2017年8月に秋田県が「教育シェア宣言」をした。

「教育シェア」という言葉の斬新さが印象的だったのと同時に、「教育をシェアするって、つまりどういうこと?」という問いが私の最初のリアクションだった。小中での全国学力テスト1位の教育を県外の関心のある方たちにもぜひシェアしていこう、というニュアンスもあるようだけれど、いやいや、コトの本質はもっと深いようだ。

人口が縮小しながら高齢化していく社会

教育シェア宣言には2つの大きなテーマが含まれている。1つ目のテーマは、「教育」。 このテーマを考えるのに見逃してはいけないのは、秋田、ひいては日本社会全体が今どんな状況なのか、ということだと思う。私たちは、「人口が縮小しながら高齢化していく社会」にいる。この社会において、大切な教育とはどのようなものなのか、ということがここでの「教育」の本質を知るために必要な問いだと思う。

縮小・高齢社会は、人口が減ることで生産と消費が縮小していく経済、高齢者の割合が高くなることで維持コストが拡大する社会保障、子どもたちの割合が極端に低い人口構造、と問題だらけのように見える。人口が増え続ける社会はそれだけで生産人口の割合が増え続け、消費が拡大していく。そのような社会には活気があり、経済も継続的に成長していく。

そんな右肩上がりの社会での教育の役割は、極端に言えば、成長していく社会に貢献する人材を生み出すことだったであろう。しかし、今の縮小しながら高齢化していく社会は、これまでの社会のあり方とまったく異なるパラダイムにある。そのような社会のなかで、教育のあり方を問い、新しい方向性を試していくことがこの教育シェア宣言には内包されている。うーん、これだけでもすごいぜ、教育シェア宣言。

「あなたと私」の関係を媒介にした物の貸し借りに「IT」と「お金」を

2つ目のテーマは、「シェア」。自動車、オフィス、空き部屋などを多くの人々とシェアすることで、ものの利用率を上げ、維持管理コストを分散するという利点から広がってきたのがシェアリング・エコノミーである。利用者はものを保有することで生じるコストから開放され、提供者は所有しているものが遊休している時間を減らしながら利益を得ることができる。

現行のシェアリング・エコノミーは、ご近所さんから、凹んだ自転車のタイヤに空気を入れるために空気入れを借りたり、夏場に伸びた高いところの枝木を剪定するために脚立を借りたりするというような、「あなたと私」の関係を媒介にした物の貸し借りを、IT技術と貨幣を間に挟むことで、知らない人どおしの間でも、同様のサービスのやりとりを可能にした画期的な仕組みと言える。

形のないものをどうシェアするか?

さて、形のないものをシェアする場合には、このシェアリング・エコノミーはどのように機能するのだろうか。教育のように形がなく、人的資本と社会関係資本の継続的投資の上に構築され、尚且つ地域性が色濃く反映されるようなコンテンツをより広くシェアするということは、物のシェアのような「遊休」という隙間を埋めるものではない。

教育をシェアするとは、本質的にどのような形態で、結局は何をシェアすることになるのだろうか。「教育シェア宣言」は、これまでのシェアリング・エコノミーと異なる次元でシェアリングの概念を扱っている。それを実際にやってしまおうと宣言しているのだから、これはもう、壮大な社会実験である。

実際の「教育シェア宣言」のコンテンツがどのように展開していくのかについてはワクワクしながら見守り、時には参加しながら楽しんでいくこととして、この文章の残り半分では、先に上げた2つのテーマについて、前提条件になることを書いていきたいと思う。

秋田の将来を支える要である「教育」

1つ目のテーマである「教育」は、秋田の将来を支える要である。秋田は、過去3回の国勢調査にて、連続で人口増加率が全国で最も低く、尚且つ高齢化率が最も高い県となっている。国勢調査は5年毎に行われるわけだが、その間に秋田県は約5%の人口減を経験している。

これは、県の総人口が約100万人なので、秋田県では毎年約 1万人が減少していることを意味する。この減少のなかでも特に大事なのが、人口の社会減、つまり県外への人口流出である。秋田県の高校生の6割は卒業時に就職をする。このうち約4割が県外就職をする。短大を含む進学率は約4割だが、この半数は県外大学に進学をしている。

つまり、秋田県で生まれた子どもたちは、一般的に高校・大学を卒業する18~22歳の年齢の間にその3分の1以上から半数弱が県外に流出してしまうのだ。この人口が将来的に秋田に戻ってくれば人口は安定するわけだが、問題はこの還流が起きていないことにある。若者人口の割合が低く抑えられ、さらにそのことで人口を再生産できる年齢層の人口も必然的に少なくなり、高齢化率が高くなる。

高齢化の正体は、実はここにある。国の単位のマクロスケールで考えれば人口置き換え値(女性一人当たり2.1~2.2人の出生)よりも出生率が低くなっていることと、『人生100年時代』などのキーワードに代表されるような長寿化が高齢社会の人口学的原因なのであるが、秋田のような地方の文脈で考えると、これに若者人口の地域外流出が重要な要件として加わる。

子どもを持つかどうかは根源的にカップルの選択に任されているということに触れておきつつ、同時に今地域にいる若い人たちが子どもをつくらないことが地域の高齢化を招いている原因ではないのだ。より大きなインパクトは、流出した人口が還流しないことにある。であれば、将来的に人口が還流するような教育とはどのようなものだろうか。

サケは遡上する川をその匂いで覚えているという。私たちは、子どもたちに、教育を通じて何を伝えておくべきなのだろうか。また、縮小しながら高齢化していく社会のなかでも、豊かに、より善く生きていく大人を増やしていくためにはどんな教育があったらいいのだろうか。秋田という文脈で考えられるアイデアは多い。

地域性が色濃く反映される「教育」をシェアで世界に開く

2つ目のテーマである「シェア」は、物理性を越えたときに途端に複雑になる概念である。なぜなら、物のシェアのうちはメリットが借りる側と貸す側で異なるが、ある場面や時間の共有、そして教育のシェアとなってくると、このメリットが相互発生するからだ。シェアするためにオファーしているが、シェアしてもらうことでコンテンツがより豊かになるということが起きる。

ある川でのサケの遡上の話が、途端に全国あちらこちらの川での話になって、話に厚みが生まれる。特定のコミュニティや地域に閉じられていたコンテンツが、一気に外に「開く」という意味のシェアになる。そして、開かれるのは、外だけではないだろう。内側でこれまで外側だった人々にも開かれる。「教育」というと学校を中心とした公教育を想像する人が多いと思うが、広く「学び」と言い換えると、舞台は社会のあちらこちらに展開して、誰もが参加できるようになる。

0歳から寿命までを見据えた、本当の意味での生涯学習がここでの学びの枠に入ってきて、その学びを地域全体で創っていくというプロセスまでが、ここでの「シェア」になっていくのだろう

教育シェア宣言を通じて教育をシェアするということは、結局のところ何をシェアすることなのか。たくさんあるだろう答えのうち、私なりの答えは、教育という地域性が色濃く反映されるコンテンツを、シェアという手法を使って世界に開くこと、である。教育シェア宣言のあとにどんなドチャベン・ピッチが出てくるのか、そしてそこにどう自分が関われるのか、今から楽しみでしょうがない。


書き手: 工藤 尚悟(くどうしょうご)

東京大学大学院新領域創成科学研究科サステイナビリティ学グローバルリーダー養成大学院プログラム・助教。サステイナビリティ学博士。持続可能な社会の実現に学際的に取り組むサステイナビリティ学分野において、持続可能な地域コミュニティに関する研究・教育に取り組む。縮小・高齢社会時代における持続可能なコミュニティづくりに向けた、研究者・実践家・起業家の協働プロジェクトであるAkita Age Lab(アキタエイジラボ)に研究ユニット・ディレクターとして参加。高齢社会における地域のサステイナビリティをテーマとした大学院演習教育や高校生を対象とした地元学プロジェクトを展開している。