呼び覚まそうと、子供を師匠に世界を知覚し直してみることにした。監督者の視点に戻らないといけないことも多々あるけれど、子供を師匠に家と保育園へと行き来する短い時間は、私にとっては記憶にある限りでは初めて、雨の日のダンゴムシの隠れ場所を心配し、大好きな茶色の野良猫に会えるなぁと期待感に胸躍らせながら姿を探し、清掃車から聞こえる音楽に体を揺らし、雲にあいさつする日々だった。

一人だったらやろうとも思わなかったし、できなかっただろう。

子供は身近に存在する「過去からの継承」「未来への種」「自然」を感じさせるものでもある。
子供を通じてDeep Careをまなざすことができる、ということにも気づいた。

子供の中に自分から受け継がれた性質を見る時、そこには自然と私が受け継いだ家系の「血」が感じられる。逆に自分にはないものが現れた時、そこに夫の家系の「血」を見ることもある。誰から何が受け継がれたかなんてことは明確にできないし、する必要もないと思うが、目の前の子供の中に私たちが受け継いできたDNAを感じる瞬間、そこに脈々と続く血の「歴史」を見る。

また、保育園で子どもの友達たちを眺めるときにふと、彼らが未来をつくるんだなぁと感慨深い気持ちになるときがある。彼らは私たちが得た学びを踏み台に彼らなりの感性で世界を形成していくだろうけど、その彼らを支える価値観や精神的支柱の中には私たちから受け継いだもの、反面教師にしたものが投影されるに違いない。私たちが今、上の世代から受け継いだものを自分たちの中でそうやって加工して社会を認識し何かことを為そうとしているように。いやが応にも私たちの一挙手一投足が子供たちに何らかの影響を与えその彼らが未来をつくっていくのだとすると、私たちが子供と触れている瞬間瞬間に未来への種を残している感覚になる。

私がコロナ禍で子育てをしているときに読んだ本に『ポストコロナの生命哲学』(著)福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史 がある。本書ではロゴス(言語、構造、アルゴリズム)とピュシス(自然)という概念を通じて、ピュシス代表であるウィルスと、ロゴス的社会に生きる私たちとの共生を考えるときの視点を提供してくれる。

ロゴスとは、自然を切り分け、文節化し、分類し、そこに仮説やモデルやメカニズムを打ち立てようとする言葉の力、もしくは論理の力である。イデアやメタファーを作り出す力である。一方ピュシスとは、切り分け、文節歌詞、分類される以前の、ありのままの、不合理で、重畳で、無駄が多く、混沌に満ち溢れ、あやういバランスの上にかろうじて成り立つ動的なものとしての自然である。自然とはロゴスではなく、結局はピュシスである。

『福岡伸一、西田哲学を読む: 生命をめぐる思索の旅』(著)池田 善昭、福岡 伸一

ロゴスとピュシスの説明に関しては別の書籍から引用させてもらったが、『ポストコロナの生命哲学』では、ピュシスは本来、気まぐれで残酷でアンコントローラブルだとも書かれている。逆にロゴスの本質は論理であり、現代社会はロゴスによってコントローラブルで予測可能な完全制御された文明を目指しているとも言っている。

もう、このピュシスの性質って子供そのものじゃないか、と翻弄されている真っ只中の自分は読みながら強く感じたものだった。

元来、生物としてのヒトはピュシスそのものでした。それが次第にロゴス的側面を獲得していったということです。ピュシスとロゴス、その両方を併せ持つのが人間です。

『ポストコロナの生命哲学』(著)福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史

これは生物の進化について書かれている文章だけれど、「ヒトの成長」も同様だろう。
私たちはピュシス的存在として生まれ、ロゴスの山を登り成長していく。ありのままで、気まぐれで、アンコントローラブルでときに残酷。子供はピュシス(自然)そのものだ。

そんなDeep Care的存在と共に生きる中で、豊かな気づきだけでなく葛藤も多く感じてきた。

共に生きることで感じる葛藤

特に子育てをして辛いと感じるのが、子供がピュシス的存在である一方で、社会は前述の通り非常にロゴス的に動いていることに板挟みになることだ。
これを特に感じたのがコロナ禍での休園や子供の体調不良時の在宅勤務保育のときだ。

これはまさに在宅勤務保育をしていて、大人の事情なんてまだ斟酌できない、する必要もない子供から仕事中に紙飛行機を折ってくれと言われたときに、ため息混じりで思わずつぶやいた発言だったと思う。

これからの循環を考え、自然(ピュシス)との付き合い方を見直す上で、予測不可能性、コントロール不可能性と向き合わないといけないだろう。」というのはDeep Care Labのでも向き合ってきたメッセージだったが、私が目の前で向き合わざるを得ないコントロール不可能性は明らかに自分の子供だった。子供を叱ったりこちらが威圧的な態度を取ることで、コントロールしようとするのは簡単だし、実際そうするとこちらの言う通りにはなってくれるし楽だ。でもその圧による強制が子どもの心に傷として残りあとあと悪影響を与えることを自分も身をもって知っているから、楽だけど、しない、したくない。

でも仕事には期日や締切があるし、スムーズに予定通りに事を進めることが是である感覚もある。子供の持つ予測不可能性とコントロール不可能性と理路整然としたきちっとしたビジネスの世界の「是」の概念とは本当に相性が悪い。

それについて、先述の『ポストコロナの生命哲学』の中で伊藤亜沙さんが「それそれ!!それよ!!それと育児と仕事の両立で感じる問題の1つもそこなのよ!」と思うことを発信しておられたので少し長いが引用したい。

ピュシスとロゴスの問題を考える時、時間は非常に大きいファクターだと思っています。私たちの社会は均質な時間を想定して設計されているわけですが、実際には私たちの生は決して均質ではなくて、体調がいい日もあれば、そうでない日もあるわけで
(中略)
私自身のことで言えば、原稿を書くと言うのも予定通りには進まないことで、方法論として語れないような部分が多い、非常に生理的なものだと感じます。その変動が、福岡さんがおっしゃった「自然の歌」と言うことなのかもしれませんが、その変動をちゃんと感じて、そちらに合わせるような考え方ができないだろうかと思います。
そのことに関連して私が今非常に関心を持っているのは、納期の問題です。
(中略)
納品するタイミングをどう設定するかを考えることは、ピュシス的、つまり生理的時間感覚とロゴス的な社会的時間感覚の上手な調整を考えることではないかと思っています。

人はすべてをコントロールするべきだ、という前提があまりに強固なものになっている(中略)そこにはピュシスの入り込む余地はありません。

人間は生物だからこそ絶えず変化していくものなのに、その変化が許されない時間を生きないと社会生活を送れないと言うのは、ちょっとおかしいという気がします。

『ポストコロナの生命哲学』(著)福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史

子供だけでなく自分の体も本来は自然な存在でアンコントローラブルさや個別性があるものなのに、集団を動かす効率性のために均質さの枠組みに押し込めようとすると、そこから外れる人がどうしても戦力から除外されていく。

コントロール不可能性と向き合っていく練習を、子供を通じてさせてもらっていると言えるかもしれないが、前提となる社会の構造や仕事をする自分自身の意識の方をもう少し柔軟なものに変えられないのだろうか。子供も刻々と変化する中で、対応も変えていく必要がある中で明確な答えを見出せていないままである。

(ちなみに現在仕事で関わっている方々には最大限の配慮をしていただいているので、恵まれた環境に置いてもらっていると思っていることも申し添えておきたい。日々の気遣いに感謝するばかり。両立できることを願い、配慮に応え切れておらずに引け目を感じる自分の気持ちの問題も大いに絡んでいる)

ピュシス的存在と暮らしながらロゴス的社会を生きることで向き合うのが、「安心・安全で効率的、時短につながる家事運営」と「家族の誰かの中の病原菌やウィルスの家族内感染を防ぐこと」の必要性だ。

コントロールできない子供ときちんと向き合うために、そして少しでも自分の時間も確保するために、家事は極力時短をしたり手を離し、本来防げた家庭内でのささいな事故や事件は防ぎ、その処理に対応するための余計な手間を一切排除したい。

子供がいるときの、安くて軽くて落としても割れない食洗機もOKのプラスチックのありがたさったらない。子供は食器をよく落とす。本物志向はじぃじばぁばの家の陶器の食器だけでいい。うちでは、はい、プラスチック。あー、このカラフルなおもちゃ楽しそうだよね。軽いし投げても危なくないね。はい、プラスチック。平日の夕飯作りや離乳食作りを楽にするために休日に料理を作りおいて冷凍しておく容器も収納の幅も取らないプラスチック。プラスチック最高!

脱プラの動きも当然知っている。プラスチックやマイクロプラスチックがもたらす影響ももちろん知っている。でも今の私にはこっちの楽さが必要なのよ・・・!と誰かに(いや、一番は自分に)言い訳して我が家には出産後の方が明らかにプラスチック製品が増えている。

家族の誰かが病原菌やウィルスをもらってきたときは、緊急事態。じゃあ共に生きる菌を感じ、みんな一緒に病気にかかりましょうか、なんて悠長なことは言っていられない。子供はもちろん病気にかかることでの免疫も獲得してもらいたいけど、それは必要最低限でいい。家族内の誰かが病気になることは家事も仕事も停滞と作業負荷が上がることを意味するのでできるだけ短期間で終わらせるのが、体力・精神衛生上も吉となる。

だからこんなインタビュー記事を書いておきながら、病原菌やウィルスがやってきたときには徹底的に消毒する。ノロウィルスがやってきたときには、吐瀉物のついた洋服やシーツをハイターにつけ込みながら、「あー、いまわたし大量虐殺してるわ」とウィルスたちの阿鼻叫喚が聞こえたような気がした。一縷の罪悪感や葛藤を覚えつつ、繁殖を阻止することの方が正義となり漬け続けるのだけど。

Deep Careに目覚めなければきっと罪悪感を感じることもなく、むしろ当然の行為として素直に受け入れていたであろうことに引っかかりを覚えるようになった。いろんなつながりや共に生きる他種が、これまで自分の人生の背景の一部としてまったく見えない状態だったのが前景化した分、正直生きづらくもなっていると思う。ただ、きっともう少し子育ての手が離れ、自分にも余裕が出てきたら、今の私のプラスチック正義!家族がかかったときは消毒正義!の感覚も変わっていくのだろう。

変化し続ける。これからも。

子供は現在4歳に近づいている。すべての境界があいまいでにじんでいた彼の世界の見方も言語が達者になっていくのと比例してこちらに近づいてきているのを感じる。

子供と、先日こんな会話をしたのをtwitterに残していた。

何がきっかけでそういう話になったか具体的には覚えていないが、たしか動物園に行きたいという話の中で好きな動物を聞いていたときに、私がふと、自分に「哺乳類自覚」を気づかせてくれた子供にも「人間と動物が一緒の存在」だとわかっていてほしい、というエゴから「ヒトも動物の仲間なんだよ」と言ったところから論争が始まったんだったと思う。

分けない視点を持ち、他種も友達の世界線で生きていた子供を尊敬すらしていたし、私に「哺乳類自覚」を与えてくれた子供がその視点から離れてしまったことが私にはかなり衝撃で、「あぁぁぁ、彼の中でナチュラルに育まれていたDeep Careな視点を動物園に連れていき図鑑を与えていたために壊してしまった…」と自分が子供に与えていたものを後悔したりもしたが、「いやいや、そうやって自分と動物を別だと思う認知を辿ることってナチュラルな成長だよ」と友人たちに諭され正気に返ることができた。

そうか、彼はロゴスの山を登って世界を理解しようとしているんだ。逆に私はDeep Care的視点にとらわれ、彼をそれを体現する人としてある種理想化しすぎていた。

私を正気に返らせてくれた友人に同時にアドバイスをもらった。

「親が子供にできることは子供のログを残すことじゃないかと思ってる」

子供がいつかロゴスの山を登り切り、私のように何かの拍子にピュシスの方に目を向けるタイミングが来たら、それはあなたが元来持っていたもので、こうやって私はあなたからDeep Careを学んだんだ、ということが伝えられたら、それは子供にとって何かの気づきにつながるかもしれない。

そう思ってログを兼ねてこの記事を書くことにした。アドバイス通りの、でも「いつかわかってほしい」的おせっかいな親のエゴもちょっぴり。

そしてこれは、変化し続ける私のためのログでもあるのだ。Deep Care Labを始めた当初の感覚も、さまざまなことを知り、感じる中で変化していっている。日々がめまぐるしくすぎる中でさらさらとこぼれ落ちていってしまうさまざまな気づきや感覚を留めておくことで、この記録がいつか私や、同世代を生きる人、未来を生きる人を、救ったり、気づきをもたらしたりするかもしれないわずかな期待も込めて。エコな分けない視点を得ることで得た苦悩と豊かさの両方をログとして記録していきたい。