ソーシャルデザインについて考えている。

ぼくは昨年の夏に居を東京から長野へと移した。移住してから約一年が経ち、知り合いも増え、有り難いことに仕事をもらえるようにもなった。

地場産業や伝統工芸を活かしたまちづくりの計画、ふるさと納税の検討、木工職人さんの商品企画や販売戦略の支援、観光施設のリニューアル計画など、これまで自分で名乗って来たわけではないが、いわゆる「ソーシャルデザイナー」や、「ローカルアクティビスト」と言われる人たちの活動に寄って来たように思う。

まだ短い期間ではあるが、地域の人たちとのつながりを通じて確実に見えて来たことがある。それはいったい何か。かんたんに言ってしまえば、地方には「人もお金も時間もない」ということである。

売上の減少、人口の減少、職人の減少、高齢化、その他諸々。様々な問題が同時多発的に発生しており、しかもそれが続いている。改善の兆しはまったくない。応急処置をしようにも傷口(問題)が多すぎて、絆創膏(人、お金、時間)が足りない状態なのだ。

いや、これは都市部に住んでいたときからわかっていたつもりだった。地方をメインで活動する知人も多かったし、本も読んでいたし、地方の問題は嫌と言うほど耳に入って来ていた。しかしいざ当事者になってみると、想像以上だった。事業計画書を見て頭がクラクラした。この人数で、このお金で、この時間で、これをすべてやらなくてはいけないのか、と。

こういう言い方をすると少し不愉快に感じる人もいるかもしれないが、ソーシャルデザインというと、少なからず明るく楽しそうなイメージもあるだろう。地域の人たちとマルシェを開催したり、高齢者の集まる場所をつくったり。空き家を改修してお店にしたり。

しかし、実際にいまぼくがやっていることはそういった楽しいイメージからはかけ離れたものだ。プロジェクトの進め方を見直したり、業務提携の提案をしたり、効果測定の仕組みを考えたり、事業計画を確認したり。ひたすら地味な作業を続けている。
なぜなら、単純に、それこそが地域に必要な作業だと思ったからだ。

問題は明らかだった。何が悪いのかはすぐにわかった。だが、問題の数が多すぎる。そして、それを解決するための土台がない。システムがない。だから、そこから始めなければならない。システムがなければ何も持続しない。地域の未来を考えるならば、特定のプレイヤーに依存せずに着実に問題を解決していける仕組みを作らなければならない。単発的で瞬間的な企画ではなく、継続的で持続的なソーシャルシステムが必要なのだ。

「社会システムデザイン」を提唱している横山禎徳氏も、こう指摘する。

最近の「社会デザイン」も同じ問題で、実際は社会全体ではなく、コミュニティの一部を改善するか、情報システムの組み立ての方へ傾斜しています。

変革は“辺境”から生まれる[社会システムデザイナー・横山禎徳氏]』

もちろんコミュニティの一部を改善することも必要だ。改善されないよりも改善される方がいいに決まっている。だが、そればかりでは地方は結局ジリ貧なのである。応急処置と同時に、芯を貫く強い事業計画と、それを支える組織体が必要なのだ。それがなければ、地方はゆっくりとバッドエンドへ向かうほかない。

だから「ソーシャルデザイン」は、「ソーシャル”システム”デザイン」になっていかなくてはならない。
そしてそのシステムの持続は、そこで暮らす人たちにかかっている。ぼくはコンサルタントであると同時に、当事者なのだ。ぼくがやらねばならない。

しかし、実際のところ、システムを立て直すなんて何年かかるかわからない。かんたんなことではない。そして、先述したとおり、地方には時間がない。解決すべき課題は山ほどあるが、すべてをていねいに解決している暇はない。人口減少も高齢化も待ってはくれない。

では、どうする?

ぼくはその答えをずっと考えている。