多種多様な存在をステークホルダーとして捉える

冒頭では田島氏が、Deep Care Labの活動や本イベントの背景にある考えを紹介しました。

田島:近年、環境危機や社会の分断など様々な課題が叫ばれており、背景にはそれぞれ複雑な要因や構造があります。ですが、それらの問題の根っこには「今、この時代を生きる私さえよければ、それでいい」という感覚やあり方が隠れているのではないか。そうした問題意識を私と代表の川地真史が抱えていたことから、Deep Care Labの活動が始まりました。

私たちは、あらゆるいのちと共にある地球に向けて、過去や未来を含めた「いのち」に意識を向けること、必要な想像力を育んでいくことをめざして活動しています。

さまざまな社会課題について「今、この時代を生きる私」の視点からだけではなく、過去や未来、あるいは人間以外の種など、さまざまないのちも含めた「私」の視点から捉えていけるのではないか。そうした感覚やあり方へのシフトが、よりよい未来を手繰り寄せることにつながるはず。そう考え、自治体や企業、研究者、市民の方々と教育プログラムや事業づくりなどの形で、研究と実践を重ねてきました。

田島:今回のイベントのテーマは、まさに人間以外の種、さまざまないのちとの「共創」についてです。

最近では、ビジネスの領域でも、株主や顧客だけではなく、地域社会や行政などにもステークホルダーを拡張し、捉えていこうという動きが起こりつつあります。

ですが、その範囲は人間の世界に留まっているとも感じています。私たちのいのちや暮らし、ビジネスや営み、そのすべてを支えてくれる生態系や自然をもステークホルダーとして向き合えないか、今日は想像力を広げてみたいと思います。

例えば、一皿の食事も、いろんな関わりあいによって成り立っていますよね。

田島:まず、食文化を築いてきた祖先や、食事を作った料理人の存在があります。他にも、食材として使われている野菜や、それを育てている農家さん。野菜が育つための太陽や土。土をつくっている微生物や水。時間に目を向けると、土ができるまでに100年単位の膨大な時間がかかっています。さらに未来に視点を広げれば、目の前の食事が将来の子どもたちに何かしら影響を与えているかもしれない。

このようにステークホルダーを幅広く捉えたとき、もっと考えられることがあるのではという問いが、本日の話の前提にあります。イベントを通して皆さんと色々な可能性を探索できればと思います。

人間を“独立した主体”と捉えることの限界

イベントでは、法学者の稲谷龍彦さんとパーマカルチャーデザイナーの大村淳さんが、それぞれの視点から本日のテーマについてインスピレーショントーク(議題について発想や考えを刺激するプレゼンテーション)を行いました。

企業犯罪を中心に研究を重ねてきた稲谷さんは、「マルチスピーシーズと法」と題し、人間以外の種を組み込んだ法や統治のあり方について共有します。冒頭では「人間は環境から独立して正しく振る舞うことができる」という前提やその問い直しの必要性を語りました。

稲谷:今運用されている近代法のあり方は「人間は環境から独立して正しく振る舞うことができる」ことを議論の出発点としていると言われます。だから、自由意志を適切に働かせずに、守るべきルールを守らなかった人が悪いので制裁を加える、と考えるわけですね。これは18世紀に出来上がり、19世紀から20世紀にかけて模範とされてきた考え方です。

近代法の前提となる人間のモデルを作ったのはカントだと言われています。彼は人間を外的環境から独立した主体として考え、行為や判断は全て行為者の自由意志にもとづくとしています。人間はちゃんと頭を使って理性を働かせれば、自分の行動や意味を適切に認識ができると。だから人間は一人ひとりが罪を犯さないよう自分をコントロールしてください。そういう前提で人間を捉えているんですね。

一方、人間は置かれる環境によって、変わっていくのが普通でもあります。例えば、歴史ある大企業で働き、養う家族や住宅ローンを抱えている人が、少し法に触れるかもしれない業務を行うよう伝えられる。さらに上司や先輩からも遂行するようプレッシャーをかけられる状況に置かれたら。普段は悪いことをしない人でも、ひょっとしたら罪を犯してしまうかもしれない。

もちろん、だから許しましょうという話ではありません。ですが、置かれた状況によって人は変わり得るとしたとき、ただ罪を犯した人を捕まえて制裁を加えても、本人にとっても社会にとっても、あまりいいことがないとも思うんです。実態として人間は環境から独立できないし、他の人との相互依存関係のなかでしか生きていけませんから。

そうした事実を直視した際、どんな法制度のあり方がいいのだろうという問いが、私自身の探究の始まりになっています。

稲谷龍彦(いなたに たつひこ)/ 法学者
東京大学文学部卒。京都大学大学院法学研究科法曹養成専攻修了。現在、京都大学大学院法学研究科教授及び理化学研究所革新知能統合研究センター客員研究員。専門は刑事法。現在の主要研究領域は、科学技術と法及び企業犯罪対応。哲学・経済学・認知科学等の様々な隣接諸科学の成果を取り込んだ学際的アプローチを通じて、近代刑事司法の基礎に遡って根本的に反省しつつ、その枠組みにとらわれない創造的解決を提言できるよう、日々研鑽を重ねている。主要著作として、(単著)『刑事手続におけるプライバシー保護』(弘文堂 2017年)、(共著)『アーキテクチャと法』(弘文堂 2017年)、(共著)『AIで変わる法と社会』(岩波書店 2020年)などがある。

AIによる事故が問い直す「人間」の捉え方

「人間は環境から独立できないし、他の人との相互依存関係のなかでしか生きていけない」という前提から法を考える。その必要性を浮き彫りにしているのがAIによる事故だと、稲谷さんはテスラの事故の例を挙げながら説明します。

稲谷:テスラの自動運転車には、渋滞中に前方の車の挙動を感知し、自動で適切に動いてくれる機能があります。日本のとある運転手は、渋滞している高速道路でその機能を使っていました。そして、つい居眠りをしてしまったんです。その後、しばらくして、偶然AIが前の車の挙動から「渋滞を抜けた」と勘違いして急加速、死傷事故を起こしてしまいました。

稲谷:この事件の第一訴訟では、裁判所として「システムにも欠陥があった可能性はあるが、運転手が寝なければ事故は起きなかった」と確実に言えるとして、有罪判決が下されました。一方、第二訴訟では、テスラに対して運転中の人の注意を維持できるように装置を作らなかったことによって死者が出たことへの賠償を求める民事訴訟が起こされました。

興味深いのは、どちらの訴訟も車の欠陥が重要なポイントになっていますが「人間が意志に基づいて自動車をコントロールできる」という前提が争われていることです。第一訴訟と第二訴訟では、コントロールできなかった人のせいなのか、ちゃんと動かなかった機械のせいなのかを、それぞれ争っている。

単純に「人が寝なければよかったのでは」と思う方もいるかもしれません。ですが、実はこれには難しい問題があります。というのも、自律性の高い機械と人間が協調動作をしていると、だんだん人間の方が「自分が行為している」感覚が下がっていくと確認されているからです。しかも、人間は低い頻度でしか起きない出来事に素早く対応するのが苦手なので、機械の性能がいいほど危険性が高まってしまう。

先ほどのテスラのケースに戻ると、自動運転の性能が高く、「信頼できる」と思って乗ると、主体性感覚や注意感覚が下がりやすい。危険な出来事が起きても元に戻れない状況を テスラの自動運転装置がつくっている可能性があるわけです。

そうなると、どれだけ乗っている人に「注意して」と言ったところで、同じ車に乗ったら誰でも同じ事故を起こしてしまう。だから人に罰を与えたとしても事態は改善しないかもしれない。

それなら「そんな車を開発した人が悪い」のかというと、そう言いきるのも難しい。人間が機械から受ける影響は、人間と機械が協調動作をすると何が起きるのかなど、実験や研究を積み重ねて初めてわかってきた話。開発段階からあらかじめすべてを見据えることは困難でもあるでしょう。

「使っている人の問題だ」「いや、作った人の問題だ」という意見は、両方ある部分で正しく、ある部分で間違っている。というのも、あらかじめすべてをコントロールできる主体を想定して責めたところで事態はあまりよくならないからです。私たちは、事物と人間、あるいは人間と人間以外のものが影響を与えあって存在する、マルチスピーシーズ社会を生きています。考えなくてはならないのは「影響を与え合うなかで起きた事象に、どうアプローチするのが最もいいのか」という問いではないかと思っています。

「どうあるべき」から「どうありたいか」へ

事物と人間、あるいは人間と人間以外のものが影響を与えあっている。マルチスピーシーズ社会における法を考えるうえで、稲谷さんは私たちが「『どうあるべきか』から『どうありたいか』について議論をするステージに移っているのでは」と問いかけます。

稲谷:例えば、2017年にニュージーランドでは、先住民であるマオリ族が崇拝する川に、法的人格が認められました。マオリ族の文化や生活習慣、生態系を守っていくために、どういう法の使い方があるかという観点から生まれてきた制度です。このように私たちは、様々な種と混合しながら存在していることを認識し、「どうありたいか」をベースに法をうまく活用することもできるかもしれません。

日本でも、サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会「Society 5.0」の検討が進んでいます。ここでの議論は、AIやロボット、動物、植物と共にある社会を実現するためには、どんなガバナンスシステムが適切なのかという議論に応用できるでしょう。

例えば、自律飛行ドローンを飛ばす場合でも、場所によって必要とされるドローンの性能は変わる可能性があります。貴重な鳥が生息する地域では、効率的でお金がかからないルートがあったとしても、守りたい鳥への悪影響を考慮して違うルートを選ぶことがあっていいわけです。

その際、鳥についてきちんと科学的な視点を持って説明してくれる人は、鳥と共に存在している自分を良いと思い、異種との共生を目指して議論したいと思っている。つまり、ある部分においてその人は「鳥を代弁する人」となっています。

こうした人以外の存在が含まれる民主主義のあり方が部分的にでも実装されていくことで、より面白い社会のあり方を模索できるのではないでしょうか。

持続可能な暮らしをデザインする3つのコンセプト

続いて、パーマカルチャーデザイナーの大村淳さんが、自然界に人間がどう入り込み、多種と共創パートナーになっていけるのか、実践からの学びを共有しました。まずはパーマカルチャーの基本的な考え方を紹介します。

大村:パーマカルチャー(permaculture)は英語で永続性を表す「パーマネンス(permanence)」と生活様式といった文脈での「カルチャー(culture)」を組み合わせた言葉です。今風に言えば「持続可能なライフスタイルのデザイン」でしょうか。

ビル・モリソンとデビッド・ホルムグレンという2人のオーストラリア人が、いかに今後世界が持続可能な暮らしを実現していけるかを日本を含めた世界各地のその気候風土で途絶えることなく暮らし続けてきた先住民の人々の知恵をまとめたものが土台となっています。その後、様々な人たちが世界各地でデザイン体系として進化させたものが、パーマカルチャーと呼ばれるようになりました。生まれた時期は1970年代。ちょうど経済成長がこのまま続くと、どこかの時点で成り立たなくなるのではと言われ始めたタイミングでもあります。

大村淳(おおむら じゅん)/ パーマカルチャーデザイナー、ヨガ・インストラクター
静岡県浜松市在住。 静岡県立大学 非常勤講師/未来づくりフェロー、菊川西中学校 ESD教育特別講師。2010年にパーマカルチャーセンタージャパンで、実習&デザインコースを卒業後、自分たちが暮らしている町をパーマカルチャーの町にしていく活動を始める中で、食べられる森・フォレストガーデンを個人邸や企業敷地、耕作放棄地や山林にデザイン施工する合同会社Permaculture Design Lab.を立ち上げる。日々の日常は浜松の都市郊外でサブ・アーバンパーマカルチャーをテーマに、フォレストガーデンを地域コミュニティや教育機関と関わりながら、自然生態系・人間生態系の双方が豊かになる暮らしを実践中。有用植物オタクで、人と生き物が深くつながりあうきっかけとして暮らしにつながる植物の紹介も行っている。

大村:パーマカルチャーのデザインには、3つのコンセプトがあります。世界中の伝統的な持続可能な社会はこの3つを大事にして暮らしていたとされます。それが、Earth Care、People Care、Fair Shareです。

Earth Careとは、自然や生き物が大切にされていることです。自分達の生存するために頼っている自然や生き物が健全で大切にケアされている状態でないと、人間が生存すること自体が難しくなってしまいます。

People Careとは、自然や生き物だけでなく、人間という生き物も大切にされていることです。自分自身はもちろん他者も含まれます。

そして、最近僕はこのPeople Careに「過去、そして未来の人々が大切にされているかどうか」という観点も加えて、考えるようにしています。

僕たちがある土地で持続可能な暮らしをデザインしようとするとき、その土地には誰かが手を加えたり、関わってきた歴史がある場合があり、それだけでなく、世界各国の過去の人たちが試行錯誤して生み出した伝統文化や技術、知恵を自分達が今活用させていただいている。今こうして語っているパーマカルチャーの思想の多くも、世界各地で脈々と受け継がれてきた人々の試行錯誤の結晶で構成されています。

最後にFair Shareは、人と自然が生み出した豊かさが、再び人や自然へとそれぞれのニーズを満たすために行き渡るシステムを作ることです。

人と生きもののための「食べられる森」をデザインする

パーマカルチャーのルーツや大切にしている考えを踏まえ、大村さんは「Fair Share」を表現する手段として、自身が静岡県浜松市にて育ててきた森「フォレストガーデン」を紹介します。

フォレストガーデンは「森のような菜園」を指し、生きものたちが豊かに暮らす若い森をモデルに、さまざまな実りやその豊かさを持続的に再生し続けるようデザインされた森だと言います。

大村:パーマカルチャーと同様、フォレストガーデンもそれぞれの風土のなかで、永続的に暮らしてきた人たちの知恵からインスピレーションを受けています。

具体的には、狩猟採集民族たちの暮らしですね。彼ら彼女らの生活空間は自然界に深く組み込まれていて、自分たちが生きていくために必要なものをその場にある自然からいただいて暮らしています。そのため、自分たちの暮らしそのものである自然を破壊することがない、という前提がある。

産業的な農業が暮らしを支える今の世界と、狩猟採取民族の生きた自然が豊富な世界。この2つの世界の違いはデザインにどのように表れるのか。写真で見比べてみたいと思います。

大村:左側の写真は、キャベツしかない畑です。キャベツという植物は大量に収穫できそうですが、それ以外のものはありません。極端な例ですが、この畑で暮らしていきましょうと言われたら、少し躊躇うかもしれません。

逆に、右側の写真は多種多様な植物たちで満たされ、その中で人間が暮らしていくのに必要なものだけを狩猟採取していく場。森の中に入って頑張って探したらいろんなものが見つかりそうですが、入るのは少し怖い、人によってはリスキーだと感じそうです。

フォレストガーデンは「食べられる森」とも言われています。右側の写真のような森の持つ多種多様さと永続性をベースに、僕たちが生きていくために必要な食べ物を森に似せてつくっていくアイデアです。

大村:どのようにフォレストガーデンがデザインされているか、簡単に紹介しましょう。まず、神社仏閣によくあるような「キャノピー(高木)」があり、「クライマー(背の高い植物に這い上がるようにして育つ蔓性の植物)」が植えられています。大きな木の下には、スモモやリンゴなど、手でもいで食べられるフルーツの木があります。さらに下にいくと、シュラブ(灌木)と呼ばれる層があり、ブルーベリーなど低木が育っています。

地面に近づくと、草の世界。野菜や山菜、お花などですね。地面では日陰でも育つクローバーやハーブ類といった植物たちのグランドカバー(地覆)があります。アンダーグラウンド(地下)では、ニンジンや大根など、根菜の世界が広がります。

このように森の仕組みをモデルに複数の層をデザインすることで、いろんな高さや種類の植物が密集している場所を食べられる森に変えていけるのです。

フォレストガーデンが気候変動へのソリューションに

大村さんは、フォレストガーデンには「楽しさや嬉しさ、美味しさ」に加えて、食料資源不足や気候変動などの課題を解決する可能性も詰まっていると考えています。

大村:世界のどこかで戦争が起きて、資源供給が絶たれると、途端に生活が回らなくなってしまう。そうしたシステム上の問題を、各地域で自生できる植物や生き物をうまく導入することでケアできないかと考えています。

例えば、自然界の仕組みを積極的に組み込んでいくと、化石エネルギーベースの化学肥料に頼らない場の設計ができます。肥料木や緑肥と呼ばれる、土地を豊かにする植物は多くあり、フォレストガーデンでも導入しています。馴染みのある植物だと、タンポポやクローバーも緑肥の一つです。

さらに、お花をたくさん植えると、お花の香りに引き寄せられて、アブや蜂がやってきます。彼らの多くは肉食なので果樹や野菜につきやすい病害虫——人間が勝手に良い悪いを決めているだけですが——を食べてくれて極端な1種の生き物の過剰発生のバランスとってくれるんです。

また、最近はフォレストガーデンが気候変動への対策としても機能しているのではと考えています。降水量の多さや気温の上昇によって、農作物が不作ですといったニュースを見かけたことがあるのではないでしょうか。要は作物が気候の変化に対応できなくなっているわけですね。

一方、かつての多種多様な植物と共に暮らす世界では、暑くなったら暑さが好きな植物が育ち、寒くなったら寒さに強い植物が育つ。いろんな植物が混在することによってあらゆる生き物がその生存をカバーし合っていたと思うんです。そして、人間は食料など生活のニーズを満たすために、うまく多種多様な植物と順応していたのではないかな、と。

それにならって、フォレストガーデンでは浜松市の比較的暖かい土地柄に合う熱帯系の植物だけでなく、あえて寒冷帯の植物を植えることもあります。最近は雨も多く降るため、雨に弱い植物は少ししか収穫できません。それでも僕たちの暮らしは収穫できるものをベースに回っています。

(出典元 『人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか』より)

大村:稲谷さんのトークにもありましたが、私も課題に対して何か一つを「悪い」とすることへの限界を感じています。いかに物事をつながりとして見ていくか、そのつながりによってシステム全体の健全性が高まるようにデザインできるか。

実際にフォレストガーデンではいろんな生き物の力を借りる必要があります。重要なのは、そこに人間の力も加わって初めて、目指す森の姿を実現できるということです。人間の暮らしがどれだけ生態系を破壊しているかというエコロジカル・フットプリント(※)といった指標も重要。ですが、これからは“エコロジカル・ハンドプリント”、つまり人間がいかに生態系や自然を豊かにしているのかにも光をあてていくことが大事なんじゃないかなと思います。

※私たちが消費するすべての再生可能な資源を生産し、人間活動から発生する二酸化炭素を吸収するのに必要な生態系サービスの総量(参照:WWF JAPAN

法のポリフォニー的アプローチと「キャベツしかない森」の危うさ

法とパーマカルチャー、それぞれの領域からの考えが共有されたところで、イベント後半では両者の重なりやそこからの気づきなどを語り合いました。稲谷さんが初めに挙げたのは、過去や未来の人間もステークホルダーとして捉えるという大村さんの考え方と、法律における“ポリフォニー的”な考え方の共通点でした。

稲谷:先ほど大村さんが「過去、そして未来の人々が大切にされているかどうか」を考えるというお話をされていたじゃないですか。これは法律においても近しい考え方があるんです。

例えば平安時代に中世の貴族の間で用いられていた『有職故実』という法。ざっくり説明すると過去のケースの集積です。「以前はこうやってうまくいった」とか「以前はこういう話があった」といったことを積み重ね、いつの間にか法になっていったようなイメージ。

また、現代の法律でも、英米の法は一つひとつのケースを積み重ねて考えていくので、大きな改革を好まないこともある。極端な改革よりも一つひとつ少しずつよくしていく。「過去に判断した人も自分と同じくらい真剣に考えて判断したのだから、そこには何かしら理由があるのだろう」と考え、理解して、受け継いでいく。ポリフォニー的と言いますか、過去や現在の人間が共に奏でていくものなのです。

そこと繋がるように感じたのが、大村さんの話に出てきた「キャベツしかない森」と「多種多様な植物たちで満たされた森」の話。キャベツだけの風景は、ある意味現在の状況を過度に一般化して、「これが正解だから、これでいい」と突っ走るやり方ですよね。これで人間は過去に特定の誰かを深く傷つける法律を生み出し、間違いを犯してきた。だからこそ、過去を生きた人も含め様々なステークホルダーと、ポリフォニー的に慎重な議論と思考を重ねる必要がある。

本来、人間の生きる社会はとても複雑なのだから、どこを変えたらどう影響するか予想がつかない。だから少しずつ慎重にやっていきましょう、と。先人の知恵をなるべく生かそうとする。法学におけるこうした発想は、大村さんの語られたパーマカルチャーの発想と近いなと感じました。

もう一つ、人間たちと生態系のあり方を丸ごとうまくデザインし直すことで、食糧危機や気候変動など、私たちをめぐる課題を乗り越えていくというお話も興味深く伺いました。そのためにフォレストガーデンのような活動をどのように経済的に持続可能なものにできるのか、テクノロジーや法律、政策などの観点からもできることは多いのではと発想が広がりました。

例えばですが、農地の管理にIoTやAIをどのように組み込んでいけるのか、農業をめぐる法律をどのように今の状況にあった形で解釈、適応していけるのかなど、可能性と課題が両方あるなと感じています。

大村:おっしゃる通り、今の農地法は、植林をすると「山林」という扱いになってしまうなど、「畑で多様な作物を育てる」以外の農地の使い方があまり想定されていないんです。なので、フォレストガーデンのように、森であり畑でもある場所は、どう捉えるのか判断がとても難しい。けれど、僕はその判断できない混ざった土地利用の状態をつくることこそ、生態系における多様性の復元につながると信じているんです。そして、その価値がより広く認識されるようになっていくと、私たちのような活動をめぐる状況も変わってくるのかなと思っています。

引いて、見る。その場で起きているパターンを理解するには

後半では、私たち人間が多様なステークホルダーとともに生きるうえで、これから先、何を考え、実践していく必要があるのか、稲谷さんの挙げた「複雑」をキーワードに対話が広がりました。

田島:Deep Care Labでも、モノカルチャーや効率性などを重視していた近代的なあり方からのシフトが必要だと考えています。その際に大事なのが、まさに複雑なものを複雑なまま捉えることではないかと思うのですが、言葉で言うのは簡単で、実践するのはとても難しい。お二人はどのようにアプローチしていますか?

大村:僕たちの暮らしを取り巻く生態系は、本当に複雑です。細かいものを見れば見るほど、そこにはカオスしか見えなくなってしまう。だからこそ、パーマカルチャーはデザインをする上で「パターンを見る」こともが非常に重要とされてきました。まず思いっきり引いた視点から、自分が普段知覚できていない自然や生きもの人々との間にどんな振る舞いが起きているのかを理解することから始めるんです。

具体的には「一年間何もするな」と言われます。一年を通して季節折々で風はどう吹いてくるのか、過去どんな変動があって土地ができているのかなどを理解していくと、自然の流れが見えてきます。そのパターンこそが永続性なんですよね。そのパターンを数多く見つけて、それら味方にしていく。終わりなき自然の力学に反抗することをやっているといつかこちらが潰れてしまいます。そのため僕たちが介入することが難しい領域の存在を認め行為に前向きな制限をかけ、活かし合える関係でいられる『おさまり』を理解するとうまくやっていけるのではと思っています。

稲谷:おっしゃる通り、私も鍵となるのは時間だと思います。効率性という概念自体は、時間との関係で言うと、非常に曖昧な概念ですね。

例えば、短期的な目線で見るなら、一つの農作物を大量に植える、モノカルチャーなやり方が効率的に見えます。でも長期的な目線で見るなら、その畑が持続しないのは効率的ではないとも言える。無駄に土地を使い、たくさんの肥料を使い、人もエネルギーも注ぎ込んだ結果、悲惨なことになるかもしれない。短期的に、ある段階で切ると、効率的に見えるというだけの話なんです。

だからこそ、まず時間軸をちゃんととることはすごく大事。大村さんのパターンのお話は、時間軸をとることである種のモデルが見えてくるから、それを上手に使いましょうということだと思います。法学の世界でも、問題をどんな視点でどのくらい解決するのかを考える必要があって。事件を解決することも大事なんだけれど、それと同じくらいどんな結果をもたらす可能性があるのかを視野に入れて判断することが求められる。

先進的でラディカルな判決は、後々ものすごいバックラッシュを生む場合もあります。解決したときは多くの人が正しいと思っていたとしても、長い目で見たら混乱が起きて、違う解決方法がよかったかもしれないと議論が出ることもある。

そうしたコントロールできない範囲を理解した上で、実行するのは非常に大事なことです。「この考え方が正しいから従いなさい」とすると、社会に分断や対立を生んでしまう。法は多くの人が共存するためのツール。感情的な対立や永続的な分断を起こしてしまっては法の仕事としては望ましくない。対立や分断を避けるためにも、時間軸を長めにとったり、パターンを見たりすることは、法の世界でも重視されていくでしょうね。

ケアすることで、自分もケアされる循環をつくる

イベントの最後は、Deep Care Labの活動にとって重要なテーマである「ケア」という観点について、稲谷さんと大村さんが対話を経ての考えを共有しました。

稲谷:他者をケアすることによって、自分自身も救われる可能性があるのではと思っているんです。ケアすることで自分もよりよくなる状態をいかにつくるかが肝なのではないか、と。やっぱり利他だけだとお互いに疲れちゃいますから。

これは仏教的な発想とも通ずるところがあります。仏教って「私が悟って、あなたを救う」ことを重視するんです。私が悟ることはあなたのためでもあるし、あなたが悟ることは私のためでもある。その観点からも、人間がよりよくなっていくことを中心に生態系や自然をデザインするのは核心をついていますし、法の仕組みを考える上でも外してはいけない視点だと改めて感じました。

大村:人々が身近なところから自然とつながり自分自身を含めたケアを始め、それらが共有続けていくと、地球というエコシステム全体が復元されていくんじゃないかと思っているんですよね。それは、僕がフォレストガーデンで実現したいことでもあります。

目の前で取り組んでいる森づくりは、単純に嬉しかったり楽しかったりすると同時に、大きな視点で見ると、世界の危機的な状況とつながっている。いろんなレベルで物事を見れると面白いし、自分ごととして参加もしやすく、どこか無関心や無力感の下にもなる個人の世界に対する影響力の再生にもなるんじゃないかと考えていました。

田島:お二人とも本日は刺激的なトークをありがとうございました。