“かつてこの源流域には、御師(おし)と呼ばれる旅の案内人が存在しました。彼らはこの地に暮らしながら、いのちがよろこぶような、自然と溶けあう体験を旅人に提供していたと考えられています。

そんな御師(おし)の精神を引き継ぎ、現代においても、この源流の風土を愉しみ遊ぶ達人である「源流案内人」たちが、あなたの旅を先導します。”
(出典:一般社団法人長良川カンパニーHP)

本連載のテーマでもある「気候風土に根ざしたその土地に根源的に流れる何か」は、多くの場合世界の奥深くに隠されていて、自然界はやすやすとは見せてくれない。

だがこの郡上という地は、訪ねる度にその隠された鼓動がこの世界に未だなお確かに息づいていることを実感させてくれる。どこまで言葉での共有が可能かはわからないが、各地の気候風土を探る旅人(よそ者)として、今回の超私的体験をつづっておきたいと思う。

【写真】郡上八幡のまちを流れる長良川。水と共に生きる暮らしがあるからこそ、清流が保たれている。

郡上八幡のまちを流れる長良川。水と共に生きる暮らしがあるからこそ、清流が保たれている。

川は生きている

僕にとって、郡上は水滴る土地だ。
この土地の水は、かつて味わったことがないほど生きている感じがする。

はじめて郡上に伺ったのは、雪積もる2月のことだった。白山信仰ゆかりの地・石徹白(いとしろ)に鎮座する社・白山中居神社の一角で、樹々の根が抱きかかえる土から滲み出し、苔たちに柔らかに包まれながら滴っていく水の粒たちに心を奪われたのを覚えている。

【写真】白山信仰ゆかりの地・石徹白(いとしろ)に鎮座する社・白山中居神社

白山信仰ゆかりの地・石徹白(いとしろ)に鎮座する社・白山中居神社

二度目に訪れたのは、雪解けの3月。春分の頃。陽の光は立春を過ぎた頃から確かに春をまといはじめる。そこから45日ほどが経ち、外気はまだまだ寒いが、春の柔らかな光に溶かされた雪解け水が少しずつ山から浸み出し川に流れ込みはじめる。そして、川が目覚めていく。

【写真】まだまだ積もる雪の下を流れるかすかな水の音と気配をたよりに湧き水を辿る。気付けば獣のように四つ足で斜面を駆け、雪穴に頭を突っ込み喉を潤していた。

まだまだ積もる雪の下を流れるかすかな水の音と気配をたよりに湧き水を辿る。気付けば獣のように四つ足で斜面を駆け、雪穴に頭を突っ込み喉を潤していた。

地上はまだまだ雪に覆われた冬景色だ。だが、その背後で確かに川が目覚めはじめていた。2月にきた時は眠っているように静かだった川は、雪解けのエネルギーがぶつかり合い、凄まじい勢いで下流に流れていく。

【写真】雪解けの頃しかみられないこのエメラルドグリーンが、春の訪れを教えてくれるかのように下流のまちへと流れ込んでいく。なお、石徹白川は九頭竜川水系の河川なので福井を通り日本海へと流れ込んでいる。

雪解けの頃しかみられないこのエメラルドグリーンが、春の訪れを教えてくれるかのように下流のまちへと流れ込んでいく。なお、石徹白川は九頭竜川水系の河川なので福井を通り日本海へと流れ込んでいる。

そこから郡上八幡に下り、今度は長良川支流、雪解けの吉田川に身を浸した。普通はこの時期に川に入るものではないのだが、衝動が抑えきれずに、入水する。

水はもちろん冷たく、皮膚につたう水が針のようだった。水温はおそらく10度ほど。だが、それ以上に一歩、また一歩と川に身を浸していくと、流れの力強さが迫ってきた。山からの雪解けのエネルギーを全身で浴びているような感じがした。

ああ、そうか。こうして川は目覚めていくのだ。
季節のめぐりと共に、川に生命が吹き込まれていく。

舞う水、踊る水

そんな身体の記憶を携えながら訪れた今回の旅。盆が明け、郡上踊り(徹夜踊り)の熱気がようやく落ち着き出した夏の終わりだった。夜イカリ漁と並び、今回の旅のハイライトの一つが牛道川の沢登りだ。夜イカリ漁もあまりに濃密な体験だったため、次回詳しく紹介したい。

牛道川は、郡上白鳥エリアに位置する長良川支流の一つ。まずはじめに沢登りのゴール地点、貴船神社でご挨拶をしたのだが、もうそこからしてたまらない。社の下から鬱蒼とうねりだす樹林と清流が織りなす渓谷美は仙境の様相だ。前日まで雨続きだったというのに驚くほど濁りがない。懐豊かな奥山に抱かれている証拠なのだろう。

【写真】長年の侵食によって洗い清められた河床の上を、水が滑るように流れている。

長年の侵食によって洗い清められた河床の上を、水が滑るように流れている。透明度の高い水の向こうに見える岩石は美濃に堆積する火山岩なのだろうか。まさに滑床だ。

【写真】大きな岩の上をうねるように流れる水

なんだこれは。
水が岩の上をうねり、踊っていた。
映画「天気の子」で雨粒が魚になる、あれだ。
こんな生き生きとした水の流れに身を浸して沢登りするというのだから、たまらない。

その結果がこちらの写真だ。至福の溶け合いだったことは言うまでもない。
こればかりは実際に体験してみないとわからないが、源流の遊行人たちにとって「いのちよろこぶ、水と溶け合う体験」というのはうわべのコピーなどでは決してない、暮らしのリアルな一部なのである。

【写真】岩の上を水がうねる。その岩に寝そべって、水の流れを感じる。水は生きている。

【写真】白鳥の貴船神社は京都鞍馬に鎮座する貴船神社から社分けしてもらった由緒ある神社。かつて牛道川の大氾濫で御神体が流されたそうだ。御神体の数と位置がその歴史を物語っている。夏になると神社の拝殿に吊るした切子灯籠のあかりのもとで「拝殿おどり」が繰り広げられるそうだ。沢登りの前に、源流案内人の一人・井上博斗さんに拝殿踊りや白鳥おどりの手ほどきをうけた。

白鳥の貴船神社は京都鞍馬に鎮座する貴船神社から社分けしてもらった由緒ある神社。かつて牛道川の大氾濫で御神体が流されたそうだ。御神体の数と位置がその歴史を物語っている。夏になると神社の拝殿に吊るした切子灯籠のあかりのもとで「拝殿おどり」が繰り広げられるそうだ。沢登りの前に、源流案内人の一人・井上博斗さんに拝殿踊りや白鳥おどりの手ほどきをうけた。

いざ、沢登り

貴船神社から少し下流に降りたところでスウェットスーツとライフジャケットをまとい、川を登ってゆく。いわゆるシャワークライミングだ。水はほどよく冷たく、夏のあいだにたまったほてりや熱気を冷やしてくれる。最高に気持ちがいい。

身体が馴染んできたところで、源流案内人の一人である大西 琢也さんと、長良川カンパニーの下田 知幸さんに導かれ、みなで沢を登っていく。夏の終わりだからだろうか。春先の雪解けの川で感じたような若々しいエネルギーというよりも、もう少し落ち着いて、どっしりと包み込んでくれるような安心感があった。

【写真】ライフジャケットを装備して、沢を歩く。沢にはゴツゴツとした大きな岩がいくつもある。注意してよけながら少しずつ進んでいく。

幾つか流れが急になったり、難所のポイントがあったりするが、それすら遊びに変えてしまうのが源流遊行だ。水の上を滑るように転がり、魚のように跳ね回る。ゲストたちに繊細な気を配りつつ、自らも思いっきり遊ぶ。それがゲストの心身をゆるめ、いのちの躍動を解き放つ。現代の御師たちは最高の治癒者であり、遊び方の伝道師である。

【写真】深い沢の中を泳ぐ。全身に水の息づかいを感じる。

川の主の存在と信仰

そんなこんなで、最後の遊行ポイントに辿りついた。
狭くなる岩間を轟々と音とたてながら水が激しく流れ込んでいる。小さな滝のような感じだ。ロープをつたって向こう岸に渡り、流れに身を委ねる源流での遊び。天然のウォータースライダーだ。

近づくほどに想像以上の流れである。だが、駆け出しの源流遊行人としてこんなところでビビっている場合ではない。先陣きって流れに飛び込む。

一瞬静けさが訪れたかと思ったら、水が落ちるところで流れが早まり一気に吸い込まれ、滝壺にドボンと沈み込む。

…最高だ。
なんだか大いなる生き物の消化器官に吸い込まれていくような気分だが、めちゃくちゃ気持ちがいい。

調子に乗って、もう一度飛び込む。
だが、二度目はちょっと不思議な体験をした。

ウエットスーツごしに岩肌の滑らかな凹凸を感じながら滑り落ち、滝壺にドボンと沈み込む。全身が水に包まれる。流れに委ねて水上に浮かんでいく。

…あれ。身体がとまった。浮力で身体が浮かび上がっていくはずが、身体が引き戻される。

渦にはまったのだ。
このままでは川に引きずり込まれる。
さまざまな考えが頭をよぎる。

その時だった。
誰かがふっと下から太もものあたりを押し上げてくれたのだ。

僕の身体はふわっと持ち上げられ水上にでた。

地上の音が水のように耳に流れ込んできた。

一体あれはなんだったのだろう。おそらくコンマ数秒程度の出来事だ。

不思議な体験のような気もしたが、なんてことはない、ただ渦の流れの中で外に押し出されたのだろう。ライフジャケットもつけていたし、川に引きずり込まれるほど深い場所ではなかったはずだ。

気のせいなのはわかっている。でも、確かにそこに川の「存在」を感じた自分がいた。大いなる生き物に吸い込まれながら、その主が確かにそっと手を差し伸べてくれたのだ。「千と千尋の神隠し」で、川に靴を落とした千尋を助けてくれたハクのように。
川に神が宿る。
それは、もしかしたら、僕らが思っているよりもずっと身近でリアルな事態だったのかもしれない。

古来から人は水の流れに神を見出してきた。春先に出演させていただいた源流遊行のトークイベントでも話になったが、長良川の点穴や二重蛇行する地点をプロットしていくと祠や神社の分布が重なっているのだという。空気の流れや伏流水がぶつかり合いエネルギーが噴き出す地形的・水文的ツボを、聖なる場所として設定してきたのかもしれない。

神や信仰というものは、きっと私たちが現代的な感覚で捉えてしまうよりもずっとリアルで合理的なもので、気候風土と溶け合う暮らしが生み出した、必然かつ理にかなった営みだったのだろう。

僕が共同代表をつとめる一般社団法人Ecological Memesでは「あわい」をテーマにしたグローバルフォーラムを開催しているが、今年のテーマは「アニミズムと出会いなおす – 生命の多世界と交わる術-(https://www.forum.ecologicalmemes.me/?lang=ja)」だ。このあたりのテーマに興味がある方がいれば、ぜひ参加してみてほしい。

真実の水が流れているか

山川草木と共に生きることの素晴らしさを表現し続けた屋久島の詩人、山尾三省はこんな詩を残している。

水は どこにでも流れているが
その水が ほんとうに
真実に流れることは あまりない

多くの時には
水はただ流れているだけで 真実に流れることはない

水が私になる時
水ははじめて 真実に流れるのであるが
水は 私にならないし
私は なかなか水にはならない

私たちは ほんとうは
かっては水であり 水として流れ
水として如来したものたちであった

私たちは ほんとうは
今も水であり 水として流れ
水として如来しているものたちである

水は 流れ去り 流れ来る
億の私たちであり ただひとりの私である

森の底を
水が流れている
深い森の底を 深い真実の
水が 流れている

出典:山尾三省著『水が流れている』(野草社, 2002)

私たちには、深い森の底を流れる水の音が響いているだろうか。「水」や「自然」を共通観念として標準化してしまっては、私たちは水にも木にもはなれないのだろう。

世界の持続可能性や再生、循環社会を推し進めていくためには、結局のところ、土地や流域固有の気候風土や土着性と向き合う解像度や深度を高めてしていくほかない。目の前の世界と関係を深く結んでいくほかないのだ。山尾三省風にいえば「地球即地域、地域即地球」だ。私たち自身のウェルビーイングと地球環境のウェルビーイングは、同時にしか成立し得ない。

ピーター・ホーキンズのこんな言葉を思い出す。

左脳新皮質には、世界を分析して問題を解決するために、物事を構成要素に分解して境界線を作り出す働きがあります。世界を理解可能なものにするために、私たちは分析という名のハサミを使って、本来は境界線のない生命の網を断ち切っているのです。しかし、その切り口や境界線を作ったのは自分たちの思考であることを忘れてしまい、その切り口や境界線が「外側」の世界に存在すると考えてしまうのです」。

出典:Laura Storm and Giles Hutchins, Regenerative Leadership: The DNA of life-affirming 21st century organizations(Wordzworth Publishing, 2019), 訳:小林泰紘

人はもはやこれ以上、対象化や観念的操作によって世界を切り離し、自ら作り上げた分断に傷つく必要はない。一人ひとりの癒しがこの世界の癒しであり、世界の癒しが一人ひとりの癒しであるような、
そんな内と外を再び統合していくための長い長いあわいの旅路を今、多くの人が歩みはじめているはずだ。

郡上には、人と自然(=nature)という言葉すら必要のない、渾然一体となる身体感覚やいのちの喜びを取り戻し、真実を流れる水に出会うための文化的・環境的条件が奇跡的とも言えるバランスで育まれ、受け継がれてきているように思う。

機会があればぜひ訪ねてみてほしい。
次回は、今回の旅のもう一つのハイライト、夜イカリについて綴りたい。

(写真提供:一般社団法人長良川カンパニー)