実家の近所にあったガソリンスタンドのおじさんがイグアナを飼っていて、小さいころは回覧板を回すついでに、よく触らせてもらいに行っていた。20センチくらいある結構大きいイグアナで、名前は付いていなかったと思う。

そのガソリンスタンドは事務所とおじさんの自宅を兼ねていて、私が回覧板を持って事務所のガラス張りのドアの前でボーッとしていると(私は昔から「すいません」のひと声がかけられない)、彼が決まって右手でイグアナを、左手で小鳥をつかんで「来たね」と出てきてくれた。おじさんは動物が大好きで、そのころはイグアナと小鳥をいっしょに飼っていたのだ。

事務所に入ると、おじさんはイグアナのほうの右手を私にすっと差し出して、イグアナの腹を撫でさせてくれた。私は、どうしてだか小鳥よりは、イグアナのほうにずっと興味がある子どもだった。

……と、ここまで書いて考える。
あのイグアナは何色だったろうか。「小鳥」って、何鳥だ。インコ、いや、ジュウシマツだったか。小鳥は、洗車の機械に向かって勢いよく飛んでいったきり二度と出てこなかったと母親にあとから聞かされたような気がするけれど、単なる私の捏造かもしれない。
けれど、もし言い切りのかたちでそう書いたとしても、それが本当にあった出来事なのかどうかは誰にもわからないから問題がない。「インコは私の知らないうちに死んだらしい」では味気ないし、やっぱりちょっと色気を出して、「洗車の機械に……」と書こうか。

猛烈に迷う。曖昧な記憶の前に立たされると、そうやって私はいつも迷う。

感動させてくれない

“中学一年の時、唐突にクラスの友人から「カブトムシの幼虫をもらってほしい」と言われた。理由を尋ねたところ、その友人の弟と父親が山から100匹もカブトムシの幼虫を採ってきたのだという。
私は4匹もらう事にした。友人の家にはあと96匹も残る事になるが、それは仕方あるまい。”

──さくらももこ『ももこのいきもの図鑑』収録、
「カブトムシ(幼虫編)」より

『ももこのいきもの図鑑』を初めて読んだのは小学3年生のときだ。両親がさくらももこの大ファンで、『ちびまる子ちゃん』や『コジコジ』はもちろん、『もものかんづめ』や『さるのこしかけ』といったエッセイまで、さくらももこが書いたものはとにかく片っ端から読まされた。当時は、小学校から家に帰ってくると何かしら新しいさくらももこの本が買われて置いてあるような状況だったので、本好きの子どもだった私はすぐに彼女のエッセイに夢中になった。

上に引用した「カブトムシ(幼虫編)」を読んだ当時、「この友人の家族は、どうして山から100匹も幼虫を採ってきちゃったんだろう」と思った。しかも、友人は結局さくらももこに4匹しか幼虫を引き受けてもらえなかったから、苦労して採ったであろう残りの96匹を、どうにかしてさばかなくてはいけないという窮地に立たされている。

いったいどうするんだろうこの友人、と思いながら読み進めると、話題はなぜかいともたやすく「幼虫があまりに気持ち悪いので、さくら一家の誰ひとりとして可愛がってやらない」という、信じられないような方向にそれてしまう。そこから、幼虫を飼い始めてしばらくするとすこしだけ愛着が湧いてきたので、ときどき頭を撫でてやるという話になることはなるが、冬になると、幼虫は完全にさくら一家に飽きられてしまう。

“放っておく事にするとつい放っておきすぎてしまうのが人情である。私はうっかり四カ月間も放っておいてしまったのだ。もしかして幼虫は死んでいるかもしれない。そう思うと恐ろしかった。生きている姿ですら少し気持ち悪いアノ幼虫が、死体になったらどれだけ気持ち悪いであろうか。
私が幼虫の事で悩んでいると、年下のいとこがやってきて、「100円くれれば幼虫の生死を確認してやる」と言うので即座に100円支払った。100円でこの悩みが解決されれば安いものである。いとこの調査の結果、4匹中1匹だけ死んでいた事が判明した。死体は50円の追加料金にて始末してもらった。こうして150円の出資を機に、カブトムシの幼虫の飼育が再開したのであった。”

──さくらももこ『ももこのいきもの図鑑』収録、
「カブトムシ(幼虫編)」より

「カブトムシ(幼虫編)」はここで終わる。小3当時も混乱したが、いま読んでも同じように混乱する。96匹の在庫をかかえた友人はいったいどうしたのだろう? というか、どうしてさくらももこは最初から「気持ち悪い」と思っているのに幼虫なんかもらっちゃうんだろう?

まったくわからない。わからないけれど、読むと笑ってしまう。『ももこのいきもの図鑑』の文章ときたらぜんぶこの調子で、もらわれてきた動物が基本的にすぐに死ぬ。「いきもの」なんていう、どうしたってセンチメンタルな空気になってしまいそうなテーマを扱っているのに、さくらももこは読者に感動する隙を与えない。同作に収録されている「イヌ」というエッセイなんて、飼っていたイヌが父・ヒロシのオナラを異常なほど喜ぶという、心底どうでもいい話だけをして終わってしまう。
大人になって田舎で見た蛍が美しかったとか、飼っていたジュウシマツが死んでしまって何日も泣いたとか、話題がすこしでもセンチメンタルな方向に舵を切りそうになろうものなら、一行後にはさくらももこ自身がぐっと強い力で、読者をドライな現実に引き戻してしまう。

「コジコジにはムダがない」

ライターの仕事をするようになった2年ほど前、『ももこのいきもの図鑑』を久しぶりに読み返したときの正直な感想は、「すごくおもしろい話と全然おもしろくない話、どっちもあるな」だった。動物が大好きだと公言しているさくらさんなのに、どうして動物を可愛がった思い出とか、付けた名前とか、見た目のうつくしさとか、そういう話をしてくれないのだろう、とも思った。

けれど、さくらももこがとても正直な人であるという印象は、子どものころに増して強くなった。(自分とさくらももこを比べるなんておかしいのだけど)友人がわざわざくれたカブトムシの幼虫について記そうと思ったときに、「気持ち悪い」とか「放っておいたら死んでしまった」とか書く勇気は、私にはない。なんなら、どうにかして幼虫と自分とのいちばんいいエピソードを必死でひねり出し、ちょっといい話っぽく仕立て上げてしまいそうで怖い。

先日、さくらももこが制作・編集をひとりで担っていた雑誌『富士山』を読み返していたら、『コジコジ』のオリジナルエピソードが載っていたことに気づいた。
『コジコジ』は、謎の宇宙生命体であるコジコジとその周りの人々を描いたギャグ漫画だが、このオリジナルエピソードのなかで、コジコジの通う学校の同級生たちは「おかめちゃん」といういつでもクールな女の子に憧れている。皆がおかめちゃんにクールでいられる秘訣を聞くと、彼女は「ムダなことはしないっていうことね」と言う。

恋や人生についてそれぞれに悩む同級生たちのうしろで、コジコジは常に意味もなく大声で歌を歌ったり、まんじゅうを食べたりしている。当然コジコジは同級生たちに「こいつに関わること自体がムダだよな……」と馬鹿にされるのだが、ある日の帰り道、同じくクールな同級生であるドーデスといっしょに通学路を歩いているおかめちゃんが、唐突に問う。

“おかめちゃん「……あのさ ドーデス あなたコジコジのことどう思う?」
ドーデス「ん?」
おかめちゃん「みんなが言うようにコジコジはムダなことばかりしてると思う?」
ドーデス「いや 思わないね」
おかめちゃん「私も同感よ コジコジにはムダがない」”

──さくらももこ『富士山 第4号』収録、「コジコジ」より

これを読んだときに、すこしだけ「そうか」と思った。ほんのすこしだけだが、さくらももこが執拗なほどに感動を避ける理由が、わかったような気がした。

『ももこのいきもの図鑑』を、ふたたび手にとってみる。
子どものころ、縁日で買ってきたヒヨコが死んでしまい、祖母がさくらももこの姉の目の前でその死体を風呂の火のなかに投げ入れてしまったというショッキングなエピソードは、こう結ばれる。

“後日、大人になってから、私は母に当時そのような出来事があった事を話した。母は「本当!? あの頃店が忙しくてわたしゃちっとも知らなかったよ。そりゃ情操教育によくないねェ。お姉ちゃんが今もまだ、どことなく暗い影があるのはそのせいかも……」と言って顔をしかめていた。
しかし私には姉に暗い影があるとは思えない。強いて挙げれば、心霊関係に強い興味を示す事ぐらいである。”

──さくらももこ『ももこのいきもの図鑑』収録、「ヒヨコ」より

私はこの文章を読んでしばらくゲラゲラ笑い、そのあと、さくらさんがこの世にもういないということを思い出してうっかり泣いてしまった。しかし、いくらなんでもこの話はさすがに「ムダ」ではないのか。最後のくだりなんて、死ぬほどどうでもいいじゃないか。
でもたぶん、10年経ってこの本のことを思い出そうとしたら、泣いたことよりも「心霊関係に興味を示す姉」のエピソードが浮かんでくるんだろうな、とも思う。

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ライター:生湯葉シホ

1992年生まれ、ライター。共著に『でも、ふりかえれば甘ったるく』(PAPER PAPER)。飼っている亀が19歳になった。
Twitter:@chiffon_06