私はフェミニストだなんて思われたくなかった。ほんのちょっと前まで。
そして正直に言うと今でも、すこし。

フェミニストの正確な定義を言えなんて言われたら答えられないし、フェミニズムについてどっぷり語れと言われても語れない私にとって、ある本に出会うまで“フェミニスト”は「女の権利のため徹底的に戦う人々」だった。

私はいわゆる女叩きだったり、下ネタだったり、“女の権利を害する”話題でも、その語り口が面白かったら一切の迷いなく爆笑してしまう。だけど、SNSのプロフィール欄に“フェミニスト”と書いたら最後、笑いを押し殺し、その“女の権利を害する”部分について真顔でできる限りの論破を試みなくてはならない、そんな風に思っていた。

また、ありがたいことに、これまで学部選択だとか、大学院進学とか、果ては研究活動においても「女だから〜してはいけない」「女ならば〜すべき」なんて言われたこともあまりなかったものだから、「世の中意外と平等なんじゃん」と胡座をかいていられた。

そんな私も子供を産んでみて、「お母さん(女)なんだから」というパワーワードの嵐に飲み込まれ、現実を思い知った。

「世の中全然全く男女平等ではない」

だから、これ以降の文章は、“男女平等のようなもの”をのんべんだらりと享受してフェミニストを勘違いしていたくせに、母親になる中で“男女格差”を目の当たりにして「こりゃ、なんか変わらなくてはならないな」なんて思いたった女の意見であることをはじめに断っておきたい。

1ページ目、そこに私がいた

前述の通り、フェミニストについて「女の権利のため徹底的に戦う人々」と認識していた私は、SNS上で見かけるフェミな彼/彼女たちの発言を少し苦々しく、そしてほとんど興味を持たず読み飛ばしていた。男女平等について考えるとき、とりあえず「フェミニズム」を知ろう、というところまで考えが及んでも、一体全体、どこから手をつけていいのかわからなかった。

そんな中、フェミニズムに関して興味のある本を調べていったところ、野中モモさんの名前がでてきて、芋づる式に『バッド・フェミニスト』を知った。

専門書ではなくエッセイだったことや、「バッド」の3文字が気負いを失くしてくれたおかげで、私は無事この本を手に取った。

そうして飛び込んできた1ページ目、さっそく私は救われたのだ。

あるコメディアンはファンに、女性の腹部に触ってみろと呼びかけます。そういう風に個人の私的な領域を侵犯するのは、そう、笑えるからです。あらゆる種類の音楽が女性を下に見ることを称揚していて、ああなんてこと、その音楽はすっごくキャッチーだから、気がついたら自分も声を合わせて歌っちゃってたりするんです。私自身の存在が傷つけられてるっていうのに。
ロクサーヌ・ゲイ、『バッド・フェミニスト(野中モモ訳)』p7

あぁ、笑っていいんだ、そう思った。
そして同時に「これは私の話だ」とも。夢中でページをめくると、次のような言葉が続いた。

こうした問題への注目を集めるために、何をすればいいのでしょうか?
ー中略ー
私がこれまで年齢を重ねる中で、フェミニズムはこうした問いに答えてくれました。少なくとも部分的には。
ロクサーヌ・ゲイ、『バッド・フェミニスト(野中モモ訳)』p8

私はフェミニズムに俄然興味が湧いた。

フェミニズムを享受する“フェミニスト”嫌いな私

フェミニストと呼ばれたとき、私の耳に聞こえていたのは、「おまえは怒りっぽい、セックス嫌いの、 男嫌いの、被害者意識でいっぱいの気取り屋だ」という声。
ー中略ー
その否定感情は、自分が社会的に追放されてしまうはないか、トラブルメーカーだと見られてしまうのではないか、主流派の人間として認められないのではないかという恐怖に根差しているものだったからです。
ロクサーヌ・ゲイ、『バッド・フェミニスト(野中モモ訳)』p11

ロクサーヌ、わかる、めっちゃわかるよ。私は頷くしかなかった。
だって私も、怖くてフェミニズムを否定し続けてきたから。そして私は次の文章で盛大に反省しなくてはならなかった。

フェミニズムを否定しフェミニストの名札を遠ざけている女性が、そのくせフェミニズムのおかげでなされた進歩を支持すると言うのは、頭にきます。そこに不要な断絶が見えるからです。
ロクサーヌ・ゲイ、『バッド・フェミニスト(野中モモ訳)』p11

現在進行形でフェミニストたることへの恐怖が拭えない私にとっては身につまされる言葉であった。フェミニズムに対する私の学習意欲は最高潮を迎えた。

しかし、次の章から彼女が提示してきたのは、彼女自身の話だった。

ハイチ系アメリカ人で女の彼女と日本人で女の私

彼女の話は出会い系サイトから始まった。そこから話はテレビドラマや映画などのポップカルチャー、黒人の少年が射殺されたショッキングな事件、歌手のエイミー・ワインハウスなど様々な分野へと枝葉を広げていく。

エッセイの中では、ハイチ系アメリカ人である彼女自身が受けた差別やそれに伴う絶望や不快感を忠実に描きながら、アメリカ文化の今が語られる。時に笑えたり、泣けたり、理解できないものだったりする。それでもそこに、日本に日本人として生きる女の私がぴったり重なる瞬間がある。

『バッド・フェミニスト』はフェミニストの歴史を教えてくれるわけではない。それでも、著者であるロクサーヌ・ゲイの視点を通して、私たちは今必要とされるフェミニズムについてどうしても考えなくてはならなくなる。紛れもなく、これは“フェミニズムを学ぶこと”であろう。

フェミニストってなんなのさ

繰り返しになるがこの本を読んでなお、私は“フェミニスト”の肩書きをつけるのが怖い。この恐怖と戦うにはあまりに私はちっぽけすぎる。

でも、だからこそ、社会におけるフェミニズムやフェミニストへの勘違いを取り払う必要があるのだ。だからこそ、男性も女性も子供も大人も、みんなにこの本を手に取ってほしいと思うのだ。

最後にロクサーヌ・ゲイお気に入りのフェミニストの定義をあなたに捧ぐ。

フェミニストとは「ただ単にクソみたいな扱いをされたくない女性のこと」
ロクサーヌ・ゲイ、『バッド・フェミニスト(野中モモ訳)』p362