ぼくは昨年の夏に、東京から長野へと移住した。この一年で長野での仕事も増え、車の運転にも慣れ、服装は雑になり、日に焼け、お祭りに参加し、消防団に入り、すっかりこの町の人になってしまった気がする。(誤解しないで欲しいのだが、「なってしまった」というのは、「なりたくなかったのに、なってしまった」という意味ではなく、「こうなる予定ではなかったが、なってしまったし、それはそれで悪くない」という意味である。)

ぼくの暮らす町にも、他の類似の地域と同様に、「少子化・高齢化」や「空き家」といった問題が当たり前のように存在している。東京で暮らしていた頃は、どこか他人事のように見ていた部分があったが、この町で家を購入して暮らしているぼくにとって、もう他人事ではない。町のためにはもちろん、自分の将来のためにも、何かしなければならないと思っている。ぼくはもうこの問題の当事者なのだ。

だが、冒頭で書いたように、何をすべきかの答えはまだ出ていない。それでも地方で一年を過ごし、少しずつ見えてきたことがある。それは、「町の感情」である。

誤解を恐れずに乱暴に言ってしまうが、地方は驚くほどに「感情」をベースに動いている。もちろん「論理」がないわけではないが、「論理」よりも「感情」によって決まることが多くあるような気がしている。そして、それはもちろん、まったく「合理的」ではない。

論理的で合理的な戦略の考え方など、”輸入”されていないのだろう。もしくは、輸入されていたとしても一部の人が実践しているのみで、広がりきってはいないのだろう。様々なプロジェクトに関わる中でいろんな人と話をしていても、「PDCA」や「ROI」といった、当たり前のような言葉さえ聞く機会が少ない。

そういった現実的な考え方よりも、「意地」や「想い」のような、非合理的な感情によって様々な判断がくだされることが多いように感じる。また、「人間同士の関係性」のような、「人情」によって決まることも少なくない。

もちろんこれは都市部でも多く見られる。いくら論理的に考えたところで所詮は人間なのだ。感情には勝てない。ただ、地方ではその「感情の勢い」が、都市部に比べて強いように思うのだ。(これは完全にぼくの主観であり、気のせいの可能性もあることを前提に読んでいただきたい。)

それに対して、最初は疑問もあった。「もっとこうすれば…」、のような考えが頭をよぎることもたくさんあった。だが、地方で一年を過ごし、その非合理的な感情こそが、地方の良いところなのではないかと思うようになった。なぜなら、そこには一種の「美しさ」があったからだ。

長野県の木曽地域に暮らしている

町の人たちは、単に非合理なわけではない。自分たちの信じるものに従って、そうなっているのだ。話を聞いていると、最終的に、その町の「伝統」や「文化」、さらには「祭り」や「神様」のようなものにつながることも少なくない。つまりその感情は、そこで生まれ育ち、自然や神を信仰し、何百年もの歴史を受け継ぎ、町に人生を捧げて来た結果生まれた、「美しい非合理」なのである。非合理的だからといって、かんたんに捨ててしまっていいようなものではないのだ。その「美しい非合理」を、ぼくは、「町の感情」と呼んでいる。

東京から移住してきたぼくが、「ロジカルシンキング」や「デザイン思考」といった、論理的な思考を持ち込むことはもちろん可能である。むしろ最初はそれを自分の使命のように思っていた。しかし、そういった「論理」や「合理」によって、「町の感情」を破壊することがあってはならない。「町の感情」は、「論理」や「合理」よりも、はるかに大切なものなのだ。「町の感情」こそが、地方の魂なのだ。

たとえば、地方の人たちは「空き家対策でお店が増えてもあまり意味がない。それよりも、定住してもらいたい。」と言う。だが、現実的には、「定住してもらいたい」なんてことは難しいに決まっている。日本中でこれからどんどん人が減っていくのだ。高齢化していくのだ。誰がそんな時代に不便な地方へわざわざ引っ越すというのか。(いや、ぼくがそうなのだが、きわめて例外的な存在だと自分でも思っている)

日本全国で人口の取り合いをしている今、定住者を増やすなんて夢のような話なのだ。だから最近では、国の目標さえも「関係人口」という目標にシフトした。空き家が活用されるならお店でもいいじゃないか。しかしそれでも地方は定住者を求めてしまう。いったいなぜか。

それは、地方のコミュニティというのは、地縁で結ばれた「家族」だからだ。みんなで関わり合って、守り合って、信頼し合って。そんな「家族的連帯」によって、これまで長い間、町の伝統や歴史を守ってきたのだ。だから、定住してもらわなければいけないのだ。家族になってもらわなければいけないのだ。「家族で町を守っていきたい」、それが町の感情なのだ。だから、「関係人口」ではダメなのだ。

これは明らかに「論理」ではなく、「感情」の問題だ。いまの時代に「家族を増やしたい」なんて、明らかに無茶な目標である。小さな町の力だけでは、どうしようもないはずだ。

だが、この「感情」こそが、「失われつつある、大切な日本の面影」なのかもしれないと思うのだ。なぜなら、日本は昔からとにかく「地縁」を重要視する国だったからだ。「地縁による家族的連帯」によって、日本は形づくられてきたのだ。この非合理的な感情は、きっと大切なものなのだ。

だからぼくは、地方での活動に慎重になっている。地方には慎重になっていられるほどの余裕がないのも事実だが、それでも、この町の感情を傷つけることだけはあってはならない。安易にビジネスを計画したり、企画を提案したりすることだけは絶対にしない。

ぼくは、ぼくの暮らしている地域のことしか知らないので、これはかなり偏った考え方なのかもしれない。もしかしたら例外なのかもしれない。だが、これが「失われつつある、大切な日本の面影」だとしたら、きっと、同じような地域は他にもあるはずだ。

神輿をかつぎ、祭りに参加する

だから地方は「地縁による家族的連帯」をどうするのかを考えていかなくてはならない。変えるのか、守るのか、もしくは捨てるのか、その判断もしなくてはならない。(少なくともぼくなら「捨てる」という判断はしない。文化を捨ててまで醜く生き残るくらいなら、美しいまま滅びた方がいいとさえ思っている。もちろん、そのうちこの考えにも変化があるかもしれないが。)

ぼくの中にも答えは出ていない。だが、考えなくてはならない。ぼくはもうこの町の「家族」なのだ。

※この文章は、2019年8月21日に配信された「UNLEASHニュースレター」内のコラムに、大幅に加筆・修正したものです。