昨年末、アムステルダムから帰国したときに(改めて)驚いたのが、日本ではコンビニのどこの店舗でも同じ味のコーヒーが買えることだった。10日ぶりのコンビニのコーヒーは、”懐かしい”味であり、なんだか気味悪くも感じた。
もちろんアムステルダムにはスタバを筆頭にコーヒーのチェーン店はある。けれども、せっかく旅行しているのだから、インディペンデントなお店に足を運びたいもの。スタバには一度も行かなかったし、訪れた店のコーヒーの味も、内装も、接客も、すべてが一点物の体験だった。
東京にいるときにも、もっとインディペンデントなお店に足を運べれば…と思いつつも、つい手軽さを重視してコンビニに足を運びがち。「日本がチェーン店ばかりになるのは、市民のリテラシーが低いから」なんて言説もあるが、それもニワトリとタマゴの問題な気もする。
今回、社会のモノカルチャー化に抗うヒントを得るために、訪ねた人たちがいる。墨田区千歳の住宅街に「喫茶ランドリー」なる場所を立ち上げた株式会社グランドレベルの田中元子さんと、大西正紀さんだ。
おふたりはクリエイティブ・ユニットmosakiを結成した後に、「1階づくりはまちづくり」をモットーとした株式会社グランドレベルを立ち上げる。『マイパブリックとグランドレベル 今日からはじめるまちづくり』という書籍も2017年に上梓したばかり。
個人の創造性を引き出すこと、「コミュニティ」という言葉を引き受けないこと、エラーを意図的に起こすこと、観光をアップデートすること。都市で暮らす自分が向き合ってきた問いを投げ、それにたっぷり答えていただいたのが、この記録である。
素人のクリエイティビティは「爆発」する
──グランドレベルが手がけてきた「喫茶ランドリー」や「パーソナル屋台」は、社会のモノカルチャー化に抗う行為だと、自分は捉えています。そこで今日は、その抗い方のヒントを伺いに来たんです。
田中:そう言ってもらえて、嬉しいですね。ロードサイドでも都市でも、大手チェーンで埋め尽くされるのってすごくつまらないことだけど、それを好む人がいるのは事実なんです。たとえば、海外旅行に行ってもマックに入ってしまうとか、どこに行っても同じサービスが受けられる安心感を求めてしまうとか。その一方で、その街に行ったらそこにしかないものにドキドキしながら触れることを楽しみたい人もいて……二極化が起きているんじゃないかと思います。
──二極化ですか。
田中:そう。チェーン店ばかりの街と、個人の能動性が発露している個性的な街、どちらに住みたいですか、という問いを多くの人が考える必要があると思っています。
──どうすれば、後者のような街をつくっていけるんでしょうか?
田中:いまの東京はハコができあがってしまっているから、ここから変えていくのは難しいんじゃないかと思います。でも、自動運転の時代がやってくれば、駅から少し離れてしまっているエリアも耕されていくはず。
これからわたしたちがワクワクできる街は、いま栄えてなかったり、退屈だったり、人が少なくなってきたり、現時点でなんらかの問題を抱えていると思うんですよね。きっとそのほうが面白くなる可能性は高い。
──たとえば、ベルリンは1991年に「ベルリンの壁」が崩壊し、空白地帯となった東ベルリンをスクワッターたちが不法占拠して、クラブやアートカルチャーが花開いたという話もありますよね。ハコができあがってしまえば、もう打つ手はないんでしょうか。
田中:実はそうとも限らなくて。いま始めるべきなのは、プロ店員を辞めることだと思います。大西と世界のさまざまな都市を巡るなかで、お店の店員って、どこの国も表情が豊かな一方で、日本だけが表情を殺すことを良しとしています。たとえばコンビニに入ったとき、プロの店員として接客されるじゃないですか。それは、個人性の排除であり、非人間的になることだと思います。日本はそれを「プロ」や「大人」と呼ぶからタチが悪い。
大西:個人の能動性や自由よりも、会社の歯車であることが重視されているんです。名前も年齢もすべて取り上げて会社の一社員としてのプロを要求する、ということを続けている会社や組織がほとんど。一日を過ごす中で、人間性に触れる機会が極端に少ないのが、日本の悪い特徴だと思っています。
──たしかに、プロ店員と接する中で自分も「プロ客」になっている気がします。
大西:まさにそのとおり。ハコを提供する側は、その提供の方法がわからないからフリースペースとして渡してしまう。多くの人は自身の創造性に気づいていないから、そのハコを有効活用できない。その繰り返しなんです。
「プレイヤー」って言葉があるじゃないですか。ぼくはその言葉が大嫌いでして(笑)。ここに0歳の子どもがいても、おばあちゃんがいても、みんなプレイヤー。ポテンシャルを持っているはずなのに、「自分はただの消費者」だと思っている節があるんです。
──誰しもがプレイヤーである、という思想は喫茶ランドリーにも色濃く反映されていますよね。
田中:そこが根幹にあります。もともとの経緯を話すと、個人の創造性の発露と、グランドレベルをつくることの面白さは両輪で気づいたことなんです。パーソナル屋台という取り組みをしていたときに、よく街を観察するようになって、街のグランドレベルが三角コーンばかりで殺風景だなと思うようになりました。
大西:「どんなパーソナル屋台をつくりたいか」のワークショップを開催したとき、お題を出すと、みんなとんでもないことを言い出します(笑)。占いができるから、占い屋台で街をまわりたい!とか。屋台を舞台にしたときに、参加者の頭の中ではさまざまな街の活用方法が見えているわけです。
──実は、能動性が秘められていた?
田中:そうそう。たったひと時であっても、すごい世界が広がっている。プロのクリエイティブは安定供給が求められるけれど、素人のそれは「暴発」するんだと。ふとした瞬間に「ボン!」と見たこともないような暴発をする(笑)。完成度はともかくとして、すごくインパクトのある瞬間なんです。
わたしはそれにときめいちゃったんです。だから、素人のクリエイティビティが爆発する手助けになる仕事をしようと思ったんです。
──それが喫茶ランドリーの最初のコンセプトだったんですね。面白い!
「最初の踊り子」が場のルールを形づくる
──今日は「補助線のデザイン」についても聞きたかったんです。個人の創造性を引き出すことを『マイパブリックとグランドレベル』でそう表現して、喫茶ランドリーで実践していますよね。
田中:そう。わたしが思いもよらないような使い方をしてくれることが、成功だと思うんですよ。自分たちのことをよく「最初の踊り子」と表現するんです。誰も踊っていないダンスフロアで、最初に踊り出す人。大事なのは、2人目や3人目がフォローしてくれること。つまり、喫茶ランドリーでもわたしたちが最初に何を置いたか、どんなコミュニケーションを取ろうとしたかが、その後にずっと影響を与えていくわけです。
──社会運動の起こし方をテーマにしたTEDのプレゼンでも、フォロワーの重要性が指摘されていますよね。野外フェスでひとり、またひとりと踊りだして、最終的には大きなダンスフロアが出来上がるという。
田中:喫茶ランドリーでは、お客さんも店員も、プロとしか社会的役割とか以前に、一人の人間として、そこにいてくれればいいんです。できるだけマニュアルは設けず、自分がやりたいと思うことをやってくれればいい。お客さんもぼんやりしたり、編み物をしてくれていていい(笑)。
たとえば、花が好きな主婦の方がここに花を飾ったり、好きなように過ごしてくれて、「人生が変わった」と言ってくれたわけです。世の中に「ただの主婦」はいなくて、自身を表現する場がなかっただけなんです。そういう人が喫茶ランドリーを使って自分自身であることを楽しんでくれることが嬉しいんです。
「コミュニティをつくる」ことは目的じゃない
──思想やコンセプトを実空間に落とし込んでいくことは、簡単ではないと思います。喫茶ランドリーをつくりあげるなかで、どこにこだわりましたか?
田中:本当に苦労した点も多いんですが、空間としてこだわったのは、みんなが見たこともないような、デザインとして強度のあるものは置かないことです。そうやってマウントを取りたくなかった……(笑)。まだ何もモノを置いていないときに「おしゃれなカフェですね」と言われたんです。その度に「そう思われちゃうのか……」と落ち込んじゃって。最近はごちゃついてきて、別の感想を貰えるようなったんですけれどね。
──(笑)。
田中:実家っぽくしたかったんですよ。喫茶店や実家の「ふぅ」ってなる安堵感はどうやったら生まれるんだろう、とずっと考えてきたんです。ごちゃつかせることが目的ではなくて、そこに生活に近しいなにかを再現したかったから、今の内装に落ち着いています。
大西:たとえば、ミシンを置くじゃないですか。ご婦人2人が「あら、いいわね」って最初は機能的なものとしてここを使えるんだなって考えて遊びに来ます。そのときにプライベートとパブリックの境界を考える。その2人はお互いのお家でミシンで縫い物をやっていて、ここに行こうかどうかって迷うんだけど、行ってみるとミシンがかけられるし、たまに話しかけられるのが意外と嬉しいわね、となって毎週来てくれるようになる。
──それも能動性の発露の一例ですね。
大西:そうなんです。コミュニティって都市のどこかに埋もれていると思っていて。たとえば、そこらへんで人々は集まって編み物しているけど、みんなでやれる場所がない。ここで編んでる人たちに聞くと、幸せだって言うわけです。「これね、スタバでできないの」って言われたときに、スタバでは編み物が禁止されていないけど、できない空気を出しているし、彼女たちもそう感じているんだなと。
田中:そうやって既存のコミュニティがまちの1階で可視化されたり、自然発生的に生まれることが理想なんです。でも、わたしはコミュニティカフェって言葉が、すごく嫌いなんです(笑)。だって、その言葉自体が「コミュニティを発生させる場所をつくっている」という宣言じゃないですか。
それって、逸脱が許されないように感じていて。「コミュニティ」という言葉は隠して、偶発性やある種のエラーといった逸脱の先に、結果としてコミュニティが生まれるほうが健全だし、あるべき姿じゃないかと思っています。この場でコミュニケーションが生まれたり、コミュニティが発生したりするのは喜ばしいけれども、そう標榜したら負けだと(笑)。
──個人の創造性が暴発する瞬間も、一種のエラーですよね。
田中:そうですよ。たとえば、私たちの間でもいろんなエラーが起きるんですが、それは私が大西と一緒にやっているからなんです。まったく異なるふたりの創発によって、想像もできなかった世界が見えてきます。
大西:当たり前ですけれど、エラーってわざと起こせないんです。でも、いま田中の話を聞いていて思ったのは、声をかけることでエラーを起こせるかもしれない。たとえば、変なことしている人がいて「何されているんですか?」って聞くのも一種のエラーで。自分たちからつくれる唯一のエラーが、コミュニケーションだと思う。だから、積極的にコミュニケーションをとることで、モノゴトを想定外の事態に運んでいける気がするんです。
「豊かさ」は、ヒューマンスケールな環境から始まる
──先ほどワークショップの話がありましたが、ワークショップは非日常性がある場所だから、わりと創造性が発露しやすいと思うんです。でも、喫茶ランドリーのように日常の中にある場所でも、個人のクリエイティビティが発露するのは素敵だな、と思いました。
田中:家でも遠慮して、職場でも遠慮して、遠慮を一日中続けている生活よりも、ここで過ごす時みたいに、やりたいことを発露させる時間が増えてほしい。そうでないと、自己評価も高まらないし、表現の仕方もわからなくなるし、悪循環だよね。
──日常のなかで創造性を発露させられる場が増えていくと、街のもつ魅力にも変化が起きそうです。
田中:そうなんです。わたしたちは観光は「日常型観光」に変化していくと考えているんです。観光という言葉からイメージされるのって、名所を見て回ったり、その地域の名物を食べたり。そうじゃなくて、そこでの暮らしを疑似体験しようという提案が「日常型観光」なんです。旅先で偶然会った人との会話とか、道端で変な虫を見つけたとか、そういうことが観光と呼ばれるようになってもいい。
大西:デンマークの首都コペンハーゲン市は、「観光の終焉」という観光戦略を取っているんです。観光ではなく、コペンハーゲンで生活をしてくれれば、それがあなたにとってのコペンハーゲンになるというスタンスで。
──観光都市が「観光の終焉」と言うと、説得力が違いますね。
田中:ポートランドがこれだけ注目されていたのも、そこに日常の豊かさがあるから。観光と地域住民の生活の両方に投資するよりも、そこでの生活を豊かにすることに投資したほうがいいじゃないですか。その際に、まずはコンパクトなエリアで、一階づくりからはじめてみる。そうすると、観光にコミットしていない人も、まちが豊かになってきた実感を得られやすい。そこが最初の一歩な気がしますけれどね。
──最近、バルセロナやパリ、日本では京都といった観光都市に観光客が来すぎてしまう問題を「オーバーツーリズム」と呼ぶのですが、解決のヒントを貰えた気がします。
田中:そういった20世紀型の都市のほうが、衰退する危険性があるんじゃないかと思いますよ。
──なるほど。日常観光を充実するためにも、街のグランドレベルに喫茶ランドリーのような場所が増えていくことは重要ですよね。改めて伺いたいのですが、おふたりの実践は、人々の豊かさにどんな影響を与えるのでしょう?
田中:他者がいて、多くの人がその街で過ごしている。そして「どう、調子は?」と声を掛け合える街に住むことが、豊かだと思っています。
どんなに高い建物が建っても、高速移動ができるようになっても、人のスペックって変わらないじゃないですか。だから、テクノロジーが進化してもわたしたちが実感できる豊かさのスケールは変わらないと思うんです。そんなときに、エラーが起きる可能性がある場所にいて、知らないものに触れられるって豊かですよね。そうすると、人間は命というルーチンに飽きずに生きられるというか。
大西:人間が健康でいたいと思うときに、身体を鍛えたり、いい食事を摂ったりすることも大事です。けれども、人と人とのコミュニケーションやつながりも、人の健康に影響を与えるでしょ? 必ずしも話すことだけがコミュニケーションというわけでもない。たとえば、宅配のお兄さんが外を歩いていて、それを視認することもコミュニケーションのひとつなんです。
田中:ここがガラス張りなのも、その街に住む人と内部が違いに視認できる状態にするためなんです。違う属性の人同士を、おせっかいにも手と手を結ばせて「仲良くしなよ」という場所はつくりたくないんです。それは、起きてもいいし、起きなくてもいい。でも、自分の目で街にさまざまな世代や属性の人が住んでいることを理解するだけで、その街で暮らしている実感を得られると思うんですよね。
──街を歩いている人からも喫茶ランドリーの中が見えるので、通りかかった人もゆるやかに街とつながっている感覚が得られる気がしますね。ヒューマンスケールの豊かさには、グランドレベルの豊かさや個人のクリエイティビティの暴発が必要ならば、自分も実践できることが沢山あると気付かされます。ありがとうございました!