仕事が溜まりに溜まった年始の休日。六本木に新しくオープンした本屋「文喫」に足を運んだ。
「入場料1500円で本読み放題、コーヒー・紅茶も飲み放題、Wifiと電源も使用可」。
という訪れた人のツイートを見かけ、心惹かれたのだ。
入り口で、税込みで1620円を支払い、本棚の並ぶ有料エリアに足を踏み入れる。作業のできるデスクに向かい、原稿に取り掛かる。いや、その前に少しだけ本棚を覗く。少しだけ、ほんの数分だ。
すると、気になっていた小説のタイトルが目に飛び込んできた。その横には、小説のテーマに関連する新書が並んでいる。仕事の合間に読むと、気晴らしになるかもしれない。思わず手に取る。
悩んだ末、小説と新書2冊ずつ、厚めの専門書1冊を抱えて、作業机に着席。パソコンを開いて、作業に取り掛かった。視界の端に本が積んであるだけで、目の前にある原稿が少し新鮮に見えてくる。正直、どの本も最初の数ページしか読めていなくても、だ。
あれ以来、行き詰まった原稿を抱えて、何度か文喫に駆け込んでいる。その度に本棚を覗き、新しい本と出会う。この空間は一体、どのような思想を持って生み出されたのだろう。
効率を捨て、本と恋に落ちる。文喫がもたらす偶然の出会い
「『文喫』は、知的な発見の生まれる場所にしたかったんです」
そう語るのは、文喫のプロジェクトマネージャーを務める日本出版販売株式会社(以下、日販)の武田建悟さん。彼は、約1年前にコンセプトも場所も何一つ決まっていない状態で、新しい本屋の立ち上げを任された。
武田さんの所属する日販は、本屋と出版社をつなぐ「取次」の大手だ。取次だけでなく、グループ会社のリブロプラスを通して「リブロ」や「あゆみBooks」など書店事業も手がけている。
武田さん「2017年に、ブックディレクション事業を行うブランド『YOURS BOOK STORE』を立ち上げました。ブックホテルの箱根本箱や、ユニクロオフィス内の社員専用ライブラリーをプロデュースするなど、新しい本との出会いを模索しています」
オフィスやホテルなど、本屋以外の場所で本を届ける空間を世に送り出してきた日販が、改めて「本屋」に立ち戻り、価値を届ける。そこには、本屋だけを手がける事業者とは異なる発想があった。
武田さん「本屋は、『何を求めているかわからないけれど、何か発見したい』という欲求に応えられる場所だと思っています。事前に検索もせず、目的も持たずに訪れ、思いがけず何かに出会う。効率を無視して、偶然に心と体を委ねる。恋に落ちるような本との出会いこそ、この時代の本屋が届けるべき価値だと考えました」
文喫で思いがけず何冊も本を手にとったときの高揚感。それは「目的」や「効率」を少しの間忘れて、予測できない選択肢に身を委ねたからこそ得られたように思う。
本でも、恋人でも、アルゴリズムが最適な出会いを選んでくれる時代だ。だからこそ、ふいに検索条件や「おすすめ」から導き出される選択肢に反抗したくなる瞬間がある。
武田さんの言う通り、本との偶然の出会いは、「この時代の本屋だからこそ届けるべき価値」の一つなのだろう。
とはいえ、出版不況や本屋の減少が話題に上る今、「本との出会い」だけで十分な利益を確保するのは簡単ではない。本の販売における粗利率はおよそ2割。他の小売と比較して、本屋は「薄利多売」のビジネスといわれている。
本屋を続けていくためには、雑貨の販売やイベント開催、カフェの併設など、本以外でいかに利益を得るかが鍵になる。けれど、武田さんはあくまで「本との出会い」そのものに代金を払ってもらおうとした。
武田さん「本を選ぶための空間やサービス、スタッフの雰囲気など、『意中の一冊と恋に落ちる』体験を丁寧に作り上げれば、対価を払ってくれる人はいるはずだと思いました。会員制やサブスクリプション型など、色んな案があったのですが、『入場料』が一番しっくりきた。きっと、店に入ってから出るまでに得られる体験にお金を払ってくれている、という感じがするからでしょうか」
入場料を設定することに対し、社内では『入場料を払ってまでお客さんが来るのか』と、心配する声も挙がった。
武田さん「正直、心配する気持ちもわかります。ただ、『本との出会い』に価値を感じて訪れてもらうために、一度入場料のある本屋に挑戦してみたいと思ったんです。せっかく新たな形の本屋をつくるなら『無料で入れる』という本屋の常識を問い直してみたい、と」
初めて文喫を訪れたとき、「入場料のある本屋」というより、「意中の一冊と恋に落ちるための文化施設」のような場所だと思った。
一定人数を超えると入場規制を行なうため、土日でも店内にはゆとりがある。思う存分、本棚を行ったり来たりして、意中の一冊と出会う。本に没頭してる人もいれば、本を片手に誰かとおしゃべりしてる人もいる。近所の図書館ほど静かではないが、駅前の本屋ほど騒がしくもない。
本を買うためならAmazonで事足りるが、本とじっくり向き合うためなら文喫を訪れたい。そう感じるのは決して私だけではないはずだ。「本を売る」以外に、本屋が提供してきた価値に改めて目を向けると、薄利多売を脱する手がかりがみえてくるのかもしれない。
1冊たりとも同じ本は置かない。届け手にも本と向き合う体験を
入場料以外にもう一つ、文喫は本屋の当たり前を打ち破ろうと挑んでいる。店内にある3万冊の書籍をすべて「買い切り」で仕入れたのだ。
多くの本屋は、売れ残った本を出版社に返品する「委託販売制度」を利用している。この制度があれば、本屋は売れ残りを過度に恐れることなく、本を仕入れることができる。
しかし、次の入荷にかかるお金を返品で戻ってくるお金で賄わなければいけないなど、“返品ありき”の営業になってしまうケースも少なくない。
文喫の店長を務める伊藤晃さんも、以前勤めていた本屋では、日々の返品作業に追われることも多かったと振り返る。
伊藤さん「大量の本が入荷すると、返品の作業にかかるコストも膨大です。返品率が高くなれば次の入荷に響きますから、返品率も常に注視していました。『文喫』では、仕入れた本を『どう売っていくか』のみにフォーカスできます。一冊一冊、思い入れのある本を扱えるのは、書店員として嬉しいですね」
買い切りで仕入れた3万冊のうち、同じ本は1冊足りとも存在しない。伊藤さん曰く、通常の本屋では、200坪の店内に置かれる本の種類は1万冊程度。3万種類の本を置くのは「かなり思いきった決断」だ。
伊藤さん「つい、売れ筋を何冊も置きたくなるのですが、文喫ではグッと堪えています(笑)沢山の人がほしい本を何冊も揃えるより、深く届く本を1冊だけ置く。1年に1人しか手に取らないかもしれない、けれど、その人にとっては掛け替えのない1冊。そんな本を揃えるようにしています。私自身、店内を巡回していたら、『こんな本あったっけ?』と驚かされることもあるんです。文喫は、書店員でさえ新たな本に出会えてしまう恐ろしい場所です(笑)」
3万種類の書籍を買い切りで仕入れた背景には、本の受け手だけでなく届け手にも、本と向き合う時間を提供したいという、武田さんの願いがある。
武田さん「伊藤さん含め、『文喫』の書店員は、1冊ずつ、覚悟を決めて本を仕入れています。この1冊をどう売っていくのか、どの本の隣に置き、どういう流れで本棚を組み立てていくのか。本と人の出会いのために、ゼロから考え、全力で表現する。彼らが思う存分、本と向き合える場をつくれば、きっと訪れた人の心に響く本を届けられるはずだ、と確信しました」
本屋を諦めない。楽しむ読者の姿が背中を押してくれた
入場料を設定し、できる限り多様な書籍を取り揃える。前例のない形で本屋を営むのに不安がなかったわけではない。入場料を払ってまで本屋を訪れる人がいるのか、そのうえ本を買ってくれる人がどれくらいいるのかも未知数だった。
周囲から心配されようとも前に進むしかない。武田さんや伊藤さんは「恋に落ちるような本との出会い」という文喫のコンセプトを信じ、オープンまでの慌ただしい日々を走り抜けた。
そして迎えたオープンの日、店内には想像を上回る数のお客さんの姿があった。2人の掲げたコンセプトは、確かに人々の心を捉えたのだ。
5冊から10冊くらいを、どさっとまとめ買いされる人も多いです。今日の午前中も、1万円の分厚い写真集を買っていかれた方がいました。一度訪れて手にとったけど棚に戻して。再び訪れてくれたときに、『やっぱり欲しい』と買ってくれることもあります」
1万円の写真集や分厚い専門書、数十年前の色あせた料理本など、いわゆる「売れ筋」ではない本も売れていく。新刊がないとお客さんは訪れないのではないか。2人の抱いていた不安はすぐに吹き飛んだ。
本を何冊も手に抱え、棚と棚の間をゆっくり歩いている人、返却棚に置かれた本をじっくり眺めている人、いくつか本を脇に積んで作業に没頭されている人。みなさん、いろんな形で本を楽しんでくださっていて。僕たち自身が背中を押されたような気持ちになりました。本屋の経営が厳しいと言われて久しいけれど、絶対に諦めていてはいけないなって」
武田さんも伊藤さんも「とても居心地が良い場所ですよね」と嬉しそうに店内を見渡す。文喫は本の読み手と届け手が共に作り上げていく場所なのだろう。
文喫が「尖ったことやってみよう」のきっかけになれば
その居心地の良い空間がクチコミを呼び、2018年12月のオープン以来「入場料のある本屋」はメディアやSNSで大きな話題に。客足が途絶えることはない。
しかし、「入場料のある本屋」として話題になることが文喫のゴールではない。彼らは文喫を成功させ、同じようにユニークな本屋が創発されていく未来を描いている。
伊藤さん「これまでも、取次を介さず本を仕入れるなど、ユニークなやり方を実践している独立系の本屋は沢山ありました。けれど、日販やリブロのように、いち企業が取り組んでいる例は決して多くはない。大企業でも、チェーン店でもやれるのだと証明して、業界の流れを変えていきたいですね。
文喫が成功すれば、『新しいことをやってみよう』と考える本屋が増えて、取次業者も、従来のやり方とは異なる仕組みに挑戦できるかもしれない。出版社も、そこで働く編集者も、いわゆる売れ筋ではない、尖った本を作りやすくなるかもしれない。大げさかもしれませんが、文喫はきっと色んなものを背負っているのだと思っています」
伊藤さんの言葉に大きく頷く武田さん。自身も文喫に携わるなかで、本屋に対する考え方に変化が訪れたという。
武田さん「本屋は、伊藤さんを含む書店員が輝ける場所でないといけない、と強く感じるようになりました。
先ほども述べた通り、書店員が本を並べる姿は本当に美しい。『本屋で働く』と聞くと、レジを打って、在庫を整理して、といった姿を見かける機会の方が多いかもしれません。けれど、社会に対してどのような本が必要かを考え、どのように本を仕入れ、どのように売っていくのか、それを棚で表現していく姿は、まさにアーティスト。彼らの感性が、訪れる人の豊かな読書をつくっています。
だからこそ、文喫は書店員が憧れの対象になる場所でありたい。『入場料のある本屋』として話題になっているだけでは、まだまだ道半ば。これからだと思っています
入場料や買い切りなど、本屋の当たり前を覆し、読者と本の新たな出会いを創造していく。文喫は、本屋や取次業者、出版社、そして読者と、本にかかわる一人ひとりを変革するためのムーブメントなのかもしれない。
文学者の和田敦彦の著した『読書の歴史を問う: 書物と読者の近代』のなかで、「読書の自由」について書かれていた文章を思い出す。
「いかに作者が苦労して書こうが、またその書物がいかにすぐれていようが、それらが読者にたどりつかなければ意味はない。どれだけ、どのように届けるかに応じてその書物の影響も変化するだろう。書物の執筆や出版がどれだけ自由であっても、それを届ける人や組織が不自由なら、読書もまた不自由なものとなろう」
「文喫」には、“届ける人や組織”が意志を持ってつくり上げた、自由で多様な本との出会いがある。もし、足を運ぶ機会があれば、買うとか買わないとか、最後まで読むとか読まないとか、全部無視して、気になる本を片っ端から手に取ってみてほしい。そのなかに、運命の1冊が紛れ込んでいるはずだから。