山本 文弥(やまもと ふみや)​/ 花人・御嶽行者
池坊から花の道へ。その後、なげいれ、たてはなを学ぶ。2018年、長野県木曽地域に移住。食を楽しみ、花をいけ、山に祈りながら暮らしている。著書に『Post-Mortem Portraits: 死してなお生き延びる花』、論考に「生殖器崇拝としてのいけ花」など。

神仏に捧げられた古代の花

Module2ではまず、私が「原初花道」と呼んでいる花の文化の一端に触れていただこうと思います。「原初花道」とは、流派化や形式化される前から存在する、ただ純粋に神前に一花をたてる、聖なる活動です。人間の手によって花を自然の状態から文化の状態へと昇華し、人知を超越した領域にアクセスすることで、心願の達成を目指す。そうした花の体験を、今回みなさんと一緒にしたいと思います。

花を生ける文化は、大昔から存在しますが、人々は何を目的に花を生けていたのでしょうか。まずはこの問いを念頭におきながら、前提の知識を揃えるために、花の歴史を簡単にご紹介します。

遡ると約1万2千年前に、死者の供養に花が使われたと言われています。日本では6世紀ごろ、仏教伝来とともに、神様や仏様に花を捧げる「供花」という文化が広まりました。15世紀ごろになると、足利義政の時代に文化が花開き、形式化や流派化が進んでいきます。19世紀頃には明治維新の影響で西洋のフラワーアレンジメント文化が輸入され、日本古来の花道や生け花とは少し異なる、花を飾る文化が伝わります。

第一次世界大戦ごろには、儒教の思想である「良妻賢母思想」が広まります。いい妻たるもの、花の文化を知っておくべきだと。この思想によって、花は女性の文化へと変化していきます。つまり花は以前までずっと、武士や仏様に仕える僧侶など、ほとんど男性の文化だったんですね。

第二世界大戦ごろになると、生け花の芸術化運動が活発化します。仏様のための花や祈るための花ではなく、もっと芸術化すべきだと。同時期に近代化も進み、園芸種や外来種の花が増加していきました。今ではタンポポは、ほとんどセイヨウタンポポですし、ケシの花が線路を覆っている光景など、外来種をたくさん目にすると思います。すると元々そんなに強くなかった在来種は負けてしまい、現在に至ります。これが花道と花の歴史の、まとめになります。

私が危惧しているのは、今や原初花道や古典生け花が絶滅の危機にあることです。象徴的な光景として、床の間の変化があります。かつて、ほとんどの家にあった床の間は、今ではあまりありません。床の間はそもそも、神様の居場所。仏様の像の写しである掛軸をかけ、花を捧げるという、仏教の文化そのものでした。でも、だんだん家から床の間がなくなり、神様の居場所がなくなってしまいました。

他にも、園芸種の花が増加し、神様のために山に花を採りにいく文化も徐々になくなっていきました。昔は毎日季節ごとの花を探し、床の間に生けていました。でも今はそうした文化も珍しくなり、簡単に言ってしまうと、単に人々の生活を飾るだけの花になりました。

そうは言っても、今でも結婚式には花を贈りますし、お盆にはお墓に花を供えて手を合わせますよね。宗教観も文化も床の間もなくなったとしても、やはり花の向こうに、何かを信じている。おそらく1万年以上前から、変わらないことなのでしょう。だからまだ、まだなんとか、できるだろうと思っています。

花によってヒューマンスケールを超える

では、神仏のため、あるいは超越的な何かのための花とは何だったのか。つまり、ヒューマンスケール(人間の身体を尺度にして考えること)を超える花とは何か、考えてみましょう。

古代の花は、大きく2種類にわけられます。1つは仏に供えるための花。供花と言われますね。もう1つは神の依代としての花。この2つは似ているようで、違います。仏に供える花は、仏様に喜んでもらうために花を渡します。一方、神の依代としての花は、ご神木のように、そこに神様に降りてきてもらうための花。どちらも神仏が関係していることには変わりがなく、古代の花はヒューマンスケールを超えていたと言えます。

山本氏がヒューマンスケールを超える花として紹介した、『立花風俗色紙』の絵。人々が花を生けている場面だが、中央の花は人間のサイズを優に越えている。「こんな大きな花、現実にはありえないですよね。当時の人々は、花が人間のスケールを越えていることに実は気づいていた。日本人の花に対する精神性が、この花の大きさに現れていて、個人的にも好きな絵の一つです」と山本氏。

一方、現代の花は、ヒューマンスケールです。部屋の装飾など、人間の暮らしのためやインテリアとしての花が大半を占めます。もともとヒューマンスケールを超えていたのに、いろんな文化が混ざり合った結果、ヒューマンスケールに閉じてしまった。その結果、昔ながらの神仏に供える花の文化がなくなりつつあります。

供える花と依代の花、どちらも常に神様や仏様のためにありました。人間ではなく、神様に喜ばれる花を用意していた文化がちゃんとあったんですね。私も花を生けるときには人間ではなく、どんな花を生けたら神様は喜ぶかを常に考えています。

そもそも日本にとって神様は、ゲストなんですよね。ある場所にずっといるのではなく、何かあったときにお招きする。ただ、神様はそのまま地上に降りて来られないので、必ず依代となる中継地点が必要になります。例えば、磐座(いわくら)やご神木ですね。この依代は、人間にしか立てることができなかった。だから、人間は常に花をたてていたんです。これが古代の人間と花の関係ですね。

ところで、どうしてヒューマンスケールを超える必要があるのでしょうか。これはなかなか難しい問いです。なぜなら、私たちは人間だからですね。人間である限り、人間中心に考えざるを得ない部分があります。

例えば、極論を言ってしまえば、本当に地球のことを考えるなら、人類が滅亡すればいいという結論に辿り着いてしまうかもしれません。でも、人間である以上、そういう結論に辿り着くわけにはいきませんよね。人間でありながら、人間以上のことを考えるのは、やはりすごく難しいことです。

そこで1つ手がかりになりそうな問いとして、人間は聖なる生き物なのか、正しいのか、善なのか考えてみたいと思います。

私の感覚だと、きっとそんなことはありません。人間は清らかで、聖なる生き物だったらもちろんいいのですが、残念ながらそうではない。醜い欲望があるし、ときには悪さもしてしまう。それが、人間世界の現実かと思います。ただ、だからこそ社会をよくするために、自らを律する必要があります。欲望のまま何も考えずに行動してしまうと、どんどん人間は悪になってしまうし、社会も悪に染まっていきます。

そこで何とか律するために、特に日本では「お天道様が見ている」といった感覚を信じています。誰にも見えないところで悪さをしたとしても、必ずお天道様は見ているから、悪さはしてはいけないと。そうした人智を超えた存在の力に頼って、自分たちの心を磨き、律してきました。

しかし現代では、そうした存在はどんどん失われ、ヒューマンスケールで物事を考えるようになりました。その結果、気候変動やエネルギー問題などいろんな課題が発生しています。人間は心の修行といった「道」を失っているのではないかと思っています。

神様は常に想像されることを待っている

神様のことを考える際、「神は死んだ(God is dead)」というドイツの哲学者ニーチェが残した言葉を思い出します。超越的なところに真理があると考える文化は滅び、合理性や経済性が優先される世の中になった、と。まさに現代もそうだと思います。宗教的なものはちょっとイメージが悪く、経済合理性が優先される。もっと大事なことがあったのではと思うものの、なかなか実践できない。ニーチェが言った通りになっていると感じます。

私がここで言う「神」は、必ずしも宗教上の神だけを指すわけではありません。先ほどのお天道様や精霊など、人間ではない「超越的な存在」を意味します。「神なるもの」とも言えるかもしれません。

もう一つ、哲学つながりで、ジャック・ラカンという哲学者が書いた図を持ってきました。

ラカンは人間には主体(S)があって自我(a)があると言いました。主体は身体で、自我は心ですね。自我は友人や家族など、他者(a’)の影響を受けている。そして興味深いのが、神様や文化といった「大文字の他者(A)」にも影響を受けて、自我は成り立っていると説明しています。先ほどのお天道様も、この大文字の他者ですね。

大文字の他者が存在する領域を、ラカンは「象徴界」と呼んでいます。「神は死んだ」は「象徴界がなくなった」と同義です。つまり他者はいるものの、神様や文化など無意識のうちに自分を制限するものが、だんだんなくなってきたと。

でも私としては、「神は死んでなどいない」と思うのです。ヒューマンスケールを超えた世界、つまり超越的なものは、人間の想像力の中にあり、神様は常に私たちに想像されることを待っている。私たちが想像さえすれば、そこに必ず神様はいます。

では、私たちが追放してしまった神々や精霊に、もう一度出会うには具体的にどうしたらいいのでしょうか。その方法の一つが、花を「たてる」ことです。

花をたてるとは、どういうことなのか。これはすごく簡単で、器の中にまっすぐ花がたてばいいんです。精魂込めてしっかりとたてる。正しく安定するようにすえる。そのために今なら剣山を使いますが、昔はありません。そこで、いろんな工夫をしていました。例えば、石や砂を敷き詰めたり、石に穴を空けたり。花道の歴史は、花どめの歴史でもあります。

プラクティス・セッションでは、みなさんに「神前に一花をたてる」をテーマに花をたててもらいました。

花をたてる前に、祈る対象として「自分にとっての超越的な存在」を考えてもらったかと思います。花道の世界では、何に対して何を祈るかがすごく大事なんですね。その祈りの達成のために、花をたてる。

もし花に神様が不在だったら、一体何の意味があるのでしょうか。花に対しては「生ける」とも表現されるように、命を与えるという意味があります。一方で、花をたてることは、花の命を奪う行為でもあります。

仮にも命を奪っておきながら、ただ部屋を飾るだけや自分が楽しむだけ、といった自己満足的な意味しかないとしたら——。一般的な方々にとってはいいかもしれませんが、花道家という人間にとっては、なかなか許される行為ではないと思っています。花を生ける行為は、神様といった超越的な存在があって、初めて正当化されると言えます。

花を生けるときに、花道家が必ず意識するのは、真摯に向き合うことなんですね。なるべく目的からエゴを取り除き、自己満足以上の意味をちゃんとつくる。花の向こうには、神様がいるわけです。神様に対して祈りを捧げ、願いを叶えてもらうために、花をたてています。

心から姿へ、姿から心へ

プラクティス・セッションでみなさんに花をたててもらったのには、理由があります。花道の始まりは、「しん」をたてることだと思っているからです。

『立華時勢粧』という300年ほど前の本には、「花を習ふに、先直心立を能指覚、扨除心。行草九品の花形、次第に可修練」と書かれています。簡単に言うと、花を習う時には、まず「しん」を立てることをするべしと。他にも『華厳秘伝大事』という本には、「花の道。心の修行」とあります。花の文化が形式化された頃には、こうしたことがよく言われていたわけですね。

花の文化は、こんな図で整理されることがあります。

神と人をつなぐために、花がある。言い方を変えると、花によって我が身を正す。花を通じて、神の視点や、神から見られている気がするといった「気のせい」や「勘違い」を獲得することで、自らを律していく。それが花の持つ、極めて大きな役割だと思います。

こちらは山岳信仰の中で唱えられている、『六根清浄大祓』という言葉の一部です。「六根」とは煩悩や迷いを引き起こす「目・耳・鼻・舌・身・意」の6つの器官を表します。

皆花よりぞ木実とは生る
我が身は則ち六根清浄なり
六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり
五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり
万物の霊と同体なるが故に
為す所の願として成就せずといふことなし

人間の体は、花や草木のように清らかなものなので、天地の神と同じものである。天地の神と同じということは、万物の霊と同じであり、願いが必ず成就する。つまり『六根清浄大祓』は万物の霊と自分をつなげることで、願いを叶えていく言葉です。昔からこうした言葉もあるくらい、体や心の修行が、願いを叶えていくことだと言われていました。

一方、人間を律する方法は他にもあります。こちらの連載記事でも触れた通り、現代には、行動を制限する4つの仕組みがあると言われています。一つは市場です。例えば、価格を変えることでモノを買いやすくしたり、買えなくしたりと、行動を制限できます。

『CODE 2.0』(ローレンス・レッシグ、翔泳社、2007)内の図を参考に山本氏作成

法と規範はわかりやすいですね。残りがアーキテクチャ。何らかの仕組みをつくり、知らず知らずのうちに、特定の行動をするようにしてしまう。この4つが、人の行動を制限していると言われています。

しかし、昔は市場や法が、現代ほど成熟していなかったはずです。では、どうやって自分を律していたのか。私なりの仮説が、こちらの図です。

1つは神やお天道様が見ているからと自分を律する、「神・宇宙」という超越的な視点。もう1つは自分の生き方を定めた「道」をつくることで、自分を律する仕組みです。市場や法が未整備だったからこそ、超越的な視点で自分を見ながら、心を磨く「道」を極めることで、清く正しく生きようとしたのではないかと想像しています。

つまり人間はもともと、法などの仕組みによって制御されるのではなく、神様といった超越的な視点と、自らの心の修行で倫理を獲得してきたんですね。花道でよく言われる言葉に、「心から姿へ、姿から心へ」があります。自分の心が花に出ますし、花が自分の心なんだと。だから、自分の心を磨かないことには、いい花は生けられないのだと思います。

超越的視点を獲得する装置としての花

最後にここまでの話を踏まえ、先ほどのジャック・ラカンの図をベースに、私なりの理想の世界図をまとめてみました。

ジャック・ラカンによる図を軸としつつ、山本氏作成

左には表向きの自分と真の自分がいます。主体と自我ですね。表向きの自分と真の自分は、常にやり取りをし、葛藤しています。それが「心から姿へ、姿から心へ」、つまり「道」です。この「道」は、科学的・現実的な視点である市場や法によって、かなり強制的・機械的に影響を受けています。一方、お天道様のように、超越的な視点はとても自律的で人間的ですが、現代では失われつつあります。

私たちは社会に属しているので、法や規範といった視点は必要です。でも、現実的な視点だけになると、他人によって創られた世界で、とても機械的に制限を受けながら生きることになってしまう。そうではなく、自分が信じる世界をちゃんと持って、その中でも生きることが大事なのかなと。そして花が、その手助けをしてくれると思っています。

図の右側に「俗」と「聖」と書きましたが、山岳信仰には「半聖半俗」という言葉があります。聖なる世界でも生きつつ、俗の世界でも生きなさいと。だから山に入るときには、身を清らかにして登り、降りるときにはご飯を食べて精進を落とし、現実の世界に戻る行事があります。ちゃんと、どちらも大事にしているんですね。だからこそ、科学も信仰も大事にしつつ、自分の世界をつくっていくことがすごく大事だと思っています。

お天道様をはじめ、何者かに見られているんじゃないかという錯覚や気のせい。おそらく科学的に言ったら本当に「気のせい」です。でもそれが自分の信じるものだったら、信じればいいわけですね。

だから、そうした感度をどんどん高めていって、ちゃんと自分が信じる世界を心の中につくっていく。その世界を真っ直ぐな気持ちや心でちゃんと守る。そうしたことが、これからの社会を生きる上ではすごく大事だし、ヒューマンスケールを超えた世界のことを考えて、自分を律することにつながると思います。

何より、花道が目指す理想も、本当はそういう世界なのでしょう。花をたてることによって、超越的な視点を獲得する。それによって、自分自身の「しん」がたつ。その心の修行が、花道なのではないかと。

『小篠二葉伝』という昔の本に、こういう言葉があります。

花を生るは天地の神を以て天地の神を建立する心也

花自体が天地の神であり、それを生けることで天地の神を呼ぶ。それが、「花をいける」ことなんだと。みなさんもぜひ、こういう精神で花と接し続けてくれたら、嬉しく思います。

執筆後記

プラクティス・セッションでは人生で初めて、花をたてる体験をしました。

住んでいる土地の神様に対して、つくりのよい焼き物に庭の小石を敷き詰め、同じく庭に自生していたムラサキツユクサを捧げることに。何とかたったものの、花は萎れて元気がない状態でした。よくない摘み方をしてしまったのかな…と罪悪感を覚えて、悶々としていたのですが、翌日花の様子を見ると、とても元気に、凛とした表情でまっすぐたっていました。花の命を終わらせた身でありながら、元気である姿にはどこか救われた気がします。神様も喜んでくれたのかな、とも感じました。

セッション後、町を歩いていると、山や田んぼ、雲や光などがとても神々しく見え、超越的存在がいたるところにいるような感覚がありました。まさに「神様は想像されることを待っている」とはこのことなのかと、八百万の神の起源を垣間見た気がします。

最近、家に神棚を設置しました。毎朝お供物を用意し、手を合わせて祈りを捧げる時間が自然と生まれました。家族とは、「何だか運気が上がった?」なんて話をしています。これも、「気のせい」なのかもしれないと感じながら、今日も一日を過ごしています。

なお、本記事でご紹介したセッションを含めたJourney of Regeneration のアーカイブ映像はEcological Memes のオンラインショップより購入することができます。興味がある方はぜひチェックしてみてください。