意味がわからん言葉で意思の疎通を計りたい
Zazen Boys『Kimochi』

私が初めて詩集を買ったのは、高校三年生の秋のことだったと記憶している。それは、神保町の古本市で見つけた中原中也の全集全巻で、値段は3000円だった。ビジネスについても経済についても知らない18歳の女子高生からしても、叩き売りだとわかる、その値段に驚いて、買った。しかし、高校生にとっての3000円とはたいしたもので、財布を開くと帰りの電車賃がなくなっていた。結局、全集の重量に悪態をつきながら、定期券内の池袋まで歩いて帰った。今思い返しても、ちょっと情けない。

大枚をはたき、苦労して家に持ち帰ったはずのそれを読むのは辛かった。言葉と言葉の隙間をうまく埋められない。小説ばかり読んできた想像力の乏しい私は、わずかな文字列の中に詰め込まれた想像力に完敗したのだと思った。

それからというもの、私は少しだけ詩を読むようになった。
中原中也を読み、高村光太郎を読み、谷川俊太郎を読み、川上未映子を読み、暁方ミセイを読んだ。ジャン・コクトーはむずかった。
すると、もちろん出会うのは最果タヒだった。

最果タヒは、2006年に現代詩手帖賞を受賞したことを皮切りに、2007年、第一詩集『グッドモーニング』にて第13回中原中也賞を受賞した。デビューから現在に至るまでに5冊の詩集を発表し、その活動の幅は小説や随筆にも広がっている。また、詩を用いたシューティングゲームやシーケンサーを発表するなど、現代詩の可能性に常に挑戦し続けている。

私が初めて出会った彼女の詩集は、『死んでしまう系のぼくらに』。開くと、本当にちゃんと死について書いてあってその誠実さに胸が痛んだ。心の中を回遊する言葉に対し、肉体が重荷となっているのが切々と伝わってきて、その詩集と同衾した翌朝は体がどこか重たくて、しんどかったのを覚えている。

「死んでしまう系」の画像検索結果

それから4年が経ち、久しぶりに私は彼女の文字列と再会した。それが、『天国と、とてつもない暇』だった。

わかりやすい文章を書きましょう

あなたが、どんな風に生きているのか知ることはできない。
私も、どんなふうに生きてるのか教えたくはない。
「あとがき」最果タヒ『天国と、とてつもない暇』

私は文章を書いて(一応)生計をたてている。
そうした中でよく求められるのが「わかりやすい」文章というもので、しかし、私にはこれがよくわからない。
例えば、ある本を読んで、「抽象度が高く難解であるが、心に響いた」という感想を述べる場合と「むずかったけど、エモくてわかりみが深い」という感想を述べる場合。前者はおそらく、「わかりやすい」と評価をされるのだろう。どちらも何も言っていないというのに。

私の文章を読んでくれた人に初めて会った時、「文章からイメージしていた人と違う」と言われたことがある。「文章から受けた印象だともっと真面目で堅い人なんだと思っていました」
これまでに私は「私」を「真面目で堅い」なんて思ったことはないけれど、私は「私」の知らないところで「真面目で堅い」人になっていて、そんな「私」を規定したのは紛れもない私の文章である。「わかりやすい」っぽいを煮詰めて煮詰めて到った私の、文章だ。
これまでに幾度となく私は「私」として文章を書いてきたけれど、幾ばくかの時間を経て読み返してみると、それは他人の書いた文章以上に他人行儀で私は「私」を失ったような気持ちになる。
それでいてこう思うのだ。「ひょっとすると私は真面目で堅い人間なのかもしれない」と。
「わかりやすい」が誤解を生んで、その誤解が「私=真面目で堅い」という「わかりやすさ」を生む。その誤解の果ての果ての果てにある共感や理解——私は「私」がわかる、あるいは私は「あなた」がわかる——はいつだって偽物だ。

どんなに「わかりやすい」を突き詰めてもその先にあるのが大いなる誤解だとするなら、文章を「わかりやすく」書くことになんの意味があるのだろう?私は一体、なんのためにそれを書くのだろうか?

「私」は私に問いかける。私はキーボードの前に座る。本来なら看過できない、看過してはいけないその問いをやり過ごす。「わかる」に擬態した「わかっていない」が真綿で首を締めるように私に襲いかかる。

この世界には読まれたいけど読まれたくない思いや言葉がたくさんあって、それらを「わかりやすい」の隙間にたくさん落としてきてしまった私が吐き出す文章はいつだって陳腐で面白くない。

私のような人間には詩が必要なのだ、あるいは『天国と、とてつもない暇』について

拒め。肉体より社会より宇宙より糸より毛皮より帽子より食べたものより果てにあるのが、私よりも前からある私だけの愛情。それに手を伸ばすためだけに生まれてきた、ひとつひとつを脱ぎ捨てて、針よりも細く、弱くなりながら届こうとしている、私たちが苦しいのは、不幸なのは、痛みがあるのは、病とともにあるのは当たり前のこと。私たちは届こうとしていた。どこまでも細く弱くなりながら、果てへ、約束したこの小指で、届こうとしていた。
「生存戦略!」第一連、最果タヒ『天国と、とてつもない暇』

『天国と、とてつもない暇』では、『死んでしまう系のぼくらに』と同様、死をモチーフにしした描写が随所に見られる。しかし、その取り扱われ方は全く異なる。
『死んでしまう系のぼくらに』では、「死ぬことで証明できる愛なんて、一瞬です(「線路の詩」)」、「その感情に焼け死んでぼくには無干渉でいてくれたら(「ぼくの装置」)」に見られるように、死は「わたし」以外の誰かや未来の「わたし」に降りかかるもので、喪失であり、終点であった。一方、『天国と、とてつもない暇』では、死は肉体というものを取り去ったその先を掴むための通過点のようなもので、「わたし」は「波」になり、あるいは「岩肌に刻まれ」て、どこかにずっと存在し続ける様子が描かれている。

美しくなるよりもずっと前。
優しくなるよりもずっと前。
私はあなたを好きでした。
岩肌に刻まれていた頃、
命というなまえの循環にまだ参加していなかった頃、
あじさいの葉の上に雨粒が連続して落ちて、
どうして湖のままで水は落ちてこないのだろうと思った。
(大地を、空は楽器だと考えているからです)
「いい暮らし」第一連、最果タヒ『天国と、とてつもない暇』

様々なものに刻まれた永遠を「わたし」が捉えようとする瞬間、「わたし」は肉体を飛び越えて、誰かや何かと繋がることができるのかもしれない、そんな一縷の望みに賭け、言葉が紡がれていくのを感じた(もちろん、作中では、その願いは裏切られることもあれば、叶うこともあった)。その結果、一編の詩の中で、くるくると情景が移り変わり、とらえどころがないにもかかわらず、全編を読み終えると、この詩集と繋がれた、という実感を得られた。

わからなくても、わかれなくても、わかるということ

恐れながらもその瞬間を、私、愛していた。自分よりも誰かを信じたくなる瞬間を、愛していた。いつか、あなたにとってそんな言葉が書けたらと思う。私の上を流れる、言葉そのものがそう強く願っている。だからこれからも、私、書いていくよ。
「あとがき」最果タヒ『天国と、とてつもない暇』

はじめて詩を読んだ時、私は文脈を捕捉しようとしたり、一つの言葉に意味を探したりしていた。けれど、詩を読む上で本当に大切だったのは、文章や意味を理解することなんかじゃなくて、ただ私の心がどう動いたかということなのだ。

発信が容易になり、文章に「わかりやすさ」や「正しさ」ばかりが求められる世界の中で、自分の言葉を書くことはとても難しい。
けれど、それゆえに、詩という媒体を通し、誰かが見つけたある瞬間に触れることで凝り固まった“書く私”が救われるのかもしれない。

そんなことを思いながらここまでの文章を読み返し、結局抜け切ることのなかった陳腐さを、今は少し笑える気がするのだ。

2018年、今だからこそ詩を読もう。

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