音楽、私を構成するもの

家の中でクラシック音楽が流れていた記憶はない。せいぜい教育テレビの音楽番組でクラシックが取り上げられている時や、母が好きだったバレエをVHSで見るときにバレエ音楽として流れる程度だ。父の友人がアマチュアオーケストラでチェロを弾いており、その公演を観に行ったのが私と生音で聴くクラシック音楽との出会いだったような気がする。

音楽に特に造詣の深い家というわけではなかったが、どういうわけか私は小さい時からたくさんの人と奏でる音楽が好きだった。小学校の部活で器楽部に入って学校にあった様々な楽器の演奏に親しみ、中学に入ってからは弦楽合奏の部活でチェロを始めて、初めて本格的な「趣味」と呼べるものを手に入れた。大学ではオーケストラサークルに入り、社会人になっても休日はせっせとオーケストラの練習に通い、聴くだけでなく弾く方にどっぷりハマりながら「クラシック音楽」と言われるジャンルに親しんできた。もはや自分にとっては音楽はなくてはならないもの。文字通り、NO MUSIC,NO LIFEだ。

エコロジーやDeep Careの視点を手に入れてから馴染みがあったものや好きなものに触れ直すと対象の見方がガラッと変わる。クラシック音楽を成立させてきた様々ないのちの来歴と発展の歴史にようやく眼差しが開かれるようになると、この文化を享受している豊かさとありがたさと、人間の壮大な歴史的な積み上げに慄きと畏敬の念すら抱くようになった。

今回は好きなものとエコの狭間で揺れる自分の話だ。クラシック音楽に馴染みのない方でも、ご自分の趣味や好きなものに当て嵌めつつ読んでみていただけたら嬉しい。

楽器、自然から与えられしもの

さて、自分を取り巻く様々な命と恩恵に気づくにつれてまず気になったのが、音楽文化の享受に欠かせない道具としての「楽器」の成り立ちである。

私が演奏するチェロという楽器は弦楽器に属すが、オーケストラの楽器の中でもヴァイオリンを中心とする弦楽器は、特に植物や動物のおかげで成立している楽器の1つだろう。本体や弓には松や楓の木材が、弓の毛は馬の尻尾、張る弦は現在は金属製が主流だが昔は羊の腸をよじって作ったガット弦と呼ばれるものだった(テニスのラケットのネットも「ガット」というが由来は一緒、羊の腸だ)。

弦楽器奏者は演奏しているうちに定期的に弓に張っている馬の毛を張り替える。これは弾けば弾くほど毛が磨耗したり、切れて量が減ったりすることで音が出にくくなってしまうからだ。つまり馬の尻尾は弦楽器奏者からすれば消耗品だ。

楽器店に弓の毛替えに行くと、「この弓の毛はモロッコ産で毛と弦の摩擦がシャープで引っかかりが強いけど音量はそれほど大きくない。こっちはカナダ産でモンゴル産より太く強い毛質だから雑音少なくクリアな音色が作れて・・・」のような具合で、「この材質でどんな音を出すことができるか」に注目した説明と会話が繰り広げられる。あくまでも「材料」であり「音色を出すためのツール」としての他種がそこにいる。

私自身もエコロジーやDeep Careの視点を得るまでは、自分がどんな音を出したいかや演奏スキルにばかり囚われて、楽器がどこからどうやって生成されたのか、どんないのちの代償が払われているかに想いを馳せたことが正直全くなかった。

私の弓のために尻尾を提供してくれた馬は、これまでどのくらい尻尾の毛を失っているのだろうか。馬にとって尻尾を切られることが、私たちが美容院で髪の毛を整えるくらい自然で違和感のないことにまで昇華されていたらいいが、切られたくないのに切られてしまい、尻尾の毛が足りないことで虫を追い払うのに難儀したり、感情表現がしづらくなっていたりなどしていたら申し訳ないと思う。

私の楽器の木はどこに生えていて、どんな風で体を揺らし、どんな生き物たちの住む土に根を張って生きていたのだろうか。楽器の材木として重宝されるのは均一な細かい木目を持っているものだが、そういった木目を持つ樹木というのは時間をかけてゆっくり育った木だそうだ。育ったエリアの土・水・風、移ろう気候とさまざまな命たちによって、我慢強く200年以上大切に育まれた樹木が今私の手元にあるのだと思うと、いのちを提供してくれた木はもちろん、それを育んだ全ての者たちの息吹を通して私は音を奏でているのだという想いが湧き上がってくる。

音楽学の分野にEcomusicologyという分野がある。ecology(生態学)とmusicology(音楽学)の合成語で、音が自然環境によってどのように生み出されるのか、また自然に関する文化的価値や懸念が音楽という媒体を通してどのように表現されるのかという観点や、音楽制作と演奏の持続可能性についての観点など、エコロジー的視点から考える音楽について幅広く取り扱っている。

このEcomusicologyの研究領域に降り立ち素材と音楽という観点から音楽界を眺める時に、伝統楽器の「伝統」はどこまで継承すべきものなのだろう。音楽的な音色の良さとエコロジーは両立し得るのだろうか。均一な細かい木目をもつ弦楽器の材料となる木材も段々と少なくなってきている。私たちはもう楽器を作らない方がいいのだろうか。エコロジーと人間文化の両立を考えた時にこの極端な論はどんな分野にも当てはまる。衣食住も道具も、だ。人間が生きるのに他の犠牲無くしてはあり得ない。人間と他種との関係というのはそういうものだとも言える。でもだからと言って・・・という堂々巡りに陥る前に、この課題に向き合うことを保留して少し目線を変えたい。

音楽という文化、時代から与えられしもの

人類史から見る音楽という文化は果てしない。およそあらゆる民族が音楽という文化を持っていると言われるくらい形態がどうであれ人間には馴染みのあるものだが、時間芸術であるが故に、音が出された瞬間に消えていってしまう儚さも持っている。そういう性質の文化を共有しよう、再現しよう、伝えよう、そして何より楽しもうと思って先人たちが工夫し、編み出してくれた技術や革新の歴史の積み重ねの上に今私たちが享受している音楽文化は成り立っていると言える。

音楽史5万年の歴史を7分で紹介する動画というのがいっとき話題になった。

5万年のあいだ人々の中にずっとあった音楽は調和を探求する学問としても発展していく。

漫画『のだめカンタービレ』にもここに言及する印象的なセリフがある。

「1500年くらい前は、神の作った世界の調和を知るための学問が天文学・幾何学・数論・音楽だったんだ。本来、音楽(ムジカ)とは調和の根本原理そのものを指していて、理論的に調和の真理を研究することが「音楽」だった。」

この探求から、和声や管弦楽法といった「音楽の作り方」の学問や、瞬時に消えていってしまう音楽を紙に留めておくために音楽の記号化に成功した記譜法、その楽譜を広く配布できるようになった印刷技術、いかに体に負担なく美しい音楽を奏でられるかを求めた演奏法、そして音楽そのものをそのまま残せるようになった録音技術が生まれて行った。

この蓄積のおかげで、今、私たちは亡くなった指揮者・演奏家たちの演奏を聞いて感動し、手本にすることができるし、過去の作品を演奏することで6世紀も前の空気に触れ時を超えて過去の作曲家と常に共創することができる。音楽に乗りながら時空を越えられるのだ。

音楽自体、前の世代からの音楽を受け継ぎつつ、親しみつつ、超えていこうという意志の中で発展してきた。モーツァルトに憧れたベートヴェンがいなければジャジャジャジャーンで有名な「運命」は生まれなかったかもしれないし(厳密な楽曲ごとの影響は置いておいて)、そのベートーヴェンを超えようという意識がなければ、ブラームスの交響曲第1番も生まれてないだろう(あまりに偉大な先輩の業績を意識するあまり、曲の着想から完成まで21年もかかっている)。そしてクラシックをベースにジャズもポップスも生まれてきたのだから、こうした発展がなければ現代の音楽シーンも生まれていかなかったかもしれない。

NHK Eテレの「ムジカ・ピッコリーノ」という子供向けの音楽教育番組をご存知だろうか。かつて音楽に溢れていた荒廃した王国「ムジカムンド」を舞台にした番組で、そこには音楽が保存されたオルゴール的な機械の生き物「モンストロ」がさまよっており、壊れたモンストロを「ムジカドクター」と呼ばれる音楽家がモンストロが記憶していた音楽を手掛かりを頼りに再び演奏することで修理する、という設定だ。

最新のシリーズで、「モンストロはどれだけ治療しても必ず壊れるよう設計された」ことが明らかになり、壊れるものを治し続けてもしょうがないと、ムジカドクターによるモンストロの治療の中止と、モンストロの代わりになる永久的な音楽保存技術の開発がムジカムンドに通達される。しかし、実はモンストロが壊れる設計になった背景には、ムジカドクターが世代を超えてモンストロを繰り返し修理することで、その音楽が演奏され続け、演奏されることで継承されていくこと、そして演奏されるたびに新たな解釈やアレンジが生まれることによって新しい音楽が生まれ続けること、そんな音楽の発展の願いが込められていたことがわかる。

このことがわかった回のモンストロが記憶していた音楽は、ドヴォルザーク作曲の交響曲9番「新世界より」第2楽章。のちに「家路」という合唱曲が作られ、日本では「遠き山に日は落ちて」の歌詞を中心にさまざまな歌詞が付けられ親しまれて、歌い継がれていく楽曲だ。同じように、例えば、平原綾香さんがホルストの管弦楽組曲「惑星」の中の「木星、快楽をもたらすもの」の中間部に歌詞をつけて「Jupiter」の名で発表している。このように、メロディーは時代を越えてさまざまに形を変えて歌い継がれる。こうやって自然と親しみ、体の中に染みついた楽曲は記憶に残り血肉となり、次の新しい音楽が生み出される種になる。

そう考えると、この音楽が持つ「奏でた瞬間からなくなってしまう」性質というのは、継承に不向きなようでいて、必ず人の手をかけ、歌い、奏で、保存していく必要があり、必ず人が媒介者になる必要があることで、それが継ぐことやアレンジにつながる発展性を必然的に秘めた形なのだと感じられる。モンストロは壊れることに、意味がある。実際、話の中でもこのことの価値に気づき直したムジカムンドはこれまで通りにムジカドクターによる終わりのないモンストロの修理を継続させることにする。

私たちが生きているのはムジカムンドではないけれど、音楽を愛し、楽しみ、囚われてきた愛好家たち、そして意識していてもせずとも継承に参加してきた媒介者たる人間たちによる営みの上に今の音楽文化が成立している。この原点には「音楽をする人間」という私たちの遺伝子に組み込まれた素質がある。

音楽を愛する友人の一人が言っていた。

「音楽っていうものをやりたくて、私、人間を選んで生まれてきたような気がする」

そうなのだ。音楽は人間だけの特権ではないという研究も出てきているが、これだけ多様で豊かな音楽を作り出し、それを聞いても奏でても楽しめる種族というのは人間だけなのではないかと思う。そう考えると、この営みの虜になってしまった人間たちをエコロジーの言説だけで押し留めることはもはや難しいのではないかと思う。愛好家である私自身が押し止められたくないし、この文化を未来にもぜひ伝えたいと感じている。私が音楽を楽しむことで内面が充実し、魂が浄化され、ケアされてきたように救われる人だっているはずだから。「色々考えなきゃいけないのはわかってるけど好きなんだ!!」この肥大化したエゴが世界に向かって音楽への愛を叫ぶ。

未来、共につくるもの

エゴに身を任せて愛を叫びつつ、この「エゴる、エコる」のテーマに立ち帰って少し冷静になり、自分たちの愛する文化が他種に支えられ犠牲にもしている事実との折り合いをどうやったらつけていくことができるのだろう。

Ecomusicologyで素材的観点で言われているように、サステナビリティや素材そのものの自然への配慮といった観点もあるだろう。楽器店での会話のときに、この楽器の木材はどんなところからどんな育ちをしてやってきたのか、馬はどんなケアをされているのかと、職人さんたちと素材や影響について議論をしながら納得できるものを選ぶこともできるかもしれない。こちらの問いかけ方を変えることで楽器店の意識に働きかけることもできるかもしれない。

道具との関係性という意味では、「長く使い続ける」ということも欠かせない。弦楽器はそもそも木を乾燥させることで響きが良くなるため、古い方が音も良く価値があると言われていてオールド楽器の市場も活発だ。音質追求とサステナビリティが同じ方向を向けるのがこの点だ。私の楽器も以前誰が使っていたのかは知らないけれど中古のものなので、先の所有者が楽器と関わり合う中で作ってくれた音色に、今度は私なりの楽器との関係性から音作りを重ねている。このまま大事に使い続けて次の誰かに引き継くことで、音楽文化の継承とサステナビリティにほんのちょっとだけ貢献するのが筋だろう。

そして音楽という文化を持つ人間のお役目は生み出した音楽を他種にも還元していくことかもしれない。弓の毛を提供してくれる馬はクラシック音楽の特にゆったりとした緩除楽章を聴かせると大人しくなるということを聞いたことがある。植物もクラシック音楽の流れている温室ではその音源に向かって根を伸ばしていくとも聞く。彼らも音楽が発する波長を感じ取りリラックスしているのであれば、地球全体で人間が開くコンサートを楽しんでいるのかもしれない。だとするとコンサートを屋内に閉じている場合ではない。人間だけじゃなくて周囲の動植物も観客の仲間として一緒に音楽を味わっている世界はおとぎ話でなく現実に野外コンサートなどで実現しているのかもしれない。

エゴとエコの間の葛藤がなくなることはない。でもこれからも、音楽がある地球に生まれたことに感謝し、素材を提供していくれている他種、この文化を作り上げてくれた先人たちにも感謝をしながら、地球全体で音楽を楽しみ、未来への種を残していきたい。