僕が耐えられなくなっているもの、それは「笑い」だ。笑いそのものだ。人間の顔だちを変形させる、その突然の劇的なひずみ。それは一瞬にして、その顔が有していたあらゆる品位を台無しにする。人間が笑い、そして人間だけが動物界においてこの恐ろしい顔面変形を顕すのだとすれば、それは同時に、人間だけが動物の本質であるエゴイズムを通り越し、残酷のすさまじい最終段階にまで行き着いたということも示している。
ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』p65-66

もう1年以上前になるが、2017326日放送の『ワイドナショー』に脳科学者の茂木健一郎が出演した。茂木は同年225日にTwitter上で「日本のお笑いは空気を読むことに終始していて、権力構造へのシニカルな視点が皆無である」と苦言を呈し、この一連のツイートを展開したのが事の発端となり松本人志が司会を務める同番組に出演したわけではあるが、画面に現れた茂木氏は完全に意気消沈していた。かれの言い分は「お笑いの批判ではなくエールだった」とのことだが、松本人志を前にして「悪いことをして校長室に呼び出された気分」だといった。
ぼくも日本のお笑いが好きだ。
十代の頃からM-1グランプリは毎年楽しみにしているし、関西ローカルのお笑い特番『オールザッツ漫才』で新たな才能が登場する瞬間に立ち会えたときの感動はひとしおだ。特にM-1グランプリやキングオブコントに関していえば、この大会で結果を残すことが芸人としてのキャリアアップにつながるというルートが確立されたことにより、ネタの構成や切り口については20年前と比べて明らかに洗練されたとかんじる。
しかし、このルートこそが茂木の指摘する「権力」ともいえ、ある意味において表現の画一化をもたらしているというのも一理ある。賞とは権威の継承に他ならず、特定のコミュニティにおける評価というのは権威に依存せざる得ない構造を原理的にとっているとも考えられる。
そして同年1217日、演芸番組『THE MANZAI 2017』に出演したウーマンラッシュアワーは政治や権力に対抗した漫才を披露し、沖縄の米軍基地問題や思いやり予算などについての言及を行い話題となった。風刺漫才自体は爆笑問題をはじめとする漫才師がずっとむかしから行なっていたひとつの形式であるけれども、ウーマンラッシュアワーがおこなったネタの特徴は直接的な否定を行い、さらにそれに無関心な態度を示す聴衆や視聴者に対して危機感を煽るような態度を示したことにある。ネット上では賛否両論が起こり茂木健一郎はこれについて強い共感を寄せた。

ネタについての賛否をここでいうつもりはない。いろんな「お笑い」が存在するという事実は尊い。
しかしあえていうならば、ぼくとしては直接的な言及だけがタブーに対する示唆を与えるわけではないと考えている。たとえば、さらば青春の光のコントで『AV俳優』というものがある。これはアダルトビデオに出演する男優について「視聴者はかれらに演技力を求めていない」という暗黙の認識を「俳優」ということばを用いて解体したコントだ。AV男優に対して「演技など不要だ」と言い放つことは職業的差別とも捉えかねないが、そもそもそうした形として提示されなかった認識を聴衆の眼前に引きずり出すことにも茂木健一郎の指摘するものがあるのではないだろうか。だとすれば、お笑いという表現に限らずいまの日本に足りていないのは「空気を読まずにタブーに切り込む表現」でなく「表現への批評」だ。

コメディアン文学としての『ある島の可能性』

こうしたことを考える契機になったのが、タブーに対してセンセーショナルな作品を発表し続けるフランスの作家ミシェル・ウェルベックの存在に他ならない。そして茂木健一郎の「お笑い批判」やウーマンラッシュアワーの「政治漫才」を見たときに真っ先に脳裏をよぎったのが長編小説『ある島の可能性』だ。
本作は、コメディアンにして映画監督であるダニエルが遺した「人生記」を2000年後のかれの遺伝子をもとに生み出されたネオ・ヒューマンなる種族のダニエルの末裔(ダニエル24、ダニエル25)が読み、注釈をつけるという構成をとっている。いわばはるか過去の「わたしではないわたし」の文章を読むことによって人生を生きなおすような感覚もあるSF小説でもあるのだが、ネオ・ヒューマンには生殖や食事をはじめとする身体的な拘束からほとんど解放されているため、かつての「人間」という種族とはまったくことなる感覚を有している。
ネオ・ヒューマンの世界では個人を悩ませる外的な抑圧がすべて無意味化し、権力や社会の構造が自発的に解体される。これは現代を生きるぼくらとは正反対だといえるだろう。ぼくらに意識的にも無意識的にも少なからずの不快感を与え思考を制御しているタブーとはそうした外的要因のことであり、この外力はソリッドなコミュニティの形成をも促している。この点に関してはジグムント・バウマンとデイヴィッド・ライアンの対談本『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リッキド・サーベイランスをめぐる7章』でも『ある島の可能性』をとりあげながら言及されている。

参考:テクノロジーは組織の運営体制を抜本的に変えるか–「監視」を軸に現代社会を議論する『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リキッド・サーベイランスをめぐる7章』

ネオ・ヒューマン以前の人間だったダニエル1は、人間を束縛する外的要因に翻弄された人生を送っていた。コメディアンとしてセクシャルなテーマや人種問題などの「タブー」を直接的に取り上げたコントや映画を多数創作し、自身のプライベートでも性に溺れ、愛を渇望した。愛を求めるが欲望を求めないイザベルと、欲望を求め愛を信じないエステルという2人の女性に強い恋情を抱きながらも最終的にどちらも満たすことができず、失意のうちにその人生を終える。そして肉体と感情の拘束はかれ個人の苦悩としてのみ描かれるわけではなく、ダニエルが接触し、のちにネオ・ヒューマンを誕生させる新興宗教団体「エロヒム教団」の拡大戦略のなかでも集合的な挙動としても描かれている。理性を超えて抗えないものに種族として翻弄される人間の様子は、そしてダニエル1の人生は、ネオ・ヒューマンにとってナンセンスな喜劇そのものだっただろう。しかし、すべての束縛を失い無を生きるかれらにとってその「笑い」は決して無意味ではない。それこそがダニエルが最後に遺した詩にある「ある島の可能性」だ。

タブーは語られるものだけに存在しているのではない。
笑いそのもののなかにも、タブーは存在しているのだ。

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