街が舞台になった「物語」を読むことで繋がる

普段私が良く読む都市系のメディア『CityLab』に、先日「How Do You Read a City?(あなたは都市をどう読むか?)」という題名のエッセイが出た。筆者は、CityLabの編集者のひとり、Adam Sneed。ふだん編集者として都市やまちづくりに関する情報を発信している彼が、まだ行ったことのない街に足を運ぶとき、どのようにその場所を知り親しむのか(この記事ではそれを、”読む”という言葉づかいで説明している)、といった内容だ。

新しい街に行く際に、お決まりで目を通すメディアが彼にはあるという。 Atlas ObscuraというWebメディアや、36時間で見てまわれる街の見所を紹介するニューヨークタイムズ“36 Hours”シリーズなど。厳密には料理番組だけれど、世界のあちこちの都市事情が分かるアンソニー・ボーディンのパーツ・アン・ノウンは私も必ず観る。

しかし、彼がその場所と”繋がるために”一番好きな方法と言っているのは、フィクションであれノンフィクションであれ、その街が舞台になった「物語」を読むことなのだそうだ。

私も実は全く同じで、例えば編集者Helen Constantineがシリーズで出版している「City Tales」シリーズは必ず読むようにしている。ローマやウィーンなど、その街が舞台になった各時代の小説を集めた短編集で、ある街のリアルな感覚を掴みたいときに読むと面白い。登場人物に感情移入したり、シーンの情景を思い浮かべたりしているうちに、その街と自分の関係が、グッと近くなる気持ちになるのだ。

データや客観的事実のみに頼らず、フィールドワークをして地元の人々の話を聞くのも、ある種「物語」を紐解く行為だろう。他にも、公共空間など、特定の場所について詳細に調査をしたい時は、ヤン・ゲール氏の『パブリックライフ学入門』に紹介されている複合的なアプローチを参照したりもする。Googleマップだってもちろん駆使する。

でも、もちろんこれは私なりのやり方で、まだ足を踏み入れたことのない場所を訪れるとき、他の人はどうしているんだろうとふと気になることがある。その土地の「物語」を、他の人はどう読んでいるのか、と言い換えても良い。それにそもそも、「都市を知る」ということはどういうことなのだろうか?

こんな疑問に華麗に答えを出してくれそうなシンポジウムが、先日京都で開催された。都市を訪問して気づくこと、現地での情報収集の仕方、事前の下調べについて、空間や企画、リサーチについて話あうイベントであるという。迷わず足を運んでみた。

なぜ、今都市を知ることが必要なのか?

主催するのは、主に観光やコワーキング分野の事業立ち上げやリサーチ、行政の施策策定に携わる小嶌久美子さんと、建築家/リサーチャーとして建築や都市に関する調査・執筆、提案、プロジェクトディレクションを行う榊原充大さん。

「ここ1〜2年、京都がおもしろくなくなっている、という声をよく聴きます。地価が上がり、京都の街並みが崩れ、利益重視のホテルやチェーン店の進出で、街がおもしろく無くなっている。京都の街をおもしろくするにはどうすべきか?そのためのアイディアやヒント、勝算を得るには、京都という都市をどう知るべきか?ということにつながるかと思います」

と小嶌さんはシンポジウムの趣旨を振り返る。

写真:高橋藍

建築や都市にまつわるリサーチを普段から業務で行なっている榊原さんは、クライアントをはじめ様々な人々と話すなかで「都市リサーチ」へのニーズが現在高まっていることに言及。リサーチそのものが目的化しないために、そもそも「都市を知る」とはどういうことか、という普遍的なテーマに着目し、その多様性を見ていくために個々人の具体的な手法について議論するようになったという。

榊原さんのプレゼンテーションでは、新しいまちに対する人々の態度を、関心が先行する場合と機会が先行する場合との二者にわけつつ、事前に行う調査から現地での動きまでのプロセスを意図的にメソッド化・一般化することを試みた。普段リサーチャーとして働いている彼は、最後にこう締めくくっている。

「しかし。やはり、都市を”完全に知る”など不可能なのです。スポットを沢山知っていたり、文化や歴史などの情報に詳しくなったとしても、あるまちを包括的に「知り切る」ことはできない。なので、「知っている」状態よりも、「知る」という態度が重要だと僕は思っています」

写真:高橋藍

ここで、慶應義塾大学理工学部の教授、ダルコ・ラドヴィッチ氏の主張を思い出す。著書『Subjectivities in investigation of the urban』のなかで、彼は都市のリサーチにおけるある種の”普遍性”を批判し、多様な立場を意識した主観性な視点から、能動的にまちを探求することの重要性について記述している。

都市の分析には客観性が求められるが、実際のところ都市の質は往々にして捉えどころがないままである。都市づくりや都市生活は多くの点で自然科学と社会科学の両方に依存してはいるものの、「都市的なるもの」の複雑性は決して科学的思考のみに還元できるものではない。(Radovic, Darko 2014:7)

「知っている」だけでは意味がない

都市を完全に知ることよりも、知ることへの態度が大切だという榊原さんの言葉に、なるほどと頷かされたのがゲストによるトークだ。今回は不動産をテーマに、不動産業界の実践者をふたり、ゲストとして招いた。

“不動産ポエム”を詠む川端組の川端氏と、不動産プランナーとしてのユニークなリノベーション企画を手掛けるAdd SPICEの岸本氏。

彼らが普段仕事をするなかで、新しい街や、物件のある対象エリアをどう調査をするのかを聞くと、「知る」という行為が、必然的にアクションへ結びついていることに気が付いた。そもそも、「知っている」だけでは意味がないのだ。

写真:高橋藍

例えば、川端組の川端氏。「京都一ファンキーな不動産」として、仲介とリノベーションの企画を行う会社の代表だ。今回は、台湾にリノベーション物件の調査に行った際の体験を振り返り、Googleやインスタグラムを駆使して面白い物件を探す手法を説明。

五感に頼り、彼なりに”匂う”場所を調べ、狙ったスポットをマッピングしていく。背景にあるのは、インプットとアウトプットのサイクルを早くするために、インプットを多く自分のなかに溜めていくこと。つまり、最終的にアウトプットとして自分のプロジェクトに生かそうという意気込みがある。

対して岸本氏は、オーナーの困りごとを企画に落とす不動産プランナー。扱っている物件のエリアを知るために、いつもデータに頼らずにひたすら歩き回り、喫茶店での会話などに耳を傾けたり、同業者以外の人に情報を聞いたり、通行人の特性などに目を配るという。

「人に提案するとき、自分が理解していないと企画なんて出来ません。自分の人生の引き出しみたいなものを、様々な体験をすることで増やしておくようにしています」と語る。リサーチの内容から街の課題を遂行し、その課題を解決するための提案として不動産企画に落とし込むのだそうだ。

例えば、バリエーションがなくて面白くない地方都市で、住まい方の選択肢を増やすための物件提案をしたり、ホテルの乱立する京都に、あえてシェア別荘など少し異なるアプローチの物件を提案したりする。エリアや場所ごとに特有な価値を見出し、キャッチフレーズをつけていくような姿勢は、編集者的だ。

「知っている」状態よりも、「知る」という態度が大切

情報収集の仕方、事前の下調べや現地での振る舞い方など、個々人の手法を学び合い議論するのは面白い。こうして「HOW(どうやるのか)」を議論して行くと、結局はその人やプロジェクトの目的次第だ、ということが改めて分かってくる。最終的にリサーチで得た学びを他者と共有し、具体的なアクションとしてその知識が使われるとき、「WHY(なぜ知るのか)」の真髄が見えてくるのだ。ここに、このイベントの肝があるように思う。

前回の記事で、「私たちの脳は、都市をあるがままの形態で把握しているわけではない。街を「A地点からB地点への移動」と捉えるのではなく、自身の感情や思考と結びつけながら、街のイメージを構成し、理解する」と書いた。

結局は、都市の全てを知り、全体を把握することなんて、不可能だ。それでも、それぞれの目論見を胸に、私たちは街を「知り」続けたい。

最後に、敬愛するダルコ・ラドヴィッチ氏の言葉を再び引用する。

我々に必要なのは、都市の現象と、その多様でダイナミックな相互作用について、「測定可能」な側面と「測定不可能」な側面、「数量的」側面と「感触的」側面に、いずれも等しい妥当性と力量と核心を持って取り組むことができるような、柔軟で確固たる複合的アプローチである。

その結果として得られた知見を伝えることは、知見そのものと同じくらい重要だ。究極の目標は、ボトムアップのエネルギーを活性化させ、幾重にも重なる主観的現実の認識を促進することであり、それこそが大切なのだから。