花人とは、花をいかし、花にいかされる、花に生きる人のことである。ぼくは最初、池坊という流派の教室で花を習っていたが、しばらくして退会し、いまは個人の先生の下で習っている。
(自分のことを華道家と名乗る人もいれば、いけ花作家と名乗る人もいる。だが、華道家というと流派に所属している印象があるし、いけ花作家というとアーティストのような印象がある。ぼくは流派に所属しているわけではないし、自分のことをアーティストだと思っているわけでもないので、花人という肩書きをつかっている。)

そんなぼくがEcological Memesでどんな話をしたか、詳しい話はここではしない。それは会場に足を運んでくれた人の特権だからだ。それに、文字だけで花のことを伝える自信がぼくには無い。ぼくにとって花は、そんなにかんたんなものではないのだ。

だからここでは、本当に一部だけ、少しのことだけを共有しようと思う。

花は一般に女性の文化だと思われている。読者のみなさんもそう思っているのではないだろうか。男が花なんて、と言う人もいるかもしれない。しかしそれは大きな勘違いである。花は元々、男性の文化なのだ。(男性・女性という区別の仕方は現代の状況にそぐわないかもしれないが、今回はわかりやすさを優先して、あえてその2つに区別することにする。ジェンダーの観点から花をどう考えるかは、また別の機会に考えてみたいと思っている。)

たとえば池坊は、数百年前に僧侶が本尊に花をいけることから始まったのだが、池坊の家元は、2015年に池坊専好が次期家元として襲名するまでずっと男性がつとめてきた。そしてみなさん御存知の通り、茶花を大成したのは利休である。また、戦国時代には武士の嗜みとして普及した。それが明治時代になって良妻賢母教育というものが普及し、その際に花は女性のスキルセットの一つとして扱われてしまった。それが今でも続いている。だから花は一般に女性の文化だと思われてしまっている。だが、本来は違うのだ。花が女性の文化として定着したのはごく最近の話なのだ。(もちろん、ぼくは女性を排除したいわけではない。花は男性のものだと声高に宣言するつもりもない。単に事実を知って欲しいだけである。)

そして明治時代以降、花の文化は急速に変化することになる。良妻賢母教育や、西洋のフラワーアレンジメント文化の輸入、また、生活様式の変化に伴う床の間の喪失によって、花は居場所を失ってしまったのだ。どういうことか。

花は元々、床の間にいけられていた。床の間こそが、日本人が大切にした「神のおわすところ」だったからだ。そこに人は花をいけ、神に祈りを捧げた。それが「花をいける」という行為だ。

そして床の間というのは、後ろに本尊がある。花をいければ、花と本尊の間に人が入ることはできない。だからどうしても人は、花の前方180度しか見ることができなかった。後方180度は神のためのエリアなのだ。人が花を背後から見ることは不可能だったのだ。いや、不可能というよりも、厳禁だったのだ。

しかし、いつの間にか花は神仏のためではなく、「人間の日常を彩る」ものになってしまった。花は床の間ではなくパーティーテーブルの真ん中に置かれ、360度の角度から楽しむことができるようになった。だが、花を360度鑑賞できるパーティーテーブルに本尊はない。日本の花の文化にとって最も重要だった、神の存在がそこにはない。

別にそれを悪いことだと言うつもりはない。それはそれで一つの花の形である。だが、「花をいける」ということと「フラワーアレンジメント」の決定的な違いはここにある。この2つは似ているようでいて、まったくの別物なのだ。一緒くたにしてはいけない。

「花をいける」ということと「フラワーをアレンジする」ことでは、ニュアンスも活動もまったく違う。文字面を見るだけでも、なんとなく違うということはわかるだろう。「アレンジ」という言葉の中に「いける(生ける・活ける)」というニュアンスが存在しないことは明らかである。だが、いまや「花をいける」と「フラワーをアレンジする」は一緒くたに語られ、「花をいける=フラワーアレンジメント」として普及してしまった。

しかし、「花をいける」という日本独特の表現が持つこの繊細な意味こそが、花をいけることにおいてもっとも重要なことなのだ。「花をいかし、神仏との接点をつくり、それによって、花にいかされる」、それこそが、「花をいける」ということなのだ。

そして、ぼくがこのような話題提供をしたところ、客席にいた住職の方が反応してくれた。「仏教でも同じことが起こっている」と。

元々は仏像も花と同じように、前方180度しか見ることはできなかったのだ。仏像の背後にまわるなど許されることではなかったのだ。当然である。

だが、それがいまや美術館などで360度見ることができる位置に展示されることもあり、人間が仏像の後ろに回ることができるようになった。これまで人間が目にすることができなかった領域を、人間は手にしてしまったのだ。

それを自覚しながら鑑賞している人間はおそらくほとんどいないだろう。無自覚に仏像の後ろを見ている人も多いだろう。だが、本来は、花の後ろを見ることが厳禁なように、仏像の後ろを見ることもまた厳禁なのだ。

本来は見ることができない、立ち入ることができない領域に、人は足を踏み込んだ。だが、見えないからこそ、立ち入ることができないからこそ、たくさんのことを想像することができたのだ。見えないからこそ、立ち入ることができないからこそ、――そこにいるはずの神に――しあわせを願い、祈ることができたのだ。

これは、ギリシア神話のオルフェウスとエウリュディケの話に少し似ている。振り返ってはいけないと言われたにも関わらずオルフェウスは振り返ってしまった。その結果、エウリュディケは消えてしまった。

花も仏教も、超越と対峙する文化だった。見えないものを信じる文化だった。しかし、見てしまったことで、その超越が失われてしまった。超越性の維持には、見えないものを信じること、そして、そもそもそれを見ようとしないことが重要なのだ。

これはいわゆるポストモダンの時代の問題だろう。だから、これまでも多くの人が指摘して来たように、ポスト・ポストモダンの時代において神をどう考えるか、超越をどう考えるかというのはきわめて重要な問題である。失われた神を取り戻すことができるのか、それとも取り戻す必要はないのか、もしくはまったく別の形があるのか、ぼくたちは考え続けなくてはならない。

ぼくは、Ecological Memesの活動が、――失ったエウリュディケを探す、――その取り掛かりとなると信じている。