photo by Yasunobu Tamari

夜の川に潜る

夜イカリとは、夜の川に潜り、魚を取る漁法だ。郡上市では毎年8月16日頃に解禁され、漁を行うには地元の漁業組合が発行する遊漁証が必要になる。夜の水中でも6m先の魚が見えるほどの川の透明度がないと成立しない、長良川源流とっておきの夜這い漁なのだそうだ。話をきいた途端にもう身体がそわそわしだして、これはもうやりにいかないわけにはいかないと思った。

待ちに待った当日、河童のごとく川の魅惑に人をひきずり込むことで有名な、長良川カンパニー 源流案内人の「由留木 正之さん(通称:ゆるさん)」から、簡単に夜イカリについて説明を受け、夜の川に向かった。

夜イカリについて説明するゆるさん

闇に包まれた森や川というものは、言葉にし難い恐ろしさがある。昼間も聞いているはずの川の流れる音が、全く異なる質感で耳に飛び込んでくるのだ。

そんな闇夜を全身で浴びている間に、川の水面をすっと分(わか)つ音がする。すでにゆるさんが川に入っていったようだ。この人は川から生まれてきたのではないかと思うくらい、静かにすっと川に溶け合っていく。

僕らも後を追う。手には先端にイカリ型の針のついた棒(以下、イカリ)と懐中電灯。意気揚々と、鼻息荒く川へ入っていった。

しかし、その鼻息はすぐに泡となって消えていくことになる。最初のうちは、何をすればいいのか、一体何が起こっているのか全くわからなかった。

まず、何をどうみたらいいのかわからない。懐中電灯が照らす一筋の光の外側には、深淵(しんえん)なる闇が広がる。しかも、人の気配を感じれば魚たちは瞬時に逃げてしまう。この暗闇の中で、一体どのように魚を見つけろというのか。

そして、流れもそこそこ早い。連日の雨で水量も増え、当日もまだ多少の濁りが残っていた。流されないように気をつけなければならない。しかも、水中を覗き込むように腰を落としているものだから、気を抜くと身体ごと流れにもっていかれる。川を歩いていくと、次第に水深が深くなり、立っているのがやっとのところもある。

こういう時は流れに逆らわず、川にすべてを委ねよう。
人は自然の一部だ。

…なんて甘ったれたことを言っていたら、
本当に川に引きずり込まれて河童とお友達になれそうだ。

ふと顔を上げると、少し離れたところで懐中電灯の光が揺れ動き、ゆるさんが何やら手にぶら下げている。

…はや!

3匹目だそうだ。まだ開始から数分もたっていない。
自分でやってみてはじめて、その凄さがわかる。

ということで、ゆるさんの童心溢れんばかりの多幸感溢れる笑顔を横目に、途方に暮れた。しかし、そんなことは言っていられない。ようやく念願の夜イカリにきたのだ。このままでは終われない。

再び意気込んで、みんなから少し離れて川の奥に進む。だが、その途端に岩間の水のうねりに巻き込まれた。懐中電灯が手から離れた。視界が一瞬で闇に飲み込まれる。

懐中電灯のひもを必死に手繰り寄せようとするが、慌てふためく暇も無く、身体が川の流れに引きずり込まれる。シュノーケルはとうの昔に口から外れている。

急流の中、体勢を立て直そうとする間もなく、暗闇の中から突如、大きな岩がにゅっと現れた。ぶつかると思った。

だが、身体というのはなかなかすごいものだ。慌てふためく頭の思考回路とは裏腹に、僕の身体はくるっとラッコのように身体を丸め、足を川にさらけ出していた。岩肌に挨拶をするかのようにくにゃっと衝撃を流し、さらには岩と岩の間をわかめのようににゅるんと滑り抜けていった。時間にすればおそらく0.1秒くらいだったと思うが、世界はとてもスローに動いていて、「え?そんな動きするの?」と自分の身体につっこみをいれていたほどだ。

その後は、足を流れに差し出し、暗闇の中から次々と現れていくる岩たちとの出会いを膝で吸収しながら、ふにゃんふにゃんと岩から岩へと流れていく。まるで何かのアトラクションのようだ。程よい緊張感の中で、夜イカリのことなど忘れてなんだか楽しくなってきた。闇夜が優しくなった気がした。

何を「みて」いるのか

急流はいつの間にか穏やかになり、流れ着いた岩のところで足をつき、とまって一息ついた。次の瞬間、ふと水中をみると、何か漂うものが目に飛び込んできた。

魚だ。岩陰で確かに尾びれが揺れ動いた。自分の中でモードが変わったことに気がついた。懐中電灯を魚に直接当てないように気をつけながら、イカリを握りしめ、一気に突く!

…逃げられた。
くー。悔しい。笑みがこぼれた。

気を取り直して、再び水面をのぞき、驚いた。別世界が広がっていた。川底を透明なものが静かに滑りゆき、一瞬遅れて砂礫が揺れる。岩間が生み出す透明なうねりに落ち葉や小枝が舞い踊る。川の流れはこんなにも自分の肌を舐めるように、生々しく溶け合い、つたっていたのだ。

そして、岩陰には確かに鮎たちがいた。あるものは静かに身を潜め、あるものは流れにのって先に進み、あるものは尾びれを揺らしながら眠りについている。さっきまでの自分は一体何を「みて」いたのだろう?そこには全く異なる世界が広がっていた。闇夜の水面下にこんなにも美しい世界が広がっていたなんて。

もちろん、僕が流れに委ねて行き着いた地点は、川の流れも穏やかになり、魚たちにとっても居やすい場所だったのかもしれない。しかし、それだけでは済ますことができないほどの何かがあった。自然はたくさんの世界を隠している。この感覚は言葉には言い尽くし難いが、そこには全く別の世界と、別の自分がいた。今なら、みえる。ここまでおそらく開始から15分、20分程度の出来事だったのではないかと思う。その後は時間を忘れて、夜イカリに没頭したことは言うまでもない。

気配の振動

それからもさまざまな気づきと発見が波のように押し寄せてきた。

例えば、自分と魚たちのあいだで起こる気配の作用。獲物に狙いを定めたら、懐中電灯の光を直接当てないように静かに近寄ってイカリを突くのだが、やっているうちに自分の腕が動き出すよりもコンマ何秒か早く鮎たちが逃げ出していることに気がついた。「今だ!」と意気込めば意気込むほど、その振動というか気配を、確かに魚たちは感じているのである。

森の中でも、「狐歩き(フォックスウォーク)」と呼ばれるネイティブアメリカンに伝わる人の気配を消す歩き方をすることがあるが、その感覚と似ているかもしれない。魚を突くのも、むしろ身体や腕の力を抜き、気配を消しながら、静かにすっと突いた方がうまくいく。

試行錯誤しつつ川と戯れ、今回はアマゴやカジカを何匹かを取ることができた。その時には、身体が先に動いたような感覚で、脳の指令伝達を経由していなかったように思う。リラックスしながら油断のなく瞬時に身体が動く、いわゆるマインドフルな状態だ。

時間を先回りするアユ

あと、夜の川を延々と覗き込みながら、夜イカリそっちのけで心を奪われたことがあった。

川の流れに流されることなく、同じ場所にとどまり続けている鮎たちの姿だ。もちろん止まっているわけではない。泳ぎ続けている。

流れに拮抗して動き続けているのだが、見事なほどにその場に静止している。電車の中を進行方向とは逆向きに走り続けるような、あの感じだ。流れに拮抗しながら、でもその場にとどまっている。尾びれや胴体は動いているが、おそらく眠っているのだろう。

なぜだかわからないが、その光景に吸い込まれてしまう自分がいた。どうしてこんなにも流れと共にあれるのだろう。その姿は、世界と拮抗しながらも一体となっているような、ただならぬ美しさを放っていた。

無秩序に向かっていくこの世界の中で、エントロピー増大の流れに身を委ねつつも、抗い、せめぎ合い、全と一のあいだをさまよいながら、かろうじて自己同一性を保って生きる生命の営み。

生物学者の福岡伸一さんは、そうした生命の営みを「生命は時間を先回りする」と表現したが、鮎たちはまさに時間を先回りしているかのように、場の時はとまり、同時に、流れていた。

内なる野生性、荒々しさ

夜の川に飛び込むと、自分の中にある野生性がむくりと立ち上がってくるのを実感する。夜イカリで川に身を委ねていく感覚は、森の中で緊張をゆるめ静かにリラックスする類のものとは全く異なるものだった。

森の中で身体感覚をひらくときは、目の焦点をゆるめ、視界をぼーっとさせながら全体を感じていく。副交感神経が優位になり、かつ、周囲全体をゆるやかに感受している、油断のないリラックス状態。350度ほどの視野を持つ鹿や馬のような非捕食者としての感覚だ。

だが、今回の夜イカリで僕の中に立ち上がってきた感覚は、もう少し荒々しいものだった。冷たく激しい川の流れや、暗闇の中を照らす懐中電灯によって、視野が前方10度ほどに限定されていたことも影響していたかもしれない。

焦点を獲物に定め、気配を消し、一気に仕留める。自分の中の捕食者性が荒々しく立ち上がり、
身体や意識が覚醒していくような感覚があった。


たとえば神道では古来から、和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)といって、神霊の優しく平和的な側面だけでなく、勇猛で荒々しい側面にも祈りを捧げてきた。

毎年山で滝行をしていると、滝にうたれている間に身体の内を流れる水と滝の水の境界線が曖昧になり溶け合っていくような感覚を覚える。自然界に流れ、そして人間の内にも流れる荒々しいエネルギーが立ち上がり、解き放たれていく。

自己内多様性という言葉があるように、人は誰もが自分の中にたくさんの矛盾する自分を持っている。危険なことや野生的環境から遠ざけられてしまうことの多い現代的な暮らしの中では、荒々しく野蛮な自分(Wild-self)は姿を現す機会があまりなく、ともすれば抑圧されやすいのではないかと思う。

だが、それを野蛮でいけないこと、なかったことにしてしまうと、その暴力性はさまざまな社会問題として露呈する。例えば、お祭りのようなものは、人が抱える内なる荒々しさを健全に解き放っていくための文化的装置だったのではないかと思っている。


話を戻すと、夜イカリで立ち上がってきた感覚は、そうした類のものだった。川の水に身体を浸し、獲物と向き合う状況がその感覚をかつてないほどに刺激したのだろう。

結局取れたのはアマゴ1匹、カジカ2匹。鮎を突けなかったのは悔しかったが、夜の川に身を浸し、覚醒的な身体感覚の中で魚たちと向き合う気持ちよさや清々しさはひとしおであった。

外れてしまったイカリ針の付け替えに集合地点に戻ると焚き火を囲むように十数匹の鮎が並んでいた。ゆるさんが、全員が食にありつけるようしっかりみんなの分を取ってくれていた。

あの短時間でどうやったらこれだけの量を取れるのか全く理解し難いが、ゆるさんと同じ風景を「みる」ことができるようになるまでには、途方もないほど遊びと修行の必要があることだけはわかる。ゆるさんは、この地でいのちの限り遊び続けることで、この長良川源流域の奇跡的な環境を守り、いかに次世代に渡していけるのかに向き合い続けている。源流「遊行」の果てしない奥行きを、少しだけ感じられた気がした。

川に孕まれて

それにしても、毎回、源流案内人の方々の度量の深さが凄まじい。自分自身が全力で楽しみながらも、こうしたギリギリの体験を程よい距離感で横目で見守ってくれている(たぶん)。いざというときにはいつでも助けにいける状況を担保しながら、危険と隣り合わせの没入の中でしか出会えない躍動溢れる世界に——郡上の地に根源的に流れる風土に——いざない続ける。プロのなせる技だ。

そういえば、文化人類学者の近藤祉秋さんの新著『犬に話しかけてはいけない -内陸アラスカのマルチスピーシーズ民族誌-』の素晴らしい装画をアーティストの大小島真木さんが描かれていたのだが、そのドローイングのタイトルが「川に孕(はら)まれる」だった。

内陸アラスカの先住民の「(他生と)交感しすぎない」という知恵から「自然との共生」を再考する本の内容からつけられたタイトルだそうだ。ドローイングも本当に素晴らしいのだが、タイトルにもぐっときた。

前回の記事で書いた川との戯れしかり、今回の夜イカリしかり、あまりに世界と深く交わりすぎてしまうと、現実に戻ってこれなくなってしまう可能性は常にある。水と溶け合うよろこびに浸りながらも、孕まれまいというせめぎ合いが常に立ち上がっていく。

分断の反作用として共生が美しく語られてしまいやすい時代だが、僕らはすでに多生の絡まり合う世界を生きていて、そこで共に死んでいくほかない。人は大地と切り離せない風土的存在であるからこそ、「交換しすぎない」「交わりすぎない」という距離を保つ知恵や、全体に溶け合いながらも自(みずか)らに立ち返る術を忘れずにいることが必要なのだろう。そんなあちらとこちらを往還する絶妙なバランス感覚と舵取りを、「あわいを漂う術」とでも名付けたい。

そんなこんなで、僕のはじめての夜イカリ漁は幕を閉じた。

(写真提供:一般社団法人長良川カンパニー)