この遺言においてノーベルは「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言ぼために残した金額は彼の総資産の94%、3100万スウェーデン・クローナに及んだ。


Wikipedelia『ノーベル賞』より引用

「太陽エネルギー?」とビアードは穏やかな口調で言った。それが何を意味するかはよく知っていたが、それでも、その言葉にはうさん臭い後光がまとわりついており、法衣をまとった新時代の司祭が真夏の夕暮れにストーンヘッジまわりで踊りながらとなえる呪文を思わせるところがあった。それに、スケールの大きなことを考えている証拠として、しきりに「この惑星」という言い方をする連中は信用できないとも思っていた。

イアン・マキューアン『ソーラー』

毎年10月上旬に発表されるノーベル賞各部門の受賞者発表において、日本でまず報道されるのは「日本人が受賞したか否か」であり、日本人受賞者が出た場合、続いて受賞理由の概略と受賞者の為人や半生についてが報じられる。もちろん、そればかりではなく、研究内容についての詳細な内容を報じるメディアも決して少なくはないのだが、テレビや新聞などでまず目にするのは「受賞者の人格」に関わるものが多い。

一般に、学問について親近感を持てるという人間は多いとはいえないのは事実だろう。それゆえにノーベル賞といういまや世界最大ともいって差し支えない「名誉」を通し、おなじ国籍を持つという微弱な共通点をかろうじて見いだし、大衆に対して最低限の興味を促そうとする行為を悪いとは言い切れない。
ただそれでもぼくは「すごい奴らのワールドカップ」的な様相を帯びた報道には毎年辟易する。受賞者たちはみずからの業績や名誉を預かる言及はそこそこに、基礎研究分野における日本の環境についての批判を度々おこなっているが、日本の研究環境が大きく変わったという動きはいまのところみられていない。
結局のところ、受賞者の人生の物語が口当たりのよい消費可能なものとして扱われるのであれば、学問というものはよりいっそう多くの人々に結びつかないものになってしまうのではないか、などとぼんやりとおもう。学問が「この惑星」のうえで起こっているたしかな現実だという認識が切り捨てられ、「この惑星」で最大ともいえる名誉を獲得するにいたった再現性を欠いた努力や行いが信仰対象になることには、不気味な力学すら感じずにはいられない。巨大な権威をまとった共感はひとを言いくるめたり騙したりする時にも度々利用され、また本作のひとつのキーワードである「この惑星」という人類全体を覆う巨大な主語もまた同様である。

「この惑星」を変えうる欲望

『彼はなんとなく感じの悪い、ちび、でぶ、禿げで、頭はいいという男の種族、どういうわけかある種の美女にはもてたりする、あの種族に属していた。』と第1文からおおよそノーベル賞受賞者としては不適格な紹介をうけるのが、イアン・マキューアンの長編小説『ソーラー』の主人公であるマイケル・ビアードだ。
2000年当時に53歳のかれは、そのときすでに20年も前にアインシュタインの光電変換理論を修正したビアード=アインシュタイン融合理論の確立によってノーベル物理学賞を受賞した超一流の科学者でありながら、私生活は乱れに乱れ、欲望のままに女とまぐわい4回の離婚を経験し、さらには5番目の妻パトリスとの結婚生活も破綻していた。

こうした「嫌な奴」が出てくる小説の常として、最終的にビアードは「すべて」を失う方向に物語は進んでいき、また同時にその「すべて」の外にあるたったひとつの「なにか」を得るところで物語の幕を閉じるのだが、こうした筋書きの暴露がこの小説のおもしろさを削ぐことはない。むしろ、三人称の語り手が冒頭から一貫して浴びせるノーベル賞受賞学者に対するこの侮蔑的なまなざしにより、ビアードの転落は予定されていたものであり、それでもなお欲望のままに突っ走るビアードの姿が滑稽にして哀切だ。
5番目の妻の不倫、不慮の事故、新たな愛人、女性軽視とされる発言、アイデアの剽窃と表題のそれを利用した人工光合成事業など、複数のスキャンダルにまみれながら進行していくビアードの物語は、呆れるほどの欲望と行動力によりどぎつい色彩で彩られながらも、そこには不思議と下劣さはあっても下品さはない。マキューアンの小説は本作のみならず、デビュー短編集『最初の恋、最後の儀式』、ブッカー賞を受賞した『アムステルダム』、代表作とも言われる『贖罪』など多くの作品において下劣で悪趣味なモチーフが頻繁に使用されているが、正確無比にして無駄な筆致には清潔ささえ宿っている。雑多なエピソードが次々に現れる小説において、なにをもって「無駄」とみなすかはむずかしい問題であるものの、マキューアンが世に出してきた小説にはどれも「最初からその状態で存在していた」ようにしか思えないほどの完璧さを感じずにはいられない。
しかし、それは「作者の設計に忠実に従っている」という類の完璧さではない。人間の意志とは無関係に存在している物語を、可能なすべての文字列からあるがままに見出せるような自然科学的な完璧さだ。小説は自然科学の法則に従って生起するものではなく、ましてや何者かによって拘束されるべきものではないが、書き手個々人によって信じられている正しさは存在しているだろう。
マキューアン自身は自著のなかでフィクションについてこのような見解を述べている。

私の知る限り、フィクションとは自由と同義である。ジョイスの『ユリシーズ』出版の際に生じた法律論争、『チャタレイ夫人の恋人』に関する裁判、ロスの『ポートノイの不満』やバロウズの『裸のランチ』などの荒々しく破滅的な本たちは、小説を書くという行為はこの手で強引に読者を彼方へと連れ去り、飛翔させることだと私に信じさせてくれた。

イアン・マキューアン『FIRST LOVE, LAST RITES』
(40th Anniversary Edition) 序文より引用

※翻訳:まちゃひこ

『ソーラー』という作品も、もちろんこのマキューアンのスタイルの王道とも呼べる小説だ。
なんとなく感じの悪い、ちび、でぶ、禿げで、頭はいいノーベル賞学者は当初、「この惑星」という巨大な主語を毛嫌いしていたが、のちに人工光合成技術を使用した太陽光発電事業への投資を募るための講演で、「この惑星は」ということばを皮切りに長広舌をふるう。現在の主流である湯を沸かしタービンを回す発電よりも、光を直接電気に変える技術が「この惑星」にとって健康的であると彼は主張するが、その実現は他ならぬ投資家たちの利益に──つまりかれらの欲望に──かかっている。マイケル・ビアードひとりのものだった欲望が大衆に感染し、集合的意識となったときにはじめて「この惑星」に革命が起こるだろう。しかしそのとき「この惑星」に残っているのは、もはや個人の意思や人格などではない。