It was like so, but wasn’t.

つまりそうだけれど、ほんとうはそうじゃない。

“たかが小説”なんかに影響を受けるなんて馬鹿げているといわれればそれまでだけれど、この一文からはじめられるリチャード・パワーズによる小説『ガラテイア2.2』により、25歳だったぼくの人生を致命的に決められてしまったのだからどうしようもない。

この小説をいまでも折に触れて読み返す。

そもそも大学院生のときにこの本を読むという選択をしてしまったことについて、ぼくには考えなくてはならないことがまだまだたくさんある。「ガラテイア」とはギリシャ神話でピグマリオンが作った彫刻の名前だ。そして『ガラテイア2.2』という小説は、パワーズ自身の半生を物語の下敷きとした自伝的内容を扱いながら、人工知能に文学を読み聞かせ「文学の修士号を取得させる」というプロジェクトを他ならぬパワーズ自身が行うという筋書きがある。
小説を読むために必要なことは「小説を読む」という行為であり、ニューラルネットワークとして構築された学習システムは「読む」という行為を通じてその規模を広げ、雑多な事象のつながりを強化する。作中で描かれた「ヘレン」と命名された人工知能、そしてパワーズによって描かれたパワーズ自身が、この際限ない反復のなかでみずからをアップデートし「2.2」というヴァージョンへと書き換えられていく。

2016年1月13日、ぼくの息子が生まれた日、パワーズのこの小説の冒頭をおもいだし、じぶんの人生で下してきた大なり小なりの選択のことが不意におもいだされた。

10代の頃からほとんど疑いなく持っていた「物理学者になる」という夢について。

妻との結婚について。

「文章」を仕事にすることについて。

選択とは未来を選びとる行為であると同時に、可能だったはずのすべての未来を捨てることに等しく、未来の座標から時間の矢に逆らい「過去の選択」へとまなざしを向けるのはある種の後悔がつきまとう。
しかし2016年1月13日のぼくの目の前に確固として存在した生命は、ぼくの人生を絶対的に肯定した。それは美しくも醜くもないただの事実で、いまここに存在しているという事象それじたいが力強く世界と呼びうる座標のうえに屹立している。

A = ‘ A = false and A = true’

Aはまちがいであり、真実である。

作家・樋口恭介のデビュー作『構造素子』は、エドガー・アラン・ポーの詩“a Dream Within a Dream”の樋口による訳文のあとに、この一文がエピグラフとして掲げられている。そしてこの小説はSFという想像力を駆使し、前述のパワーズや、円城塔『Self-Reference Engine』といった「物語の生成じたいを主題においた作品」であり、そして東浩紀『クォンタムファミリーズ』を踏襲し「ありえなかった世界」と「いま、ここにある世界」との関係性について緻密に構成された作品だ。

「読む」という行為の前景化

『構造素子』は「売れない作家である父ダニエル・ロパティンが死後に残した小説の草稿『エドガー曰く、世界は。』を息子のエドガーが読む」という構成が軸としてある。作中作のなかで構築された物語を生成するシステムが分裂をはじめ、作品がより複雑に階層化されているように読むことができるが、この構造は「入れ子構造」として意図されていない。
本作の序盤では、この小説世界を根底で支えているのは「記述」という行為にあり、そしてそれにより生み出された世界は「L-P/V基本参照モデル」と呼ばれる座標によって特定され、「記述された世界により記述された世界」は「記述された世界」の内部に入れ子的に存在するのではなく、それと並列する異なる座標に配置されているにすぎない。L8-P/V2に存在するエドガーは「あなた」という二人称で記述され、父ダニエルが遺した草稿を「読む」という行為が強迫観念的な必然として前景化される。
この「読む」という選択を行った「あなた」によりL-P/V基本参照モデルによって張られた座標に散らばった物語たちが統合され、その世界のすべてが消失してもなお存在するあらたな時空への接続を可能にしている。

生まれなかった子どもたちを肯定する「素子」

ぼくのハードディスクのなかに完成しなかった小説の草稿が無数にある。
書き出しやアイデアだけのものや、3万字ほど書いて放置されたもの、はじまりも終わりもない断片的な情景のスケッチなど、そのどれもが了の字を見ていないという共通点だけを持っている。

息子は生まれてから日々親に似てきた。親の真似をするから親に似てきたのか、それともかれの生得的な性質としてぼくや妻に似てしまっているのかはわからない。
息子は絵本が好きだ。毎日お風呂をあがり、歯を磨いて布団にもぐりこむと絵本を読んでとぼくにせがむ。『はらぺこあおむし』を読み、『おばけのコックさん』を読み、『おおきなかぶ』を読み、『おしっこどこでする?』を読み、『りんごかもしれない』を読み、疲れ切って気絶するみたいに眠るまでいくつでも絵本をぼくのところに持ってくる。家にあるすべての絵本を読んでしまってもまだ足らない日が増えてきた。
そういう日には、息子に即興でお話をつくって聞かせている。それは冬の魔人サムイ=サムイという男の子が主人公のお話で、ふつうのひとよりも体温が10度くらい低いという設定があり、むしろそれしかない。話すたびに生まれや育ちが変わり、英雄的でもあればとんでもない悪党でもあり、それを聞く息子はよろこぶ日もあればすぐに飽きてしまう日もある。息子は日に日によくしゃべるようになり、2歳になった冬に、冬のことばをたくさん話すようになった。さむい、さむいとよくいって、そうこうしているうちに春になった。ひとつとして明確におもいだせないかつてじぶんの口で語った物語──もう二度と生まれることのない複数の冬の魔人サムイ=サムイたちは、ただ一度語られたという事実によって忘却のかなたにあっても未だ存在し、ぼくと妻と息子が生きるこの座標へのたしかな影響を及ぼし続けている。

ダニエル・ロパティンが遺した物語はそういう類のものだ。「それがどんな意味を持つのか」に先立ってぼくらの存在そのものを成り立たせているもの──それが「構造素子」という固有名詞である。

小説を書くことは、おそらくひとに単純な幸福などもたらしてはくれない。

「小説なんて知らなければよかった」という絶望は小説を書いた人間にしかわかりえないが、その絶望をこえたところで「小説を信じた」ということを絶対的に肯定してくれるものは「小説を読み、書き続けた」という事実以外にありえない。小説『構造素子』が持つ「物語の生成」への自己言及的な構造は、「小説を信じる」というただその一点のためにある。