バンコクを初めて訪れたとき、どこをどう歩けば良いかわからなくて、途方にくれた。

Googleやガイドブックで名所を調べて、有名な寺院やマーケットに足を運んだけれど、いまいちピンとこない。

そこに、街のリアルな日常や乱雑さはなかった。なんとなく、自分が宙に浮いているようで、「その場所にいる感じ」を掴むことができなかった。 

もやもやとしながら数日を過ごしたのち、地元の本屋で、非常にヘンテコな地図を見つけた。見つけた瞬間の「これだ!」という感覚は、今でも忘れられない。

見つけたのは、Nancy Chandlerというデザイナーが手書きで作ったバンコクの地図。マイナーなストリートにいたるまでイラストで再現され、手書きのテキストがびっしりと書き込まれている。ショップやレストラン、歴史的な建造物の名前だけでなく、彼女自身の意見やアドバイスなど、クスッと笑ってしまうような説明書きがついていた。

例えば、銃器を売っている店に、「うーん、こんなものを売らなければもっと良い世の中になるのに」と書いてある。見所を知りたい観光客にとっては、どうでもいい情報かもしれない。けれど、パーソナルで、少しお節介な地図に、私はすぐに愛着が湧いた。

翌日、その地図を片手にバンコクを歩いてみた。彼女の言葉通りに進むと、狭い路地に迷い込んだりもした。

「この道、大丈夫?」

気づけば、彼女とおしゃべりをしている気分になったのを覚えている。

街を自分ごと化する「主観的な地図」

バンコクでの体験以来、私は街に暮らす人が描く「主観的な地図」に、興味を持つようになった。

Googleマップやガイドブック、観光地図など、私たちが利用する地図の多くは、ニュートラルに編集されている。地図に書かれているのは、あくまで「情報」であり、その街に暮らす人の「感情」や「思考」ではない。

けれど、私たちの脳は、都市をあるがままの形態で把握しているわけではない。街を「A地点からB地点への移動」と捉えるのではなく、自身の感情や思考と結びつけながら、街のイメージを構成し、理解する。

アメリカの都市計画家ケビン・リンチは、1960年に出版された著書『都市のイメージ』のなかで、こう語っている。

多くの場合、都市に関する私たちのイメージは断続的で、他の要因と混ざり合ったうえで構成されている。ここでは、全ての感覚がフル稼働している(Lynch, 1960, p 2.)

街で暮らすなかで感じる、たわいもない感想や経験、記憶。一人の人間が、五感をフル稼働して得た断片の多くは、地図に記されることのないまま、いずれは消えてしまう。

しかし、そうした主観を書き留めて、誰かと共有できれば、これまでとは違った視点で、都市空間を捉え直せるのではないか。そうすることで、街との距離をもっと縮められるのではないか?

例えば、ヨーロッパの若者向け観光地図『USE-it MAP』は、街に暮らす人たちが、自分たちの日常や経験にもとづいて作成する。有名な観光名所やホテルの情報ではなく、街で暮らすなかで感じる、たわいもない感想や経験、記憶をベースにつくられた地図からは、地元の人たちの街に対する誇りと愛着が見て取れる。地図の読み手は、地元の人からみた街を体験でき、地図の作り手も街への誇りを実感できる。こうした積み重ねがあれば、一人ひとりが、より街の課題を自分ごと化として捉えられるようになるかもしれない。

ヨーロッパの大学院で都市デザインを学んだ後、帰国して東京・渋谷で働き始めた私は、この「街を自分ごと化する」という感覚を、東京でも再現してみたいと思い、他の取り組みを参考にしながらモデルを組み立てた。

2018年には、東京・渋谷で、パーソナルな体験談や個人の記憶、肌感覚などが表現された「主観的地図」をつくるワークショプを開催。参加者による、独創的で、良い意味で奇妙な地図を目にしたとき、自身の感情や思考と結びつけながら街を理解することの重要性を改めて実感した。

同時に、この「主観的地図」づくりのモデルは、渋谷だけでなく、他の諸都市でも応用できるはずだと思った。

都市を理解するための「個人のメガネ」

縁があり、先月メキシコに滞在中、国際交流基金メキシコ日本文化センターの後援で、モンテレイ工科大学建築学部のゼミ生向けに「主観的地図」づくりのワークショップを開く機会をいただいた。

メキシコの名門校、モンテレイ工科大学。メキシコシティから車で約2時間の中規模都市、プエブラのキャンパスで、今回のワークショップは開催された。

集まった学生は、建築を専攻する学部生14名。彼らのゼミで教鞭を取るのは、京都を拠点に活動する一級建築士・河井敏明氏だ。

歴史的街並みが残るプエブラのダウンタウンは、数年前の地震で多くの建物がダメージを受けて以来、再開発がなかなか進まず閑散としている。現地のコーディネーターによると、「最近は誰も住みたがらない」のだそうだ。

そこで、ワークショップでは、誰も住みたがらないダウンタウンの魅力を、自分たちなりに発見し、記述しようと試みる。学生は、建築工学やデザイン理論に則って街を分析するのではなく、個人の感情や思い出などの主観から街を捉え直し、自分だけの主観的地図のプロトタイプをつくった。

まずは、アイスブレイクとして、普段どのような地図をどの目的で使うのか、お気に入りの地図はあるか、地図にまつわる個人的なエピソードなどを話し合った。

その後、ホテルや観光案内所で配布されているダウンタウン周辺の地図を、グループごとに分析する。観光客用のお土産ショップやホテルの情報が目立つ一方、公園やローカルなショップ、歩きやすい道などの情報は載っていない。多くの学生が、公式な地図からは、歩行者や住民の存在、人々のリアルな日常生活が抜け落ちていることを指摘していた。

分析をした後は、個々人の「視点」を定めたのち、フィールドに出て、主観的地図のプロトタイプをつくる。「影のでき方」や「自分が落ち着くチル・スペース」、「自分が安全と感じるスポット」、「自分の好きな建物の建築様式と素材」など、学生によって集めてくる情報はさまざまだ。

例えば、

  • 街のサウンドスケープが気になった。車のある場所とない場所で、居心地がガラリと変わる。
  • 歩いていて心地よい場所と、居心地が悪いストリートに、大きな違いがあることに気づいた。その違いを考えてみると、自分は緑がたくさんあって、陰が程よくあるストリートに魅力を感じることがわかった。
  • 無意識にインスタ映えするスポットを探しながら歩いた。

など、短時間のプロトタイプであるにせよ、学生一人ひとりが独自の視点を持ち寄り、「なぜそう思うのか?」まで深ぼって議論した。

地図は「物語」を語る

渋谷でのワークショプをメキシコの文脈に応用させてみて、良い意味で「あまり違わない」という印象を受けた。

もちろん、メキシコでは「安全性」、渋谷では「公共空間」に注目する人が多いなど、目の付け所やそれに対する解釈には違いがある。しかし、主観的地図づくりが街の見方を変え、個人と街の関係性を編み直す可能性を持っていることは、確かだと実感できた。

一方で、新たな気づきもあった。結局大切なのは「何が書かれているか」ではなく、既存の空間的表象や体験に対する「批判的な目」を養う訓練なのではないか、ということだ。

例えば、アーティストや教育者向けに国際的なクリエイティブワークショップを開催するフランスの非営利団体「Nomadways」は、「Subjective Mapping For Social Change」というワークショップで、社会変革のための批判的・主観的な地図づくりの重要性を訴えている。

私たちが普段目にする地図は、世界の「真実」を現す表象だと思われがちだけれど、実はそうではない。地図は社会的に構築されたイメージだ。どんな地図にも目的があり、それぞれの物語を語る。そして、支配的なイメージや言説は、私たちの認識や理解の仕方に大きな影響を与える。(…)だからこそ、主観的地図をつくるという行為は、既存の空間表象に挑戦し、異なる物語を語るための手法のひとつだ。(Nomadways 2017)

研究者Monica Stephensも同様に、私たちが普段、客観的で合理的だと信じ込んで使用している地図が、実はいかに偏ったものであるか、警告を発している。

例えば、私たちが日頃から目にするメルカトル図法の地図は、アフリカや南米、中国などの国の大きさが現実と全く異なるため、西洋中心主義的であると批判され続けている。タイムリーにアップデートが可能なデジタルマップも、地図の精度や表示される情報は、地域によって未だ大きな差がある。Googleマップも、真実をそのまま合理的に表示しているのではなく、個人の過去の検索結果に基づいて、表示するショップなどの情報を常に恣意的に選別している。

どんな地図も編集されており、その過程で、多くのものがこぼれ落ちる。そして、私たちの認識やイメージ、体験のあり方は、メディアなどによって構築されたこうした空間的表象に大きな影響を受けている。

だからこそ、自分だけの物語を語る主観的地図は、街への愛着を育むだけでなく、既存の空間的表象に対峙するオルタナティブを提供するツールにもなり得るのではないだろうか。