「人間は地球の主人ではない」とみる思想

初めに、奥野克巳さんから人類学におけるアニミズムの理解、日本の文学や宗教から捉えたアニミズムが共有された。奥野さんは、東南アジアのボルネオ島をフィールドに、熱帯雨林に住む狩猟採集民族の調査研究で知られ、動植物などの他種や、精霊などの諸存在が織りなす世界に人間を位置づけ直す「マルチスピーシーズ人類学」を探究してきた。

「マルチスピーシーズ人類学」とは、奥野さん曰く「複数種のなかに人間を位置づけ直すことによって進められている人類学」であり、人間だけを地球上の主人にしないという点において、アニミズムと同じテーマを抱えているという。

奥野:今日、なぜアニミズムが重要か。新型コロナウィルス感染症を例に挙げてみましょう。感染が拡大していた2020年2月末、フランスの人類学者フレデリック・ケックのインタビュー記事が示唆に富んでいます。

ケックによると、コウモリは19世紀のヨーロッパにおいて「中世の悪魔」と呼ばれる存在でした。その後、森林破壊を進めた結果、居場所がなくなり、人間の居住地の近くに住まなければいけなくなった。悪魔から、親しい隣人となったわけです。

そして、20世紀後半から、動物由来の感染症が頻発しています。その一因というのは、人間が地球環境の開発を推し進めた結果、住む場所を失った動物が人間に接近したり、違法に捕獲したりして、コウモリに共生していたウィルスが転移したからだと考えられます。

こうした人間の自然への侵入、支配、躍進は、いつ頃どのように進められたのでしょうか。

その起源は、ルネサンスにみることができます。ルネサンス以前、人間は神とキリスト教会の前では、取るに足らない虫けら同然であった。それが14、15世紀に偉大なる存在者へと引き上げられました。人間の持つ資質や可能性を探究すれば、ありとあらゆることができると考え、近代世界を打ち立てた。いわば、地球の存在者の主人に上り詰めたわけです。

この「自力で何でもできる」という考えが近代の特徴だと語るのは、作家の五木寛之さんです。人間は月にも着陸し、傲慢になっていった。人間本位に自然を開発し、自然の奥に分け入った。自然を我が物にしたのだ、と。コロナの世界的な蔓延の一因は、そのような人間の振る舞いにあるとみることができるのではないでしょうか。

人間は今「ウィルス」という存在に右往左往している。その狼狽は人間本位の振る舞いによるものだと、十分に気づいていないのかもしれません。いずれにしても、人間のもつ力を一心に頼みにしながら、自らを地球の主人であると確信し、人間本位に自然を利用する考え方は、ルネサンス以降、私たちに知らず知らずの間に行き渡ってきました。

こうしたイデオロギーと正反対の思想がアニミズムです。アニミズムでは、人間だけが地球の主人ではないと考えます。それは人類の古い宗教体系でも、単なる精霊信仰でもありません。私たち人間に共通してみられる、人間の精神的傾向だといえると思います。

人間と非人間、逃れ難い二元論

「人間だけが地球の主人である」という考えと正反対の思想としてアニミズムを紹介したうえで、奥野さんは19世紀から現在に至るまで、人類学においてアニミズムがどのように理解されてきたのかを辿っていきます。

奥野:人類学におけるアニミズムという言葉の初出は、イギリスの人類学者エドワード・タイラーが1871年に発表した『原始文化』まで遡ります。タイラーは、宗教の定義を「霊的存在への信念」としたうえで、人類の精神の深層に横たわる諸々の霊的存在への郷里を、アニミズムと名付けました。

つまり人間以外のものにも霊的なものがある、魂があるとする考え方です。その背景には「人間」と「非人間」を截然と切り分け、「非人間のなかにも、人間と同様の霊がある」と捉える。つまり「非人間」のなかに「人間」の性質を投影する、いわば二元論な思考が潜んでいました。つまりタイラーの考えるアニミズムは、人間と非人間、自然と文化の二元論ベースとする投影論だったわけです。

その後、20世紀になると人類学においてアニミズムは関心の埒外に放り投げられ、議論の進展はみられませんでした。

それから20世紀末に、いわゆる人類学における存在論的転回(西洋的な「自然/文化」の認識や「人間/自然」の二元論的思考を批判し、見つめ直す思想的潮流)のなかで、再びアニミズムが取り上げられるようになりました。

その代表的人物が、南米の先住民アチュアールの調査で知られる、フランスの人類学者フィリップ・デスコラです。デスコラは、人間が周囲の環境を“同定化”することで世界を理解してきたと言います。同定化とは、ある主体が周囲に存在する客体に対し、内面性と身体性という属性を共有している、あるいは共有していないと認識し、パターン化することです。

そのうえで、デスコラはアニミズムとは「主客の間の内面性の連続性、身体性の非連続性」というふうに述べています。アニミズムがみられる地域では、人々が動植物や自然に対して主体性を付与し、それらとの間で、友情や交換、誘惑、敵対関係などを築いています。こうした世界において、動物や精霊、人間との間で「身体性」は異なりますが、人間と同じような「内面性」を持っていると直感されているわけです。

このデスコラのアニミズムは、先ほどのタイラーの定義を超え、アニミズムの普遍的な定義になっています。ここから抽出できるのは、地球上の諸存在者が、互いに近しい内面性を共有しているということです。私の言葉で言い換えるなら「人間だけが地球上の主人だけではない」とみる思想。それこそがアニミズムになるわけです。

これに対して、南米先住民アラウェテの研究を行った人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ カストロは、デスコラが「人間的な差異や質を非人間的な世界に投影」して、アニミズムを語っていると批判します。デスコラもまた、タイラーの二元論的なアニミズムを脱していないと批判した。ここにアニミズム論に潜む二元論に根ざす不全感が残るわけです。

動的なプロセスのなかに生け捕られるアニミズム

タイラーやデスコラによる二元論的なアニミズムの捉え方を脱する一つの手がかりとして、奥野さんはイギリスの人類学者ティム・インゴルド、デンマークの人類学者レーン・ウィラースレフの言説を参照していきます。

奥野:インゴルドは、アニミズムをスタティック(静的)な実体と捉えるのではなく、ダイナミック(動的)なプロセスとして捉えました。

インゴルドは著書『人類学とは何か』のなかで、1930年代にアメリカの人類学者アーヴィング・ハロウェルとカナダの先住民オジボワの長老べレンズとの、石をめぐる対話を取り上げています。

オジブワ語の「石」という言葉は、文法的に「生ある存在」に属しているそうです。それを踏まえて、ハロウェルは「私たちの周りにあるすべての石は生きているのでしょうか?」とべレンズに尋ねたのです。すると、べレンズは熟考した後「いや、でも生きている石もある」と答えたのです。

この言葉からわかるのは「石が生きているのか?」という質問への答えは、いつも経験と想像力の和合のなかにあるということです。科学教育を受けた私たちは、常に経験と想像力を区別します。ですが、べレンズにとって経験と想像力にそれほど違いはない。

経験のみに目を向けるのではなくて、石が姿を表す、まさにその瞬間。目の前に現れる世界を掴み取ろうとすれば、経験と想像力が溶け合って、石が動き出すことを目の当たりにするのだと、インゴルドは説く。これがインゴルドのアニミズムです。

インゴルドは、べレンズの語りは経験ではなく、今形成されつつあるものであり、それが世界に向き合うなかで、想像力を交え、不思議さと驚きの恒久的な源泉を示すものだったと言っています。

このインゴルドのアニミズム理解を継承したのがデンマークの人類学者レーン・ウィラースレフです。彼が焦点を当てたのは、シベリアの狩猟民ユカギールによるエルク(大型のトナカイ)の狩猟におけるアニミズムです。ウィラースレフは、動物に対して人間の人格と同等の知的、情動的、霊的な性質を与える一組の信念がアニミズムだと言います。

ウィラースレフによると、ユカギールの狩猟者は、狩猟前日の夕方にウォッカやタバコなど舶来の交易品を火に焚べます。それがエルクの支配霊(精霊)をみだらな気分にさせる。その後、狩猟者の霊魂は夢の中で動物に扮し、支配霊の家を尋ねます。そこで酔っ払って性的欲望にとらわれる支配霊は侵入者を恋人だと思い込み、ベッドに飛び込む。狩猟者の霊魂が、支配霊に喚起された恋愛感情は、獲物の動物にまで拡張されるんです。かくして、翌朝、狩猟者が狩猟に出かけてエルクを見つけ、その姿を模倣し始めると、性的興奮の絶頂を期待して、動物が駆け寄ってくるのだ、と。

狩猟者は歩み寄るエルクをみて、自らもエルクを模倣し、また模倣する自分自身を見ます。狩猟者はエルクと、そのエルクを模倣する自分自身の間を往還するのです。ウィラースレフは、この「二重のパースペクティブ」を、ある種の「視覚上の揺れのようなもの」だと言います。

そしてその揺れのなかでは、「客体としてのエルクを見る主体としての狩猟者」と「主体としてのエルクによって見られている客体として自らを見る狩猟者」が、あまりの速さで交互に入れ替わるため、種間の境界が侵され、「『一体化』が経験される」のです。

高速で揺れ動く過程の真っ只中で、狩猟者はエルクの人格性を否定することなどできない。狩猟に没入する狩猟者は自らの人格を、動物の人格性から付与されるわけです。狩猟実践における主客の高速交換を通して、人間の持つ人格性とは所与のものではなく、実践のなかで動物から授けられるのです。

このアニミズムは、人間と非人間の間で「私が私ではなく、私でなくもない」という揺れ動きとして経験され、存在者たちを隔てている境界を次第に薄めていく。インゴルドを継承したウィラースレフは、エルクに向き合う動的な過程において、眼前に現れるアニミズムが創生する様を生け捕りにしたのです。

ここに現代人類学におけるアニミズムの沸騰点を見ることができます。アニミズムとは、静的な実体として取り出されるものではない。ダイナミックな動きのなかに潜む経験と想像力のアマルガム(融合したもの、入り混じったもの)の産物だと私は見ています。

「〇〇はアニミズム的だ」と言っているだけでは、アニミズムそのものには到達できません。現象の真っ只中で、対象との相互作用のなかに生け捕られる現実。そこにアニミズムが動き出すのです。

童話や小説、儀礼にみる、人間と非人間の“連絡通路”

「人間/非人間」の二元論に基づいたタイラーによるアニミズムから、人間と非人間の間の内面的な連続性と理解される現代のアニミズム、インゴルドとウィラースレフによる動きのなかに立ち会われるアニミズム——。

人類学におけるアニミズムの変遷を概観したうえで、奥野さんは日本の童話や小説など、文学作品にみられるアニミズムを紹介していきます。

奥野:アニミズムは岩手県出身の宮沢賢治の作品にも色濃くみられます。賢治の作品では人間と他の生物種の境界がはっきりとせず、両者が一体化して描かれています。

ここでは童話の「鹿踊りのはじまり」を取り上げます。

主人公の嘉十は、ある夕方、芝草の上で、とちの団子を食べ残して歩き出した後、手ぬぐいを忘れてきたことに気づきます。その場に引き返すと、六匹の鹿が団子の周りを舞っているのを目撃します。やがて鹿が輪になって踊り始めると、嘉十は鹿の踊りに見とれ、自分も鹿になったような気がして、踊りの場に飛び出しそうになる。ですが、ふと自分の大きな手を見るわけです。手が目に入って、人間であることを思い返し、飛び出すのを思いとどまるのです。

その間、嘉十のなかで人間と鹿の境界はだんだんと薄れていきます。そして、彼の大きな手が押し留めていた鹿との境界が一瞬無くなる。そして嘉十は自分と鹿との違いを忘れ、ついにススキの影から飛び出してしまう。すると、鹿たちは驚いて一斉に立ち上がり、疾風に吹かれた木の葉のように逃げていきます。

この物語では、心はすでに鹿になっているけれども、自らの手を見て、自分が鹿ではなくて人間だと意識する嘉十が、人間と鹿の間を行き来する緊張を孕んだ部分が描かれています。賢治は、ウィラースレフのように鹿が人格を持って現れるアニミズムを描き出しているというふうに見ることができます。

二つ目に取り上げたいのが川上弘美の『蛇を踏む』です。『蛇を踏む』では、蛇が人になったり蛇に戻ったり、逆に人も蛇の世界へと誘われたりする。そこでは人とヘビはどちらの種が、どちらの種になることもできる。川上弘美の他の小説でも、人と動物が溶け合い、入り乱れ、通じ合い、交換する世界が描かれています。

この様をアニミズムと捉えるなら、アニミズムは図の右下で示したメビウスの帯状の構造を持つものと理解できるはずです。

メビウスの帯は、表と裏が分類されている輪とは違います。その特徴は、一つの面しか存在しないということ。表は裏につながって、裏は表につながる。人が蛇になって、また知らない間に人に戻ってくる様が、この幾何学的なモデルで表されるわけです。

アイヌ民族の熊送り、イヨマンテの儀礼も見ておきましょう。熊送りとは、熊の魂を神の世界に送る儀式です。送られた熊の魂は、表裏のないメビウスの帯状にひと繋がりになった神の世界に達して、神が熊となって、再び肉や毛皮という土産を下げて、こちら側に戻ってくるという構図を担っています。熊は神であり、神は熊である。熊送りの儀式は、熊が神となり、神が熊となるメビウスの帯状の連絡通路のようなものかもしれません。

一方、現代世界に住む私たちの連絡通路は、高い壁のようなもので遮られ、あちら側の世界から、つまりアニミズムの世界から閉ざされてしまっていると言ってもいいかもしれません。

壁というのは、人間を人間以外の世界への連絡通路から断ち切り、人間だけの世界に閉じ込めてしまう境界。壁によって人間は人間のみ、閉じられた安全圏に暮らすことができるのだとも言えます。できないことなどないと信じて能力と技術を高めた人間は、外部の自然を好き勝手に利用し、人間だけの快適な環境を作り上げてきました。地球上の存在が同じような内面性を持って、人間だけが必ずしも主人ではないという思想がアニミズムでした。それに加えてアニミズムは、こちら側とあちら側の表裏のない構図を持つ世界の往復運動というダイナミズムによってできているわけです。

仏教思想におけるアニミズム——還相論、他力、同時

日本の童話や小説、儀礼のなかにも色濃く現れているアニミズム。それをより体系的に取り上げた思想が仏教思想でした。奥野さんは「とりわけ13世紀以降の日本の仏教にはアニミズムの取り扱い説明書、説明法というべきものが多々含まれてきた」と語ります。

奥野:無数の主題がありますが、ここでは「還相論」「他力」「同時」に絞って取り上げます。

表裏のない一つの面から成るメビウスの帯状の連絡通路を往還する。そうしたアニミズムは、衆生が浄土に往生し、帰ってきて、衆生を救う浄土思想のイメージそのものです。親鸞聖人の往相還相ないしは還相論では、阿弥陀仏の本願により浄土に往生した衆生が再び帰ってきて、反転して衆生を救う。共に連絡通路があるわけです。アイヌの人たちが連絡通路を通して熊を送るのと同じ願い。祈りがある。

「他力」については、アイヌの狩猟における人間と熊の関係をみてみましょう。人間は熊を狩ります。しかしそれは人間が強く、力を持つからではありません。アイヌの存在論では、熊が自ら望んで人間の世界にやってくる。それはアイヌの人たちが、神の世界からもたらされる貴重な糧に頼って暮らしてきたと考えてきたことに由来します。熊送りというのは、アイヌの狩猟が自力ではなく、他力によって行われていたことが示されていると言えるでしょう。その意味で、アニミズムとは人間が自分自身を他力に開いていくことで、自然に駆動する万物の動きに同調することに他なりません。

今見た二つは浄土仏教ですが、今度は禅仏教で取り上げられてきた「同時」を取り上げたい。日本の文化人類学者、偉大なアニミズム論者の岩田慶治は、道元禅師の説いた悟りの世界にもとづき、「同時」がアニミズムの根底にあると考えました。同時を理解する助けになるのがユング心理学の「共時性、シンクロニシティ」です。因果的な連関ではないけれども、何らかの意味上のつながりが感じられる複数の事象の符号。つまり非因果的な連関の原理のことです。

岩田は非因果的な連関の原理からなる世界に、因果律が働く私たちの世界が触れた瞬間の驚きこそがアニミズムだと言います。青葉を握りしめ、土中から大根を引き抜くとき。天地創造を感じる、神を感じることが、岩田の言うアニミズムです。そこには、悟りの知恵によって開かれた事事無礙の世界が広がっていると言っています。

つまり、アニミズムはメビウスの帯的な構造を持つダイナミックなものであると同時に、時間的な特徴として「同時」「無時」「シンクロニシティ」を畳み込んでいる。日本では、神道が古代のアニミズムを継承してきたとよく言われるますが、アニミズムは論理的には非二元論や動態論、他力論、あるいは時間論などを足場としている点で仏教的だと言えると思います。

ブラジルの先祖から受け継いだ、植物のつながりを表現する

続いて登壇したのは、ブラジルと日本を拠点に活動するアーティスト・研究者のアナイス・カレニンさん。サンパウロ大学院リサーチフェロー、早稲田大学客員研究員サンパウロ大学の博士研究員であり、植物との関わりを土台に、伝統的な知識体系や神話、アニミズムを取り入れた研究やアートを発表しています。

自身の実践やナラティブに影響を与えた場所や先祖、歴史、思想について、実際の作品を紹介しながら紹介してくれました。

カレニン:はじめに、図の左上にあるブラジルの地図をご覧ください。アマゾンの熱帯雨林を薄い青色、乾燥地帯を茶色で示しています。ブラジルと聞くと、熱帯雨林を思い浮かべるかもしれませんが、異なる気候帯が存在しています。

「Caating」や「Cerrado」という乾燥地帯で私の家族は生まれました。二つの地域は「sertão」とも呼ばれます。sertãoは「乾燥した土地」、Caatingaは先住民族であるトゥピの言葉で「白い森」という意味です。

この乾燥した土地では、たまに大量の雨が降る場所もあり、そこに湖や川が生まれます。そうやって常に変化し続けてきた土地でした。そこで育った私たちの先祖によって、自然とは資源を与えてくれるものではなく、共に苦労して作り上げていくもの。自然という存在と共に生きるために、多くのナラティブやストーリーテリングを紡いできました。

カレニン:こうした文脈において、私は薬草の知識を学ぶようになりました。その学びは、地域の先祖から代々受け継いできた人たちの集まりにおいて起こります。

その過程で気づいたのは、最も大切なのは直感であり、人間と植物の境界を超えたコミュニケーションだということです。人間と植物とのつながりを回復し、継承するため、私はこの地域で確立された植物との関係、物語やアニミズムの関係を表現しているのです。

ここからは実際の作品を紹介しながら、先祖から受け継いだ知がどのように私のアートに影響しているのか、とりわけアニミズムやストーリーテリング、植物との関わりがどのように表現されているかを説明します。

一つ目に取り上げるのは『BORDERLESS MATTER』という作品です。薬草から薬をつくる際に用いる伝統的な抽出技術を用いています。

カレニン:写真の通り、色を抽出して透明になった植物、いわば“植物の魂”が残った容器、その隣に抽出した色彩を溶かした水の入った容器が並びます。その容器から蒸発した空気を人々は吸い込むことができます。容器の側には小さなハーブのガーデンと、ガーデンを育む薬水の入った容器を設置しました。

カレニン:『BORDERLESS MATTER』では、植物や水を実験室で目にするような試験管に入れることで「科学」のイメージを表現しようとしました。

私はブラジルの伝統的な自然とのつながりを示すナラティブと、植民地としての歴史における近代科学の関係を捉えたいと思っているからです。従来とは異なる知識や知識システムのヒエラルキーが、時間を超えて、いかにブラジルにおいて広がっていったのかを見つめたいのです。

ブラジルにおいて、近代科学の歴史や科学的な考え方は、ヨーロッパによる植民地支配と共に到来しました。コロンビア大学の教授であるナンシー・リース・ステパンは、この時期にブラジルの人々の自然に対する想像力が、アニミズム的な視点をもつものからそうではないものへと移行していったと説いています。自然と人間は別物として語られるようになっていくのです。

その移行を表現したのが『FLORESTA FOREST』という作品です。先ほどの作品と同じ技術を用いていますが、植物の色彩を用いて絵に色をつけています。これらの絵はヨーロッパの自然主義者によって人工的に作られた「ブラジルの自然」のイメージです。

そのイメージの真実とは何か、こうした自然との関係が想像力をどのように変化させたのか、いかに近代社会がアニミズムを忘れていったのか。ブラジルにおいて自然や宇宙とつながり、探究していた人々は、どのように合理的な思考に強く影響されたのか——。これらは私のアートの実践において重要な議題です。

「生命」という概念を見つめ直し、揺さぶる

ブラジルにおいて古くから受け継がれてきた知や技術、ナラティブ、そしてヨーロッパによる植民地支配と近代科学の到来。カレニンさんは一見相対するものを作品に織り込み、人間と植物の関係について探究してきました。もう一つ、アートの実践において重要なのが「生命との関係」であると語ります。

カレニン:生命とはアニミズムの議論においても重要なトピックです。多くの思想家が、人間という種の境界を超え、どの範囲までを生命と捉えるべきかを検討してきました。

ここで取り上げたいのは、オーストラリアの先住民カラビン(Karrabing)の研究で知られる人類学者のエリザベス・ポヴィネリです。ポヴィネリは石に宿る生命、とりわけKarrabingの石との関係を検討したうえで、アニミズムだけでは彼らがどのように石と関係しているのかを説明できないと語りました。

ポヴィネリは、ミシェル・フーコーが「生権力(人々の出生や生殖、死など生の様々な側面を管理する権力)」を提唱した通り、私たちの社会は、生命を多種多様な方法でコントロールしようとしていると語ります。そのため、どのように命をコントロールするのかではなく、生命とはそもそも何かを考えることから始める必要があるのだ、と。

科学的な「生命」の定義は、誕生から生殖、死というサイクルを意味すると思います。ですが、このサイクルに含まれない生物も無数に存在します。例えばウィルスなどです。それらは生命なのでしょうか?

この問いに対して、私はあえて「生命の定義」だけを説明することは諦め、問いの範囲を広げるアプローチを採っています。

例えば『ENDO COISA』と呼ばれる作品では、地質学者の考え方を参考にしながら、石や人工物との間の壁を疑おうと考えました。人工物が科学的に生命として捉えられるのかどうか、 植物から取り出された物質が石に吸収されるプロセスを表現したのです。一つの物質は他の物質に影響を与える、相互に依存しています。この二つの関係性は科学によって定義される以上に複雑なものではないかと考えているのです。

カレニン:次は『A PLANT A MINERAL MEANINGS OF LIFE OR RESONANCE ON WATER』という作品です。この作品では植物と石の関係性について、宮城県の蔵王とその火山地帯をフィールドとして研究しています。多種多様な鉱物や温泉水、植物の相互的なつながりを表現しています。

この地域では、火山の噴火によってミネラルに富む土壌が生まれ。多様な植物が育っています。競争し合うのではなく異なる種が共生しているのです。

人間以外を“祀る”習慣を日常に取り戻すには?

石や植物、鉱物など、多種多様な生命の相互的なつながりを表現し、探究してきたカレニンさん。アート作品を通して、こうしたアニミズム的なアイデアや実践を、どのように日常に持ち込むのかについても検討してきたと言います。作品を通して提案するのは「植物を聴く」ことです。

カレニン:植物を聞く営みを通して、私は科学的な分類や考えを非普遍化(non-universalization)することを提案します。科学的な定義や分類が不要だという話ではありません。ですが私たちが日々どのように生物と向き合うのかまで、科学的な定義や分類に沿う必要はないのではと問い直してみたいのです。

例えば、ブラジルの先住民は、特定の植物を親族、家族と捉え、独自のナラティブを編んできました。先住民族ではない人間よりも近しい存在だと感じているのです。私は「more-than-plants(植物以上)」という言葉を掲げ、目には見えない存在とのコミュニケーションの方法を打ち立てたいと考えています。それは植物や精霊の存在を認めること、親密さと直感、沈黙と振動によるコミュニケーションです。

『(UN)VISUALTLASTNECY』という作品では、植物から物質を抽出する技術を用いて、物質を音に変換しました。サウンドアーティストのタツロー・ムラカミさんと共に開発した理論を用いて、植物を音に変換しています。ここで表現したかったのは、音は目に見えない振動であり、耳の聞こえない人でも振動を感じられる。私たちが直接触ったり見たりできなくても、深くコミュニケーションできるということ。これは、まさに私が植物にまつわる伝統的な知から学んだアニミズムのあり方を直感的に表現したものと言えます。

最後に『RIKOMAPE』という作品についてもお話ししたいと思います。この作品は利根川での研究から着想したものです。利根川は群馬県の大水上山から東京湾に流れていたのですが。河川工事によって千葉湾に流れるように工事され、その状態が60年間続いている。

これは、人間社会が川にどう流れてほしいかという考えにもとづいており、川の精霊、魂がどこに流れていきたいのかは考慮されていません。

カレニン:「リコマペ」とは、アイヌの言葉で、逆流する川という意味。アイヌと川の関係を象徴しています。なぜ私がアイヌの言葉や神話を参照するかというと、利根川は巨大な谷を意味するアイヌ語の「トンナイ」に由来するという説があるからです。非常に大事だと思うのは、川を人間にとっての資源ではなく、どのように祀っていくのかという視点です。

また、この作品では「リコマペ」という言葉を音声に変換し、ループ再生しています。興味深いことに、奥野さんがおっしゃったメビウスの輪を描いて、再生され続けています。その過程で、カセットテープの磁石の部分が削られ、音が消滅していくのです。

ここで表現しようとしているのは、どのように生活のなかに「祀る」という習慣を取り戻すかです。それは私たちが時間をかけて失ってきたものだと捉えています。

最後にお伝えしたいのは、アニミズムが土地固有のものだということです。アニミズムは異なる文脈において、異なる要素や文化と関連し、神話や知識を参照しながら、生物とコミュニケーションを図るなかで生まれます。

今後もアートを通して、新しい神話、そして「祀る」ことを日常に取り入れる方法を提案したいと思っています。

人間の力の及ばない者の前で立ちすくむこと

奥野さんの「人間だけが地球の主人ではない」というアイデア、そして植物に耳を傾けるというアナイスさんのアート。両者が共鳴するかのような発表を経て、トークセッションに移る。

オーフス大学博士課程で人類学を専攻する田代周平氏がモデレーターとなり、アナイスさんのアートにおける植物との関係性、“他力”という概念との接続など、両者の実践や思想のさらなる重なりを探った。

田代:アナイスさんの発表において、伝統的な方法を用いて植物の成分を抽出しているという話がありました。具体的にどのように行うのか、もう少し詳しく伺えますか?

カレニン:実は詳しいプロセスを明らかにすることはできないんです。ただ、その背景についてもう少しお話ししたいと思います。

私の用いる抽出手法は、かつて植物を崇拝する際の儀式などで行われていたものです。その儀式やプロセスから学び、私は薬草を用いた治療を施すようになりました。その過程で、同じ手法を用いて、植物を完全に透明にできるのではと着想を得たのです。

それは科学において特定の物質を用いて色素を取り出す手法とは異なる、植物ベースの手法です。技術そのもの以上に、背後にある植物を崇拝する姿勢も大切であり、抽出方法や背景は誰かに容易に伝達できるものではありません。植物との関係を深めるプロセスを体験しながら、数年単位で自らのなかで育ち、深められていくものなのだと思います。

田代:ブラジルの植物を崇拝する儀式のなかでは、人間が植物と触れ合いながら、植物とのつながりを理解していく。そのプロセスでは、人間は植物に「自らの考えや見方を変容させてもらっている」つまり、主導権を委ねているとも言えるのではないかと思いました。

そう捉えたとき、植物の色素を抽出するアナイスさんのプロセスは、人間ではなく植物が力を持っているという点で、奥野さんのおっしゃる「他力」とも接続すると感じます。奥野さん、他力についても詳しく伺えますか?

奥野:先ほどルネサンス期以降の「人間が何でもできる」といった考えや科学合理主義の話をしました。まさにその対極にあるのが、自分たち以外の力、人間を超えた人間以上の何かですよね。そういうものに自分を委ねて世界を経験する機会が、自力に頼る人間には少なくなっているのではという見通しがある。

先ほど紹介した作家の五木寛之氏も、人間の力、知恵が及ばないものがあると感じ、その前で立ちすくむ。そういう気持ちを持っておくことが大事なのではないかと述べています。

と同時に忘れずにいたいのは「これまでの私たちのやり方を反省しましょう」という話だけを入り口にアニミズムを捉えないこと。それでは聞く側にとって少々説教くさいかもしれませんし、結局アニミズムそのものにも接近できない気がしているんです。そもそもアニミズムというのは言葉だけで表現するのが難しい概念でもありますから。

田代:まさにアナイスさんの「植物を聞く」といった体験型の作品は、言葉以外の多様なやり方でアニミズムを捉える試みの一つかと思います。そもそもマルチスピーシーズ人類学のなかでは人間以外のものに耳を傾ける手法を試行錯誤している段階でもあります。アナイスさんはどのように「植物を聞く」を実践されているのでしょうか?

カレニン:まさにその観点について執筆中の論文でも触れています。自然と関係をもち、理解する方法を、私たちは失ってしまったことは大きな課題だと思っているからです。

人間以外のものに耳を傾ける上で大切なのは、先ほど述べた通り「直感」だと思います。ブラジルの伝統的な考えでは、森に足を踏み入れた際、直感を使って植物を見て、関係性を持ちます。図鑑を片手に「この植物の名前は……」と歩き回るのではなく、直感を使って植物と関わるんです。

私たちは日常のなかで直感ではなく合理的な思考や枠組みを用いていますよね。それらで捉えきれない問題に対しても、実用的な答えを探し、コントロールしようとしてしまう。一つの問題の一つの答えが対になって存在すると思ってしまう。一から関係を気づく、コミュニケーションを測ることができない。人文学でも科学でも近しい状態が起きていると思います。

植物とコミュニケーションを図るときも同じです。言語のようにシステマチックな方法が存在していて、それがどのような場面でも適用できるわけではない。自らの信念をもとに個人的な関係を築く必要があるんです。

だから、私はワークショップを行う際に「植物と関係を築いたらこういう結果になった」といった情報を共有しません。そうではなく、人々がシステマチックな思考とは別のもの、すでに持っているはずのものに気づき、実践するのを手助けしたい。これは非常に複雑なことですが、西洋的な考え方の基盤を打ち砕いて、新しい方法を打ち立てるうえではとても大事だと思います。

田代:狩猟民を主にする人類学やご自身の経験をもとにした奥野さんのお話と、アートを通してサイエンスや植民地主義、人間以外の種との関わりを探るアナイスさんのお話。両者が溶け合う非常に興味深いセッションとなりました。ありがとうございました。

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